見出し画像

 赤い龍虎 - Short Story - 2ー2   (前週の続き・最終回)

いよいよ始まる座頭同士の真剣試合。
使うはともに得意の居合抜き。
互いに恨みは無いけれど、目先の銭に目がくらみ・・・
注・(現用されていない””言葉があります)

釜太郎と前河が土俵のそばに立っている。
義兵が釜太郎に尋ねた。
「あの二人、本当に居合が出来るのか。これだけの騒ぎになってウソでしたではお前も一家も無事ではすまんぞ」

「もう遅うございます。なにせ賭け話しが先走りして一気に盛り上がり、見たことも無いほどの銭が一度にどっと入ってきましたもんで、止めるに止められず」
「あの”めくら”どもが言っておるらしい天道御影流だの神州大富流だの、わしも代官所の者も聞いたことがない」

「まあ、人がおればみな流派ですからな、人の数ほど流派はございますから」
「お前にしては利口そうなことを言うの」
「いつもは利口そうではございませんか」
「そういうわけでもないが」

前河が続ける。
「それと試合に万一のことがあれば総てお前の責任であるからの。わしゃ知らんでの」
「なら前河様には何もせずとも」
「それは話しが別よ。出すものは出せ」
「そりゃちとズルくはございませぬか」
「わしがズルいことは前から知っておろう。儲けは寄こせ」

釜太郎はついクソッと口走った。
「何か言うたか」
「いいえ」
「クソッと聞えたが」
「風のせいでございましょう」
「そうかァ」と前河は釜太郎を睨みつけた。

釜太郎も睨み返しながら尋ねた。
「ところで、お代官様もおいでになるので」
「ああ、『めくら同士の居合の勝負とは面白い。是非見たい』と申しておる」
「ならば土俵が一段高うございますので茣蓙を敷いて、そこでご覧になっていただくのはいかがでしょう。土俵の扱いに困っておったところです。”めくら”同士の決闘に土俵では狭いし、万が一の場合は血も流れますし」
「ああ、それがええ、それなら本人も喜ぶじゃろう」

「ところで新しい代官様については何か」
前河はささやくような声で答えた。
「いまだに前の役職が何だったのかすらわからぬ。何やら裏がありそうじゃが、それにしては時々間抜けなことを言いよる。バカなのか利口なのか総て芝居なのか、さっぱり分からん」

「こちらを調べている気配は」
「少なくとも今はない」
「このまましばらく様子見ですな」
「うん、それがええ、お前も祭りが終わるまで代官所には来るな」
「そういたします」

「そうそう、あの座頭二人、逃げないようにしておけよ」
「はい、子分をそれぞれに一人と他に二人付けて見張らせています」
「二人は別の部屋におるのか」
「いいえ、一緒におります」

「ケンカはしておるまいの」
「何やらぼそぼそと話してはおるようですが、他愛もない世間話しのようにございます」
「生死を分かつ決闘を前にして同部屋で世間話しか、自分たちがこれから何をするか、分かっておるのか」

「さあァ、あの二人のこと、よう分かりません。目がよう見えんので我ら目開きのような恐怖感が無いのかもしれません」
「恐怖感か、なるほどの。まあええ、試合さえ済めば生き死にはどうでもええ、傷が深いときは、お前がトドメを刺してやれ。それが慈悲というものじゃ」

「そりゃ、わしにはちょっと、そういうことはお武家様のお仕事では」
「そんな根性のある奴は代官所にはおらん」
「いえ、前河様が」
「ふざけるな、わしゃ血を見るのが苦手じゃ。女房の月のものでも怖いのに」

「はあァ」と釜太郎はため息のような生返事をした。
「とにかく二人を絶対に逃がすな」
「はい、承知しております」
「しかと申したぞ」
「分かっておりますとも」
釜太郎は怒るように返事を返した。

「それにしても周りの幔幕が紅白とは派手じゃの」
「はい、お武家様の試合ならば白にございましょうが、これが町人の流儀。加えて稲荷大明神様の祭礼の賑やかしとなれば、紅白のほうが似合いますで」

「お前もそういうくだらぬ知恵だけはよう回るの」
「・・・・」
釜太郎は足元の小さな石をコンと蹴ると蹴りどころが悪かったのか、狙ったのか、前河の草履に当たった。
前河は足元を見てから釜太郎を見た。
釜太郎は違う方向を向いていた。

前河が言う。
「こうして周りを幔幕でぐるっと囲み、中に入る者からは木戸銭を取り、賭けをやり、幕外にいる者には賭けをさせるとはの、大儲けじゃな」
前河の言いたいことは分かっている。
自分の手取りも増やせ、ということだ。
辺りを見ているうちに益々欲が出たらしい。
「ようございますとも」

前河の表情が途端に崩れた。
(さもしい顔をしよって、前河の野郎)
と釜太郎は思っているが、前河も(少なかったらどうなるか、俺を怒らすなよ)と思っている。
この二人、仲が良いのか悪いのか、銭でつながっていることは確かだ。

釜太郎も前河のおかげで賭場も試合もできていることは重々承知だ。
「宿場の出入り口五ヵ所にも賭けの高札を立て、すでに宿場挙げての大博奕になっております。噂を聞いて近隣からも旅人から百姓町民までが集まり始めております」
「確かにの、わしもこれほどの人を見るのは初めてじゃ。試合は宿場が始まって以来の見世物になるな」

釜太郎は前河の耳にささやいた。
「これもみな前河様と代官所の寛大なるお心のおかげにございます。無事に済めばお伊勢参りから江戸見物、陸奥への旅までも悠々とできまするぞ」
「おおそうか、まあそう気をつかわずとも良い。ただし先ほど言うたことは忘れるな。わしは博徒の騒ぎには関係ないからの」
二人の乾いた笑い声が空に上がっていった。

 試合の日がきた。

昼前、宿場の街道や通り、試合場が見える屋根の上も人でごった返している。
突然、ドドーンと鉄砲の音が鳴り響くと、続いて太鼓の音が聞こえ始めた。
土俵のそばに建てられた二丈ばかりの高さの櫓で町相撲の相撲好きが大声で叫んだ。

「これより座頭の与吉と同じく座頭の庄吉の真剣勝負じゃ、ともにほぼ”めくら”である。”めくら”なのじゃが、ともに居合抜きが得意で手に持つ仕込みに真剣が収まっておる。”めくら”同士が居合抜きでの勝負じゃ。どちらかが死ぬか動けぬようになるまでやる。どのような勝負になるのか、座頭同士の居合抜きの真剣勝負なんぞ日ノ本広しといえど、将軍様とて見たこともあるまい。これを見ずして賭けずしてあの世には行けぬぞ。見たか賭けたか、末代までも語り継がれる真剣勝負である。存分に楽しもうではないか」
オワァ~~というような大歓声が上がった。

 奥の土俵には代官と供の者の三人が上がっている。
すると女が二人現われともに土俵に上がった。
見物人から声が上がった。
「土俵は女人禁制だぞ」
「コラッ下りろ」
だが代官も女も平気だ。

それを呆然と見ている前河と釜太郎の前に前河の手下が走ってきた。
「前河様、酒の酌をさせるためにお代官が勝手に廓の女郎を呼んだそうにございます」
「自分で勝手にか」
「はい、何でもお代官ご自身がそばの者に言いつけて廓に命じたそうにございます」

代官は土俵の上で酒を飲み始めた。
女は代官の後ろに立って一人はとっくりを、一人は盆につまみらしい魚の干物を載せている。
「お代官様は酒は飲めないのでは」
「そのはずじゃが、代官所では甘酒さえ飲まぬが、飲んでおるなァ」
「どうにも食えないお方ですな」
前河は黙っている。

すると稲荷神社の宮司が土俵に近づいて代官に言った。
「お代官様、女人を土俵に上げてもらっては困ります」
代官はひと言で済ませた。
「黙れ!」

周囲の声も相手が代官ではいつの間にか小さくなった。
大事なのは試合であり、賭けでの勝ち負けだ。
前河が横を見ると釜太郎は束になったおみくじのような小さな紙を数えている。

賭けの紙の半切れで判も押してあり、賭けの証拠のようなものだ。
かなり分厚いがこれでもまだ賭けのほんの一部だ。
賭けの胴元である釜太郎の願いはただ一つ、試合が早く終わって莫大な銭が自分の手元に残ることだ。
土俵の女も酒も与吉と庄吉の命も、もうどうでもいいと思っている。

前河が釜太郎に袖で合図した。
釜太郎がばっと顔を上げると代官が自分を見ている。
釜太郎は代官に言上した。
「支度は整い刻限となりました。お代官様、お願い申し上げます」

すると代官は「うん」とうなづき、パッと扇子を広げると行司役の侍に命じた。
「試合を始めい」
行司役が大声で叫んだ。
「与吉と庄吉、出ませえェェ~」
ウワ~と地鳴りのような声が上がった。
左右から与吉と庄吉が仕込み杖を持ち、釜太郎の子分に手を引かれて現われた。

二人が頭を下げると代官はうんとうなづき、二人に言った。
「真剣勝負じゃ。この試合に引き分けはない、どちらかが死ぬかどちらかが動けぬようになるまでは終わらぬ。勝った者には賞金の他にわしからも褒美を取らす。”めくら”同士の真剣居合抜きの試合、しっかりと見届けてつかわす。逃げたら許さんぞ」
代官も陰で賭けており、座頭の命に興味もないらしい。

代官がアゴで合図すると行司役が大声で二人に叫んだ。
「わしの一、二、サン、の合図で始めよ」
二人はこっくりとうなづき、合図の言葉を待った。
「一、二、ノ~ォ」
試合場は一瞬総ての音が消えて静かになった。
二人は柄に手をかけた。
いつでも抜ける。

ところが「サン!」が出てこない。
行司役は大緊張していた。
誰もが拍子抜けしたとき、いきなり「サン!」と言った。
調子が狂った与吉はつんのめり、庄吉は地面に手をついた。

代官が行司役に怒鳴った。
「バカモノ!それでも侍か」
試合場には怒声よりも笑い声があふれた。
与吉と庄吉は何とか態勢を立て直したが互いの向きが変わっている。

与吉は右を向き庄吉は後ろを向いている。
代官が怒鳴った。
「向きを合わせてやれ」
釜太郎の子分が走り出て二人をまた向き合わせた。

与吉が行司役に言った。
「最初からですかい」
行司役が答えた。
「相すまぬ、拙者も初めてでの、最初からやる」

代官がまた怒鳴った。
「一二三は要らぬから『始め』だけでよい」
「かしこまりました」
試合場には「はようやらんかい」などと野次が飛び始めた。

行司役は軍配を二人の間に浮かせながら言った。
「双方良いか」
与吉が怒鳴った。
「さっきから良いわ!」
沈黙・・

「始め!」
ウワァ~とより大きな地鳴り。
櫓に上がっている相撲好きが解説混じりに叫ぶ。
「二人の間はおよそ二間、向きは良いぞ、ぞのままそのまま近づけ」

二人はじりっじりっと接近している。
すると行司役が言った。
「間は一間になった。向きはええぞ、そのまま、そのまま」
二人は柄に手をかけ、うつむき気味ににじり寄っていく。
与吉は下から斬り上げるように低く低く、庄吉は横から斬りさくように中腰で迫っていく。

試合場が一気に静かになった。
もうすぐどちらか、あるいは両方が血を吹くのだ。
それも居合抜きだ、まばたきなんかしてられない。
すると二人の動きが止まった。

間は半間ばかり、抜けば互いに十分相手に届く。
なのに二人は案山子のように固まっている。
すると見物人が煽り始めた。
「どうした、さっさと抜け、抜くだけで斬れるぞ」

見物人は好き勝手なことを言うが、二人はじっとしたままだ。
互いに相手の姿がおぼろに見えているか、その影は感じ取っているらしい。
行司役は間がもてないのか、大声で囃し始めた。
「さあ、どっちが早いか、与吉か、庄吉か。丹田に力を込めて先に抜いたほうが勝ちじゃ、抜け」

しかし二人は背を低くしてじっと構えながら相手の動きを見ている。
白い雲がさっと流れていく。
上のほうは風があるようだ。
二人の着物の裾が揺れた。
同時に二人が斜めに一歩摺り出して叫んだ。
「イヤーァ デヤーァ」

代官は立ち上がり、そしてまた座った。
二人は柄に手をかけたまま、抜いてはいない。
二人は背が一段と低くなり、地べたに這いつくばるダンゴ虫のような姿になって横に並んでいる。

そのまま与吉がいざるように前に出た。
二人は完全にすれ違っている。
行司役が近づくと、それを狙うように与吉が叫んだ。
「デヤーッ」
行司はおどろいて後ろへぶっ飛んだ。

そして与吉は右足を少し上げて地面をトンッと踏んだ。
二人は腰を上げ、数歩下がってゆっくりと背を伸ばした。
二人は柄には手をかけたままで、互いに逆を向いている。
行司役が立ち直り、土のついた裾を払いながら言った。
「どうした、逆を向いておるではないか」

二人は黙っている。
代官もみなもイライラし始めた。
釜太郎が代貸しに合図すると代貸しが二人に近づき言った。
「おい、二人とも、さっさとやらんか、岩壁一家に恥をかかせる気か、さっさと勝負しろ。向きをかえろ」

すると代貸しの言葉も終わらぬうちに庄吉が代貸しに向けてイヤァーと叫んで抜いた。
キラッと光ったのはまさしく真剣だ。
見ると与吉もすでに抜いている。
二人の剣が陽を受けてキラキラ光る。

 庄吉は剣を静かに鞘に戻すとそのままの姿勢で誰に言うともなく大声で言った。
「休む。与吉も休め。最初の出だしに調子を狂わされた」
「わしもじゃ。命がかかっておるのに、あれでも侍か」
代官は行司役の侍を睨みながら二人に命じた。
「どうでもええから、さっさとやれ」

だが庄吉は釜太郎の手下を呼んだ。
「与吉と休むで手を取ってくれ」
代官は怒った。
「休むな!さっさとやれ」
与吉が言った。
「俺たちは辻斬りではない。めくら同士の真剣勝負じゃ。こっちは命を賭けておるのに不慣れな侍に行司をやらせおって。少し待て」
代官は苦り切った顔で押し黙った。

釜太郎が言った。
「二人で休むんかい」
今度は与吉が答えた。
「そうじゃ、休むよ」
見物人も騒ぎになった。
だが主役は与吉と庄吉だ。
二人が休むといえばどうしようもない。
さすがの代官ももう言葉が出ない。

代官はチッと舌打ちしながら庄吉に言った。
「どうしても休むのか」
「休んではならぬとは聞いておりませぬ」

与吉も庄吉に合わせた。
「居合は一瞬のもの、行司役の不手際で気分がそがれてございます」
代官は前河に言った。
「おい、線香を持ってこい」
前河はそばにいた稲荷神社の禰宜に『線香を』と命じると禰宜は走っていった。

代官が二人に言った。
「線香一本の休みとする」
庄吉が言った。
「二本にしてくだされ」
「二本は永い、永すぎる」
「元はといえば代官所の不手際にございましょう」

「何もかもこっちのせいにするな」
「こっちは命がけですぞ」
代官はどうも言い返されると気弱になるらしい。
「なら二本でよい。次は必ず勝負をつけろ」

 試合は一時の休みとなった。
だが試合場にはさほどの騒ぎは起きていない。
庄吉が行司に向かって抜いた真剣の光りをみなが見ていたからだ。
あれが無かったら騒ぎになっていたかもしれない。

与吉と庄吉は幕の陰に入った。
二人には見張り役がついたままだ。
庄吉が大きな声で言った。
「ションベンにいく、仕込みを見ておいてくれ」
庄吉は裏の藪に入った。
もちろん見張り役も後ろについている。

その声を聞いて与吉も催したらしい。
「わしは大のほう」
と言いながら着物の帯を解きながら見張役とともに藪に入った。
藪の中にも見物人があっちこっちにいる。
見張り役たちはそれもあってのんびりしている。

しばし、二人は中々出てこない。
間の前にいるはずなのに、臭いもしない。
「与吉ィ」「庄吉よォ」
問うても声がない。

見張り二人が青い顔で戻ってきて釜太郎に言った。
「与吉が消えました」
「庄吉がいません」
「二人で示し合わせたのか」
「さあそれは」

大騒ぎになった。
試合場どころか宿場が大騒ぎになった。
代官は激怒した。
「探せ、どうせ”めくら”じゃ、遠くへは行けまい」
前河が叫んだ。
「二人を連れ戻した者には褒美を取らせる。目が見えぬゆえ遠くへは行けぬ、探せ」

前河が言った。
「二人とも仕込みは置いたままであろう」
「はい」
「持ってこい」
代官も前河も釜太郎たちもみなが二人の仕込みを見た。

「仕込みも捨てていくとはの」
前河がスッと仕込みを抜いた。
黙って見ているうちに身体が震え始めた。
釜太郎が問うた。

「前河様どうされました」
「こ、これは二束三文の安物じゃ、刃すらも削いである。研いで油をひいただけ。剣に見せているだけの鉄くずじゃ」
「与吉のほうは」
「こっちは刃が厚くて人は斬れん。殴るなら使えるがの。二本とも脅しに使うだけの偽物じゃ」

釜太郎は青くなって代貸しに言った。
「お前、銭は大丈夫か、見てこい」
代貸しはすぐに真っ青な顔で帰ってきた。
半泣きだ。

「お、親分、若いもんが二人倒れていて、小判が入った大袋だけが見当たりません」
「銭を守っていた用心棒の膳場さんはどうした」
「そ、その膳場さんもいません」
「な、なんだとォ」
釜太郎は頭の中で何かが切れたような音が聞えた。

もう試合どころではない。
釜太郎はフラフラしながら子分たちに命じた。
「探せ、徹底的に三人を探して連れ戻せ」
前河が独り言をつぶやいた。
「三人ともグルか、まさか」

「分かりませんが、与吉と庄吉の二人は遠くには行けますまい。あいつらを取りあえず捕まえて試合だけはさせねば」
前河も言った。
「我らも人を出す。しかし手間賃はもらうぞ」
釜太郎は一瞬考えた。
(このヤロー、また吹っ掛ける気か)
「ようござんす、お願いします」
と答えるしかなかった。

試合場にも伝えられた。
「三人が逃げた。用心棒の膳場も銭を持って消えた。三人を連れ戻した者には礼をはずむ、探してくれ。二人は目がきかぬで遠くへは行けん、じゃが日が暮れればやつらのほうが上手じゃ、日暮れまでに連れてきてくれ」

見物客が釜太郎に怒鳴った。
「俺たちの払った賭け銭は返してくれるんじゃろうの」
「試合は一応は開いたで返せぬ」
「そんなバカなことがあるか、ふざけるな」
「仕方あるまい」

前河が釜太郎に聞いた。
「銭は返さぬのか」
「返しませぬ。試合は一応は開いたのですから、返しませぬ」
すると小石が飛んできて釜太郎の頭に当たった。
他にも砂や泥や枯れ枝が飛んでき始めた。

段々と陽が傾いてくる。
釜太郎は頭をなでながら焦っている。
代官は無言でいつの間にか代官所に戻った。
宿場ではケンカが始まっている。

釜太郎たち岩壁一家と前河の手下たちだけが試合場に残っている。
辺りは見物人が怒り混じりに投げたゴミや瓦や中には大小便まであって大汚れだ。
釜太郎の手下たちや宿場の者が掃除をしている。

 そこへ前河が酒の匂いをさせながら戻ってきた。
誰も何も言わない。
釜太郎が皮肉っぽく言った。
「よろしいな、前河さんは酒を飲む余裕があって」

前河はケッとつぶやきながらぼそっと言った。
「今しがた聞いた。膳場が間道の峠道を大汗かきながら走っておったそうじゃ」
「何ですと、膳場が」
「そうよ、背中に荷物を背負っていたらしい」
「親分、追いかけましょう」

前河が言う。
「もう遅いわ、いまさら追っても無駄じゃ、向こうは端から逃げる気であったようじゃ。行司役の不出来はあいつらには好都合であったらしい」
「なぜそう言えるので」
「膳場の後ろを二人の男が背中に荷を背負って走っておったそうじゃからの」

「二人ってまさか」
「そのまさかよ、与吉と庄吉よ」
「なら三人はグルで」
「ああ、ひっそりと話し合い仕組んだのであろう。最初からか、それとも途中からその気になったのかは、分からぬが」

「でも膳場はともかく、二人は目が」
前河は面倒くさそうに天井を見上げながら言った。
「その与吉と庄吉じゃが、膳場のすぐ後ろを目をひんむいて必死で走っておったそうじゃ」

バタッと音がした。
釜太郎が土間に倒れていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?