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大学の同級生が自殺した話

彼とは大学で知り合った。彼は病んでいて、僕は適当に生きていた。
大学生の僕は実家から車で1時間ほどの大学に通っていた。一応国立大学ではあったが、夜間主コースという夜の部だ。

この夜間主コースというのは、なかなか良いところで、ちゃんと通って単位が取れれば4年で卒業できるし、受講したければ昼間の授業も受講して単位認定してくれた。

夜のほうが偏差値も低く入りやすい。入ってしまえば同じキャンパス、設備で同じ先生の授業が受けられる。そして何より学費が安い。昼間の半額だ。私の学校は年間25万円だった。僕は卒業生として皆様に夜間主コースという選択肢はアリだと言っておく。

周りの学生も一般学部生とは別の空気があり、大学生!という浮ついた空気はあまりなく、どちらかというと淀んだ感じの学生が多かったと思う。そもそも、同じ学部・学科であっても昼と夜で偏差値が10近く違うのだ。皆がサークルで楽しんでいるときに、黙々と講義を受けるのだ。そんな中、偏差値が10も上の昼学生と一緒にキャンパス生活をエンジョイはできまい。

そんな学校生活の中で、何人かも友人ができた。今回の話題に上げる彼も、その中の一人だ。

僕と同じ学区の高校からの進学者だったが、彼は学区内トップ進学校の落ちこぼれだった。僕のようにケセラセラと流れ着いたのではなく、いろいろな事情で仕方なく落ちぶれた男だった。真面目な男だが、要領が悪く、トップ進学校の授業についていけなかったのだ。

ちなみに、淀んだ大学での仲間というのは、気が合うとか、そういうポジティブな理由で友達になるのではない。なんとなく一緒にいる時間が長くなり、なんとなしにグループになってしまったのだ。流れ着いたもの同士は、そんなものだと思う。一部の淀んだ方々にはご理解いただけるはずだ。

そんな彼は、大学から車で10分程度の広めなアパートに弟と一緒に住んでいた。彼のアパートには輝かない仲間たちがいつも入り浸っていたし、居候もいた。僕も大体彼のアパートで寝ていた。最初は全く気が付かなかったし、気にもしていなかったが、彼はいつの間にか精神をやんでいたようだ。

精神科に通い、ブラックニッカを4Lペットボトルで常備して、昼夜逆転でゲームに勤しんでいた。彼がエンドレスで東方(PCのシューティングゲーム、一部界隈でとても人気)をやっている姿は、僕の脳裏に焼き付いている。彼のせいで、東方のゲームは全くやらないが、音楽は結構聞くようになってしまった。

そんな状態の彼は、学校に行ったり行かなかったり。1年ほど休学もしていた。当然に4年では卒業できるはずもなし、ズルズルと留年を繰り返していた。

僕らのグループには4年で卒業できたやつは全然いない。僕はとあるトラブルで、彼は精神を病んで学校に行かなくなった。学校は、ちゃんと行かないと単位が取れないので当然に留年する。

僕の通っていた大学は3年から4年に上がるタイミングで単位数の条件があり、僕と彼は3回も3年生で足踏みしていた。流石に3留して7年学部に通ってしまったのは僕と彼だけだ。

7回生となった僕と彼は、今までにない連帯と助け合いの精神を発揮し、お互いを学校に引きずり合って通い、ノートを共有しあった。僕は彼の家にニトリの布団セットを持ち込んで居候しながら学校に通い、なんとか卒業を勝ち取ることに成功した。

せっかくなので卒業式にも参加したが、同級生が誰もいない卒業式は、本当につまらなかった。いま大学に通っている学生さんは、ちゃんと流れに乗ってスケジュールどおりに卒業したほうが良い。「あいつ、結局何者だったの?」という目を向けられ続ける卒業式は経験しないに越したことはないのだ。

大学を卒業 僕は東京に、彼は車上生活を始めた


さて、卒業することに全気力を振り向けた僕と彼は、就職活動までは手が回らなかった。本当に、一切なにもしなかったと言っていい。僕はバイトしていた東京の派遣会社のような会社にそのままズルっと入り込み、彼はアパートを引き払い、とりあえず実家に帰った。

結果的には、お互いに良い選択肢ではなかったと思う。流れ流された結果、僕も彼も住込30連勤という人生が黒光りする経験を積むことになった話はまた別の機会に書き起こすつもりだ。

僕と彼は、お互いに友人だと思っているのだが、連絡はほとんどしない。2年に1回程度、メールをし合うくらいの関係だ。だから、お互いにどんな生活をしていたのか、ほとんど知らない。卒業後、僕は東京に、彼はお母さんが始めたパン屋さんを手伝い始めたらしい。

精神をやんでいた彼にとっては、なかなか良い職場だったと思うが、母親とはあまり上手くは行かなかったようで、2年ほどで家を飛び出してしまったという。

オンボロセダンに寝袋を積み込んで車上生活を始めた彼は、職務質問されづらい場所や安く風呂に入れる店などの知識をぐんぐんと深め、意外に適合してしまったようだ。

僕が会社をやめて実家に戻ってきたときに、彼と数年ぶりに再開し、ラーメンを食べながら近況を話し合ったが、彼はまぁまぁ楽しそうだった。何にも縛られない生活を結構楽しんでいたようだ。

そんな彼も、生活費を稼ぐためにガソリンスタンドでアルバイトを始めた。僕は、ちょうど仕事をやめて一時的に実家に帰っていた時期で、何度か彼がアルバイトしているガソリンスタンドに行っては、元気な様子を見ていた。

流石に車上生活はやめてアパート住まいをしていたが、しっかりと自活していたので安心した。僕はまた就活を失敗し、前の会社の取引先から声をかけられたのでそこに就職して東京に戻った。

それから4年ほど経った

30歳になり、結婚する友人も出てくる。結婚式には僕も彼も呼ばれる。

そのタイミングで彼と再開したが、全く変わらない様子に彼が病んでいたことはすっかり忘れてしまっていた。だが、彼は真面目な男だ。真面目だからこそ病んでいたのだ。忘れてはならなかったのだ。

結婚式のとき、彼は仕事がかなり忙しい、今で言うブラック状態であると言っていた。ブラックな職場に真面目な男という組み合わせは、誰がどう考えても危ない組み合わせだ。だが、そのときは僕自身もブラックな職場環境だったために、常識は遥か彼方に飛んでいた。

そして彼は自殺した 理由は今では不明だ

さらに数年たち、僕がなけなしの度胸と余暇を投じて婚活をしていたとき、具体的に言うと捕まえた女性とディナーにチャレンジしていた時に、普段ほとんど連絡してこない友人から電話が入った。久しぶりの連絡に嬉しくなり、陽気に電話に出たのだが、友人は暗い声で彼が自殺したと伝えてきた。

ぼくは、そこでやっと「ああ、そういえばあいつは病んでいたな」と思い出した。僕は薄情なやつだ、そしてそれは普通のことでもある。

なんで自殺したのか、はっきりとした理由は誰にもわからなかった。遺書もなく、前触れもなく自殺したのだ。精神科に通っていたようだが、自殺を匂わせるような経過もなかったそうだ。ただ、状況からみて自殺なのは間違いない。ただ、事件性がないことが確認できるまでは遺体は警察にあり、彼の葬儀は自殺してから数日が経ってからだった。

葬儀には友人連中も数人来ていた。全員大学での友人だ。会社の友人などはおらず、彼の交友範囲が伺えた。遺影はかなり前の写真で、生前の彼を偲ぶための写真は数枚しかなく、彼の家族はその事実自体をすごく悲しそうに語っていたし、僕自身も悲しかった。

僕と彼は2年に1回くらいしか連絡を取らない仲ではあるが、彼にとっては僕が一番の友人だったのだ。この事実もとても悲しい。葬儀の友人代表挨拶は僕が担当した。ああ、僕の他にはいないだろうな、当然僕がやるんだと理解していたし、他の友人も当然に僕が弔事を読むと理解していた。すごく悲しい。

この文章を打ちながら、当時準備した弔事を読み返してみた。

「でも、次に会えるのはとても先になるでしょう。そっちに行ったら、またコタツを囲んで、鍋をつつきながら、お酒を飲みましょう。その時まで、さようなら。また合う日まで」

と書いていた。

まぁ、いまでもそんな気持ちだ。彼とはまた会いたいなぁと思う。そのときには、なんで自殺したのか聞いてみよう。その時まで、さようならだ。

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