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他人が語る自分語りをストーリーぽくしてみたい

ことばって毒のような気がしてて、出したら気持ちいいけれど、出しすぎると相手を縛ってしまうこともあるし、かといって何も話さないと、他者との関係も作れないし、難しい。このように悩むのは馬鹿らしいかな。とも思いながら。そして、そしてことばが苦手というものあるけれど、そもそも文章を描きたいけど描きたくない。会話は相手のフィードバックが見ることができるから、会話を途中で切れるし、引っ込められるけれど、ひとりで描く文章はフィードバックがないから怖い。嫌われたくないけれど嫌われたらどうしよう。という気持ちになったりする。エッセイマンガも同様な自身と自身の駆け引きがあって、これ描いたら嫌われるかな・・・と思う自分がいる。多分、自分を意識して語るのはまだまだ先である。

話は変わって、クドカンこと宮藤官九郎さんの「俺の家の話」は起承転結の転が誠に巧みでだった。騙された。イリュージョンだった。ストーリーや流れのデングリ返しだけではないところがまた、すごい。わたしが一番気になったのは、伝統や文化の美の難しさを簡単にしていたところだ。能の伝統や美しさ、レスリングの文化や美しさは、ある人にとっては受け取ることが難しいものがある。けれど、ストーリーのなかで魅せることで、切り取る部分が明確で簡易的なものになるから、見方の慣れていない人でも、その文化で培われた美しさをなんとなく分かった気持ちにさせる。美を分かった気持ちにさせる気持ちのいい演出だった。

そんなこんな考えているうちに、クドカンさんと又吉さんの対談がYoutubeに流れてきた。又吉さんは圧倒的に自分の考える面白い奴イメージを明確化されていて、そこに向かって磨きあげていくタイプの方だと初めて知った。鑑賞者(私)はまんまと騙されていた。細くて不健康でだるそうなのにお洒落で知的な人・・・ではなくて、スポーツマンでエネルギッシュで戦略家だった。そんな又吉さんのイリュージョンに少し嫉妬した。又吉さんは自分の作品が大好きらしい。自己肯定感がすごく高い人なのだった。これにも少し嫉妬し、勝手に絶望した(笑)。対して、クドカンさんは自分のことが好きではないそうだ。そこでクドカンさんのキャラクターの描き方に納得してしまった。又吉さんは作品の登場人物を自己投影型の描き方をするのに対して、クドカンさんはあくまでもキャラクターは他人である。クドカンさん作品のキャラクターのいじり方が結構、やりすぎ、ギャグすぎる、少し意地悪だなぁだと思っていたのだけれども、その理由に納得した。自分が嫌いだと自分が弄りづらい。自虐したのになんだか、面白くない話になってしまう。街でみかけた不思議な人を分析しキャラクターにしたりするそうだ。クドカンさんは他人をどう弄るか、その弄った人をどのように楽しませるかが彼のノウハウなのかもしれない。また、そこに愛を感じる。

自分が苦手なのに、自身を語るものなんだかなぁと思っていたので、他人を語るのも面白いかなぁと思ったり。けれど、他人を語るのもその人を評価したり、弄ったりしなければならないので、なんだか失礼なような気もしている。(今回話に出してしまった又吉さん、クドカンさん、ごめんなさい。)だからこそ、存在しない他人をストーリーとうメディアを使って他人や自分を投影するのかもしれない。ことばを書いたり、発したりした後、自分っぽさが滲み出てしまってなんだかすごく嫌で気持ち悪いけれど、その瞬間は気持ちがいい。noteが身近なのもそうゆう理由なのかもしれない。ストーリーぽい他人の自分語りのnoteを増やしてみたい、なんて思った。

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