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20679人/30327、映画『名付けようのない踊り』~668日目

 都内新規感染20679人/30327、都基準重症者38人(∔)、死亡4人
 病床使用率53.1%(3671人/6919床)、都基準重症者用病床使用率7.3%(37人/510床)
 都が緊急事態宣言発出要請に新基準。医療提供体制「重症病床使用率30~40%」、社会経済活動「新規陽性者数の7日間平均2万4000人」の2つの要件を満たした場合とするという
 ※追加 全国の感染者、累計300万人超

 えーと、節分だっけ、恵方巻?
 あれ、北京オリンピックって、微妙に始まってる???
 それより今日は自分の〇〇pay記念日。おそるおそる初使用。で、無関係と思ってた八百屋のレシートさっきみたら「〇〇pay使えます」。うわー。

 21年衆院選で2例目の「違憲状態」判決、大阪高裁。議員1人当たり当日有権者数が最少の鳥取1区と最多の東京13区の格差は2・08倍。前回17年衆院選の1・98倍よりも最大格差が広がった。

 1月)27日~28日未明、沖縄県警沖縄署(沖縄市)周辺に若者数百人が集まり投石などした騒動。27日未明に17歳男子高校生運転のバイクと警察官が接触する事故があり、「高校生が警察に警棒で殴られて失明」とSNSで拡散したことが発端といい、今も警察と少年の話が食い違うという。
 警察は「暴走行為取り締まりの警察官がバイク運転中の少年に職務質問で制止を呼びかけた際に接触してケガをした」と発表。が、少年の親族はメディアを通し「単独事故ではなく、暴行によるもの(入院中の本人は)走行中に警察官にいきなり棒で殴られたと話している」。少年は右眼球破裂の重傷で現在も入院中。
 1日)熊本県産アサリの産地偽装問題。農水省が「熊本県産の97%で外国産が混入している可能性が高い」と発表。中国産に表記変更も。熊本県産アサリは、全国シェア約8割を占めるという。

映画『名付けようのない踊り』を1200円で観た。

 映画『名付けようのない踊り』(犬童一心監督)1200円(割引デー)で観た。。観たのは昨日だが、2つの身体を動かす用事の間に見て、帰宅したら疲労困憊。コロナ禍になって以降恐らく初めて服のまま寝た(しかもその前に食べた🐷)。で、書けず。今、書いてみよう。
 田中泯、の映画だ。踊りに詳しくなく、ライブでも観にいかない自分が田中泯を知ったのは、おそらく世の中の大多数と同じ、2002年の映画『たそがれ清兵衛』(山田洋次監督)である。その後多くの映像に出ているが、昔はすっぽんぽん(裸体)で「踊り」やってたんですね。。 

おじいさんの踊り、何が悪い

 で、だ。そもそも踊りはわからない。田中泯の踊りがいいと言われても、この映画を観た後も、あい、ライブで観てないし、を付け加えても「おじ(い)さんが、まるである種の障害者のように(この表現をあえて使う。では、自分は障害者ではないのか、人間はみんな健常者で障害者でないかという問いも含めて)身体を動かしている」というのが、自分の感想だ。嘘はつけない。わかったふりはよそう。
 おじいさんの踊り、何が悪い。田中泯にか、私にか。

場踊りと即興って同じなんか、違うんか

 場踊りと即興って同じなんか、違うんか。問うてはいかんのか。

パンフ1000円(脚本付き)

 そのうえで、書く。
 あ、パンフ(1000円)買った。上映中気になった言葉は暗闇の中で手元を見ずにメモっていたが(よくやる)、このパンフに脚本載ってるやんけ。まあ、いい。自分の気になったポイントは、手の動きが覚えている。

基礎を身に着けた男

 田中泯は1945年生まれ。クラシックダンスとモダンバレエを10年間学んだというので基礎はできている。この「基礎」を学ぶのはおそらく大事で、画家のゴッホとかピカソとかいうけど、あの人たちも、基礎を学んだうえでの崩しだし。完全な独学、は実はあまりない。建築の安藤忠雄は「経済上の理由で大学には通えなかったため建築の専門教育は受けておらず」とwikiにあるが、かなり苦労して基礎を身に着けたはず。あと、田中角栄は小卒と言われるが、中央工学校という専門卒だ。

 で、その、ダンサー的なつくりを、彼はあえてはぐ。
 土方巽に師事し、すっぽんぽんの踊り(夢の島でごみにまみれたとか)の後、40歳で山梨県に移住し、農家を始める。ダンサーのための身体作りでダンスしても仕方ないので、農業で作った身体で踊る、という選択。へー。

 さて、そのパンフ脚本を見返しつつ、から印象に残ったこと。

「専門家の身体」を辞める、その稀さ

1.訓練された身体を元に戻す、あるいは、あえて専門家の身体を辞める
 
演劇のプロアマ論を日頃考える自分としては、非常にここが興味深い。
 アマにプロの演技はなかなかできないが、プロもアマの演技はできない。一度「プロの身体、しぐさ」を身に着けたら、アマには戻れない、という意味である。そう簡単ではない。演劇のアマには、演劇のプロが生きた時間を、別の世界のプロとして生きてきているのだ、なめてはいけない。
 しかし、田中泯は、一度身に着けたそれをはぐのだ。
 
そう、簡単ではない。40歳で農業の身体への試みを始め、57歳で『たそがれ』に出演したので、17年間かければできたかな。で、今は76歳(1945年3月10日生まれ=東京大空襲の日に生まれた)、だから、36年間かけたから、多分できてる? 「専門家の身体」を辞める、という選択肢をあえて選び、かついまだに世間の評価をもらえる人はそうあるまい、その意味で稀、稀有な存在である。

「専門家いなかった」泯は言った、パンフ脚本にはない

 で、あ、そうそう。……と思ってパンフ掲載の脚本を見返すが、自分の記憶のある田中泯の言葉が載っていない。あれ?
 「言葉より踊りの方が早かったと思うのだ」と言う台詞は脚本に一か所あるが、記憶ではその前に一回、計2か所で触れた。その前の時に、泯が「(その頃=言葉より早かった踊りの頃)専門家なんでいなかったしね」と笑った瞬間が強く印象に残ったはずだが、パンフにはない(見つけられてないだけかもしれないが)。

 しかし、見よ(偉そうに)。映画館の暗闇で手元を見ずに書いた吾輩のメモには痕跡があるなり。
 「ダンス、言葉の前。専門家ほとんどいなかった」

 別にパンフの脚本は一部省略もあるだろうからそれは構わんが。やはり、自分の感覚で記録を残すことは重要である。
 さて、その「専門家なんて(ほとんど)いなかったしね(てへ)」のいう田中泯の笑い?は、「専門家と称することの意味」を改めて問うのだと思う。「専門家の身体」を辞める、ことをした泯の意図を想う。

土方巽「全て言葉だった」……言葉

2.言葉で伝える
 田中泯が師の土方巽について語る。
 「自ら動いて見せることは一切しない。全て言葉だった」「言葉ではあるんだけど、その言葉を、自分自身で、ある種感覚としてとらえ切らなきゃダメなんですよ」…「自分の身体がそれをどう捉え、どう感じ、それを、表そうとするかがもう踊りなんだよっ、て(土方が)言うんですよ」
 
 そう、そうなんだ、と自分は勝手にピーンと来た。
 日頃から、話す相手の身体に言葉がどれくらいしみ込んでいるかを、無意識に、いや、気づいた時からは嫌みにおそらく意識的に、測っている
 ある議論、討論をする時に、それはあふれ出る、自分の不足も含め。

この人は言葉が少ない人、とか偉そうに思っている

 そして、演劇のワークショップの際、それはあからさまだ。講師が、その身体に言葉をどれくらいまとっているか。自分がどれくらい、それを理解できるか。
 例えば、ある講師が口で説明していてそれが上手く伝わらず、「ああ、こんな感じ」と、前に出てきて、自分でやってみる。「ああ、そういうことか」と納得したりもする。
 一方、それは、申し訳ないが、講師に言葉の引き出し、ボキャブラリーの貧困から来ているのかもしれない、と何度かそういうことがあった後では思うのだ。身体表現の場合はある程度仕方ないと思っていたが、土方が田中泯にそうしたのであれば、言葉で伝えること、相手の世界を下手に限定せず想像力に任せる手法は有効なのだ、その方法が自分は好きだと改めて感じる。
 脳内の思考は、基盤となる言葉がないと、より複雑な構築はできない。たとえば「痛い」「熱い」「怖い」「気持ちいい」「眠い」など五感から脳に通じる感覚はある意味単純だが、そこから積み上げていく思考(形而上的というか)は言葉がなければ、もうどうしようもないのだ。
 以前に勅使川原三郎の踊りを観にいき、難解で寝たが、記憶にあるのは、勅使川原が本をたくさん読み、多くの言葉が思考となりまた言葉となりまた思考となり身体を巡っている人、ということだ。それを思い出した。久々に観にいくか。

 そして、自分は。日頃、この人は言葉が少ない人、とか偉そうに思っている。思ってもいいのだ、というか、思いは止められない。その思いを外に出して他人を傷つけることがなければいいのだ。顔に出るかもだが、そこは我慢。

その言葉は詩か、散文か、ふたつにひとつ

 その言葉詩か、散文か、ふたつにひとつ。
 自分は散文系の人間だ。
 詩も散文も両方OKな人って……いるのかな。脳みその構造が違う気がするのだというか、言葉のそもそものとらえ方、脳へのインプットの仕方が違うんじゃないか。

観客が田中泯と対等だった、その間にダンスがある

3.観客が田中泯と対等だった。その間にダンスがある
 最初から、田中泯より、それを観ている観客のドアップである。意図的なことがすぐわかる。
 そして、泯が「(踊りとは)見ている人と私との間に生まれる」と言い(これもなぜかパンフ脚本でなくパンフ田中泯インタビューで再確認)、ああ、そこが劇場なのだ、と思った、ぱっきーん!
 
日頃から、「劇場とは何か、劇場とはどこか」も考えている。その、一つの答えが、ぱっっきーん!

客観視する目

 あと、気になった言葉。
 「ぼくの裸体舞踊は、パリの人々の知識の素材になった
 「芸術になる前の踊りを探したかった」
 すごいね、知識の素材になったって、自分をものすごく遠くから見てる。いい。

「個人のせいにしないシステム」の外にいる変なおじいさん

4.田中泯は「(個人のせいにしない)システム」の「外」にいる、と考える。ただし、若手や後進を育成しようとすると、それはもうシステムだ。
 誰かが最近言ってた「システムは、個人のせいにしないためにある」という言葉が浮かんだ、から書く。それは、会社の仕事、とか、まさにそんな感じ。その言葉が出た時の文脈では、システムが個人を追い詰めることへの批判だったと思う。
 田中泯はつまり、勝手にやっているのだ。追い詰められてもいいのだ。全て自分のせいと引き受ける覚悟のもと、踊っている。それは、集団創作とは違う色合い(泯も、形のうえの集団創作はあるかもだが)。やはり、変なおじいさんなんだ。それでいいのだ。
 「育成」は、その個人の外に生えたシステムだから、その時の泯はきっと異なる。

結局は、犬童一心監督の作品

5.結局は、犬童一心監督の作品。ま、当たり前なんだけど。
 田中泯を描いた映画だが、あくまで、犬童の描いた構図で切り取った田中泯だと、自分に言う。騙されないぞ。何ににだ。

 あと、ここから派生していろいろあるけど、それはまた機会あれば。実は昼アルコールで既に弱い。
 あ、一個だけ。踊りから離れて、演劇で。

「芝居なんて誰でもできるよね、てへ」の精神があるか

 これまで、芝居を「教える(教えられるのか?はさておき)」「教えようとする」人たちの中に、「言葉の世界があまり広く深くない人」を、自分は勝手に見つけてきたように思う。嫌な奴だ。自分。
 それをバカにしているように見えて嫌われたのかもしれないな。

 で、それを自覚しているか。
 芝居なんて誰でもできるんだ。
 「芝居なんて誰でもできるよね、てへ」の精神を持った上で、熟達者、先達者として何かを伝えようとする人、中でも言葉の世界に広がりと深みのある人から自分は学びとりたいと思う。
 芝居を、演劇をすることで「救われた」人は少なくなく、逆に壊れた人もいようが、その「救われた」経験から……「教えてあげたい」「教えてあげよう」にベクトルが動く前に、自分を客観視してるか、自分はいまだ「社会的包摂」を受ける側にいるかもしれないのだぞ、と問うてみたか。ああ、嫌な奴だ、自分。「教え魔」が嫌だと言えば一言ですむのに。

 ※追加 栗原類の芝居を観てみたいと思う。

 体重5.7。げげ。はい、正直に、今日も食べ過ぎました、明日が怖い。へへへ。生きている。

 皆さまのご健康を。

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