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哲学って何を対象にした学問なのだろうか?というか哲学って何?

自分史上空前の哲学書ブームが来ている。前々から好きな領域ではあったのだが、少しばかりそうしたことへの興味関心が薄れていた。だがニッポンの思想を一読したのを皮切りにして、次々に積読してあった哲学史の本に目を通し、カントやヘーゲル、マルクスなどの本格な哲学書を理解するには、その周辺知識を頭に入れておかないと理解に近づくことすらできないだろうと、やけになって当時の政治、経済、社会、宗教などの知識をこの身にしようと苦闘している。また哲学思想に対する情熱が沸き上がるなど、夢にも思わなかった。今、上記した三名の哲学者たちの本に取り掛かる前に、訓練がてら日本の哲学に関する仕事をしている人たちの本を集め目を通しだしている。千葉雅也の動きすぎてはいけないや現代思想入門、國分功一朗の暇と退屈の倫理学やドゥルーズの哲学原理、柄谷行人のトランスクリティーク、佐々木隆治のマルクス資本論などとりあえず目を通してきた。

そんな読書体験のさなかふと沸き上がってきた素朴な疑問がある。哲学とは何を対象とする学問なのだろうか。数学なら数に関して、社会学なら社会に関して、経済学なら経済に関してと、学問はその対象が明確である。哲学はというと哲に関して?何が何だかよくわからない。知っているところからこの疑問に対する答えは出てこないだろうか?よく哲学史の本では日本の哲学受容に際してこんな説明をしている。哲学という文字を翻訳する際、その語源とは知を愛する学問という意味がそこには込めてある。だから哲学とはそういうもんじゃといった具合だ。知を愛する学?知識に対する愛情をひたすらに語りあうのだろうか?牧歌的で非常に平和、愛するべき行いであるが、そんなことをする学問とはなんとも不思議な行いである。ちなみにソクラテスが行っていた当時の哲学といった営みを、それなりにうまいこと言えている感じはする笑

そもそも哲学とは何ぞやを説いたときに、それに対する哲学者の答えは本当にばらばらである。ある哲学者曰く、哲学とはほんらい郷愁であり、いたるところで家にいたいと思う一つの衝動であるそうである。またある哲学者曰く、哲学とは明瞭でないものを明瞭にすることであるそうだ。またある哲学者曰く、哲学の中心はどこにでもあり、その周縁はどこにもないそうである。

ちなみにハイデガーという哲学者曰く、歴史的人間はすでに哲学の内にあり、哲学に導き入れられる必要はなく、人間はすべて哲学者、思索者である。哲学は一部の専門家のみが携わる仕事のようなものではない。哲学は一つの学問のようなふりをし、学問のように見えるがそうではなく、実は哲学は学問ではないそうである。こうなってくると何でもありにも聞こえてくるが、何でもありなのだろう。ただなんとも勇気を与えてくれる言葉である。ありがとうハイデッガー。

要するに、この哲学とは何かという問に対する答えは、あなたが探してくださいといったところだろうか。そして哲学が何を対象にして思索するかに関しても、あなたが決めてくださいと導けるだろうか。面白い。やっぱり哲学面白い。つまりは私は私の哲学を追い求める余地がある。何か生産された商品を買い、その種類で私とあなたの違いを主張するといった、記号の消費とはわけが違う。もっと根本的な、根源的な場所からの生命の躍動だ。うれしい。命がここにはあった。血が通っている。

哲学をこれからもしていこう。これはきっと私の人生にとって特別なものになるだろうから。そう決意が固まると同時に、これは相当難儀な戦いになることも予感した。

まずは西洋哲学から学ぼう。西洋における哲学とは何かを見定めよう。

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