【時間という魔術】

「その同じ朝、許嫁は彼のために、黒いスカーフに赤い縁飾りをつけていたのだが、それもなんの甲斐もないことで、彼が二度と戻ってこないとわかった時、彼女はスカーフをかたわらに置き、嘆き悲しみ、片時も彼のことを忘れなかった。そのあいだに、ポルトガルのリスボン市が地震によって破壊され、七年戦争が過ぎ去り、皇帝フランシス一世が歿し、イエズス会が解散され、ポーランドが分割され、女帝マリア・テレジアが歿し、スドルーエンセが処刑され、アメリカが独立し、フランス、スペインの連合軍は、ジブラルタルを占領することができなかった。トルコ人はハンガリーのヴェテランの洞窟に、シュタイン将軍を幽閉し、皇帝ヨーゼフもまた歿した。スウェーデンのグスタフ国王がロシア領フィンランドを征服し、フランス革命と長い戦争がはじまり、皇帝レオポルト二世もまた墓に入った。ナポレオンがプロシアを征服し、イギリス人がコペンハーゲンを砲撃し、そして、農夫は種を播き、刈り入れた。粉屋は粉を碾き、鍛冶屋は鎚を振るい、坑夫は地下の仕事場で鉱脈を探して掘り進んだ。さてしかし、一八〇九年のヨハネ祭の頃、ファルンの坑夫たちが、地下三百エレという深みで、二本の縦坑のあいだに穴を掘り抜こうとした時・・・・」(ヘーベル「思いがけぬ再会」川村二郎訳、集英社1971年)
「死は、物語作者が報告しうるすべてを承認する。彼は、死からその権威を借り受けたのだ。言い換えるなら、そうした物語作者が語る物語が指し示す遡及先は、自然史なのである・・・ヘーベルがこの年代記のなかで行ったほど深く、その報告を自然史の地層にまで埋めこんだ物語作者はかってなかった。この年代記をただ正確に読むがいい。まるで、正午になると大聖堂の時計のまわりを動き出す人形行列のなかの大鎌をもった死神のように、死が、この年代記には規則正しく周期的に現れてくるのだ。」(W.ベンヤミン「物語作者」三宅晶子訳、ベンヤミン・コレクション2、ちくま学術文庫1996年、pp.306-307)
「さらにすすんで、歴史記述とは、叙事文学のすべての形式のあいだの創造的零点〔 Indifferenz・インデイフェレンツ〕[叙事文学の諸形式を未分化のまま包摂している基板]となるものではないか、という問いを提出していいだろう。だとすれば、書かれた歴史は叙事詩的諸形式に対して、ちょうど白色光が分色光〔スペクトルに分かれた光〕に対するのと同様の関係にあることになるだろう。いずれにしても、叙事文学のすべての形式のなかで年代記ほど、書かれた歴史の純粋な無色透明の光のなかに明確に現れ出てくる形式はない。年代記の幅広い色の帯のなかに、語りのそれぞれの様態が、まるで同一の色彩の濃淡のグラデーションのように、さまざまな段階をなして現れてくる。(同p.308)



「世界でもっとも美しい」物語

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