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プレイしなくても楽しめるポケモンの物語学:Nの成熟

前回はNが嫌われる理由として「純粋さ」について考察した。
今回は考察の対象となる舞台を2年後のイッシュ地方(BW2)に移行し、Nがどのような変化を遂げたのかを論じようと思う。


本記事も以下の5点についてあらかじめご了承願いたい。
①本記事はポケモン公式とは無関係な個人的見解に過ぎない
②学術的な厳密性は期待しないで
③筆者の記憶は頼りない(セリフに間違いがあるかもしれない)
④特定の個人や団体を非難する意図は皆無である
⑤本編未プレイの方はネタバレ注意




「純粋さ」からの「成熟」を目指して


前作主人公の「死亡説」は本当か?


BW2は「2年後のイッシュ地方」という舞台設定のもとで、新しい主人公によって冒険が開始される。
前作主人公の幼馴染のチェレンとベルは成長した姿を見せ、それぞれジムリーダーと博士の助手となっている。


また、「命乞いおじさん」のアデクはチャンピオンの座を次の世代に引き継ぎ引退生活を送る傍らで、いきなり崖から飛び降りてプレイヤーに説教を垂れて驚かせたかと思うと、その後は全然ストーリーに絡んでこない「出オチおじさん」へと退化している。


そして、私たちが追いかけるNの登場は物語の中盤以降となる。
あくまで噂レベルの話ではあるが、元々のゲームフリークの構想ではBW2にNは登場しなかったのだけど、あまりにもNの人気が凄まじく「このキャラクターはもっと掘り下げるべき」として続編にも登場した形であるとかないとか。


やや脱線した話をすると、BW2において前作主人公が登場しない事から「死亡説」が唱えられているのだけど、筆者の察するところでは「本来なら登場しないはずのNを持ち出してしまったことで、物語の整合性を部分的に崩さざるを得なかった」というのが制作側の本音ではないかと思う。


Nは物語がクライマックスを迎える頃、つまり主人公が新生プラズマ団のボスであるゲーチスと対峙する場面で、キュレムに襲われる主人公を救うためという形で登場する。
この時、Nはゲーチスに向けて「あえて」「父さん」と呼びかけ、キュレムを利用して世界の支配を目指すゲーチスの考えを正そうと試みるのだが、ゲーチスからは「化け物」と一蹴されてしまう。


一度は自分を利用し裏切った大人(ゲーチス)に対して、Nが情けをかけてわかり合おうとするこの場面からは、Nがいまだに「子ども」であると読み取ることもできなくはない。
ただ、Nは早々に説得を諦めてゲーチスの野望を打ち砕くために主人公に手を差し伸べる事から、心の底ではゲーチスとの和解は不可能だと悟っており、ただ「どうしてももう一度だけ確認しておきたかったから」ゆえの行為なのではないかとも思える。


ちなみにゲーチスという名は、音楽における「G(ドイツ語で”ゲー”と読む)」と「Cis(同じく”ツィス”」の2音が「最も不快な不協和音」であることに由来するらしい。
ゲーチスのどこまでも自己中心的で「心のない」言動は、たしかにだれとも共鳴することはなく、組織の長としての威厳がなくなると共に求心力を失うであろう。

これまたちなみに、BW2の主人公のデフォルトネームであるキョウヘイ(おとこのこ)とメイ(おとこのこ)を合わせると「共鳴」となる。



価値観や考え方の異なる他者との間に理解や協力を求め合う=「共鳴」するためには、自分の言葉でなおかつ他者にも伝わる言葉で語りかけ対話することが重要である。
ゲーチスのような独りよがりで偏った言動は、寂しく孤独な不協和音的な終末しかもたらさないと伝えたいのだろうか。


Nの変化


話をNに戻そう。


Nはゲーチスの説得には失敗するものの、その後は憑き物が取れたかのように、以前よりも晴れやかな雰囲気で主人公と度々接触するようになる。
そして主人公とのバトルを最後にそれまで共に旅をしたレシラム/ゼクロムに別れを告げ、新たなミッションに向き合うことを決意するのである。


Nは前作での戦場となり荒廃したままのポケモンリーグに姿を現す。Nは荒れ果てた「城」の中を主人公を連れて案内して回るが、かつてNが「閉じ込められ」「洗脳された」空間である「子供部屋」には入りたくないと口にする。


前回の記事で「Nは子どもである」と結論した。子どもゆえの「純粋さ(イノセンス)」こそがNの人気の理由であると同時に人々の神経を逆撫でする要因である、と。
Nが子どもであることの証拠として、前作の主人公が最終決戦前に訪れることのできる「子供部屋」には「最近使った形跡」が存在した。
この意味するところはもちろん、Nが20歳を過ぎても子供の玩具で遊んでいた、という信じがたい事実である。


Nが入りたくないと口にする子供部屋は、BGMも壊れた音楽のようになっており、Nのイノセンスが崩壊してしまったことを暗示しているようだ。


Nが前作の主人公に敗れた後で何をしていたかは、実はBW2の「思い出リンク」という機能を使うことで知ることができる。
Nなき後のプラズマ団は過激な「ゲーチス派」と穏健な「N派」に分裂したのだが、Nは今なお自分のことを信じるN派の仲間のことを憂い、姿を隠しながらコミュニティを訪れたりしている。


N派の人々は、Nが傷ついたポケモンたちに見せた労りや優しさを信じており、「ポケモンリーグ事変」以後は元プラズマ団として世間から冷ややかな目を向けられながらも、虐げられたり捨てられたポケモンを保護する活動を続けているのだった。


かつての仲間が人々から煙たがられながらも自らの「ポケモンを助けたいという信念」を貫く姿を見たNは、「自分を信じてくれた仲間が頑張っているのに、自分だけが何もできないでいる」と深く悩むこととなる。



N派の人々の主張はこうだ。「確かに自分たちの組織は間違ったことをした。でも、その根底にあった理念や理想が間違っていたのではない。だから正しいやり方でもう一度やり直そう」。


このあたりは、製作陣はかなり際どいラインを攻めたな、と筆者は舌を巻いた。
実名を出すと大変なことになるかもしれないのでぼかすけれど、日本を震撼させたとある宗教団体を彷彿させるからだ。
事件の首謀者たちは処刑され、組織は名目上は解体されたにも関わらず、その宗教体系や思想自体への共感を捨てることができずに、いまなお名前を変えて活動している人々を思い浮かべてしまう。


彼/彼女らが間違っている、というつもりはない。
筆者は事の是非を判断できる立場にはないからだ。



ただ、村上春樹が『約束された場所で』の中で述べているように、「自分たちは確かにたいへんなことをしてしまったけれど、教義には良いところもあるんです(だから良いところだけ取り出して、新しい組織として出直そう)」という考え方は、事件の被害者を含めた多くの人にとってあまりにも納得しがたいものが含まれているとは思う。


こうやって書いてみると、N派を巡る一連のストーリーはとても「子ども向けのゲーム」で扱うべき現象ではない。
宗教を取り扱うだけでもあまりにもセンシティブなのに、製作陣は実在の事件を想起させる物語を挿入したのだ。


だからこそBWは本当にすごい作品だと思う。
こんな思い切った、腹を括った作品は金輪際出てこないだろう(ポリコレ的な規制がうるさい昨今は特に)。
BWリメイクは本当に難しいだろうねえ……


Nの成熟=世界への愛


また話が逸れてきたので、Nに話題を戻そう。


Nは「もう一度正しいやり方で教義を実現しよう」とするN派の人々の健気な活動に触れて心を震わされたものの、自らはN派のコミュニティに入ることはしない。
明確に描かれていないため推測でしかないが、N自身は筆者が上述したような「N派=教義のやり直し」に対して危うさを感じたのではないだろうか?


自分が組織に復帰すれば崇拝の対象となることは間違いなく、それを聞きつけたゲーチスらに利用されて再びイッシュ地方全域を危機に陥れる可能性があり、そのことにNは思い至ったのかもしれない。
だからこそNは、自分を温かく迎え入れてくれるであろう集団の中で生きることを諦め、ひとりの個人として「トモダチ(ポケモン)への愛」を実現する過酷な道を選び取ることになる。


ここで当然の疑問が頭をよぎる。Nが語る「トモダチへの”愛”」とはなんぞや?


答えはそれほど難しくない。
これまでと変わらないポケモンへの思いやりや気遣い、優しさ、労りを続けていくことだ。


ただし、そこには「奴隷状態のポケモンの解放」という「イデオロギー」の匂いはない。
あくまでも個を通じた「愛」の活動であり、言ってしまえば地道で報いの少ない活動である。


Nのカリスマ性をもってすれば「傷ついたポケモンを助ける」ことに熱意を注ぐ人々を集めて組織することは容易いだろう。
その人々はNの指導のもとで「正しい教義の実践」を通じて、一人の人間ができるよりも広範な活動を展開し、より多くのポケモンを、より短い期間で救うことができるに違いない。


だが、Nはそうはしない。あくまでも「個」として「ポケモンへの愛」を実践することを誓ったのだ。
たとえ純粋な善意や思いやりから発した「愛」でさえも、それらは組織というフィルター、あるいは闇鍋的に多くの人々を通過することで、「イデオロギー」へと変貌してしまう危険があるということを、Nは朧げながらも悟っていたのではないかと推測する。


だれにも見てもらえなくても、認められなくても、賞賛されなくても、いや、むしろそうであるからこそ、Nは個として自らの信念=愛を実践する道を選んだのではないだろうか?
自分以外のだれひとりとして知らなくても、それでも勝手に続けてしまうことこそが、その人が生涯を通じてやりたいこと、与えられた使命なのではないだろうか?


Nが選んだ「個」の道。


愛=有責性=逃れられないこと=信仰


やや哲学(おじさん)じみた話をする。


愛することについて、聖書にはこんな言葉がある。


「汝を愛するが如く隣人を愛せよ」


人間はだれでも自分を愛している、だから自分と同じくらい他者を愛せよ、というのが一般的な解釈である。


レヴィナスという哲学者はこの言葉を次のように解釈してみせた。

「あなたの隣人を愛しなさい、それがあなた自身である」

あるいは

あなたの隣人へのこの愛、それがあなた自身である」


自分とは何か?
Nもこの問いに向き合い続け、「自分には何ができるのか?」と自問し続けた。
この問い方をするとき、人は暗黙のうちに次のことを前提にしている。

「人間は何をするか(=行為)によって自己実現を達成する」


ここでの「行為」とは、他人によって認められ賞賛されることを求めるものであろう。
「ナポレオンはフランス革命を指揮した」「ジョブズはアップルを創業した」などとまではいかなくとも、「〇〇さんは仕事ができるからすごい」のように、私たちは「何か(主に仕事)をすること」こそがアイデンティティの基盤であるという価値観を深く有している。


つまり、私たちは、何かを「できる」によって自分や他人を評価する。
だが、生きとし生けるものはいつか死ぬ。



死についてレヴィナスは「”できる”ということがもはや”できなくなる”」「”できる”ことがなくなること」と述べている。
私たちは老いるにつれて、走れなくなり、自力で歩けなくなり、ついには立てなくなり、そうやって同じようにいつの日か、食べることも見ることも聞くことも嗅ぐことも触れることも、何一つ自力ではできなくなっていく。


それが死である。


私たちが「できる」を人間の評価基準に定める限り、寝たきりの老人や身体障害者やその他様々な事情で世間一般的な事が「できない」人々は、「死んでいる」ことになってしまう。
だから、レヴィナスは「できる」ことによって自己や他者が何者であるかを評価してはならない、そこには危険な何かがある、人間を生きながらにして死なせてしまうようなものがある、と警告しているのである。


「できる」の中に自身や他者のアイデンティティを見出そうとする人は、自動的に「できない」人々を死なせている。
私たちが「できる/できない」を乗り越えて新たな人間性を問うためには、「愛すること」が必要なのである。
人間は、その人が何かが「できる」から愛するのではない。もしもそうならば、誰ひとりとして幼い子供を愛する人はこの世に存在し得ない。


Nに話を戻すと、Nは「自分には何ができるか?」という問いを棄却して、「私とは他者(=ポケモンや人々)を愛すること、その仕方なのだ」という結論へと飛躍した、というのが筆者の勝手な解釈である。



なぜならばNには「ポケモンの声が聴こえる」からである。
彼には、傷つき、損なわれ、痛みを抱えてうずくまるポケモンたちの「助けて」の声が聴こえる。


救いを求める他者、弱き者たちの声を耳にした人間がとりうる行動はふたつしかない。
そばに駆け寄るか、聞こえなかったことにするか、である。


そのポケモンたちに危害を加えたのはNではない。
赤の他人が傷つけたのであり、Nには何らの責任もない。



Nがそのポケモンを助けなければならない義務は少しもないのに、彼は決して見捨てることはしないだろう。
Nにとってポケモンに示す愛はすなわち自分自身であり、愛を実践することは神から与えられた使命である。


彼には責任がある。能力を与えられた者は、その能力を他者のために使うという責任が生じる。たとえ自分の責任ではない物事であっても、自分が引き受けることを宣言すること、それこそが「有責性」である。


Nは決して逃れることができない。
世界の片隅で助けを求めながら喉と肩を振るわせ、飢えと渇きに苦しむポケモンたちの声から耳を塞ぐことは許されない。


たった一人で、個人として、自分のではない責任を引き受けること、それが成熟だとレヴィナスは語る。
そしてNはその険しく過酷で孤独な責務を引き受けることを決意したからこそ、N派の人々とは距離をおいたのではないだろうか?



これも憶測でしかないけれど、製作陣には相当に哲学や宗教に通じた人がいて、Nというキャラクターの造形に強いこだわりを持っていたのではないだろうか?


終わりに:Nが嫌われるもう一つの理由


前回の記事で、Nの好悪が分かれるのは「純粋さ」に対する反応の違いであると結論した。


今回の記事の結論を出すなら、BW2をプレイしてもなおNに対する嫌悪が残るとすれば、「Nが大人になろうとしたから」ではないだろうか。


世の中を見渡せば、無責任な大人で溢れかえっている(すぐに記憶がなくなる政治家たちの話はしていない)。
そういう、責任とは無縁な大人たちが作った社会に、われわれは生きている。


確かに、責任を持たないことは、なんと気楽な生き方だろうか。
責任というのは何しろ面倒なものなので、できることならだれだって背負いたくはないはずだ。


それでも、誰かが「私が責任を取ります」と言わなければ、この世界はとんでもないことになるだろう(日本社会を見るだけでも十分に「とんでもないこと」になっている)。
でも、もしもあなたの周りに「私がすべての責任を引き受けます」という人がいたとして、あなたはどう思うだろうか?


「かっこいいな」と思う人もいれば、「偉そうなこと言いやがって」と思う人もいるだろう。Nに対する評価もそれと同じではないだろうか。
つまり、責任とは無縁な生き方をしたい人にとってNのような生き方は「臭い」と感じるのであって、ひいては「Nはナルシシスト」「痛いやつ」という評価に落ち着くのかもしれない。


だれかが大人になろうとすれば、つい足を引っ張ってやりたくなる。
そういう人のことを私たちは「幼稚」と評価して距離を置くことにする。







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