ビジュえもんはなぜ凄いのか。

最近、パピヨン本田というツイッターアカウントによる、美術のビシュえもんなる漫画が少しバズっている。

これを見て僕は、


やられた!!!


となってしまった。

なぜこのビジュえもんという漫画がすごいのかを、できるだけ簡単に誤解を恐れずに少し解説してみたいと思う。


これを解説するにはまず、現代アートというものの流れを少しばかり説明しなければならない。


現在の現代アートというものは、文脈、というものが超重要視されている。
どういうことかと言いますと、それ以前の、何となく見た目がいい感じじゃん!すき!作家性万歳!と言うものではなく、これはいったいどういうことをしているのか、とかいうことのメタ的な説明が、作品にはとても重要なのだ。
今現在日本で一般的に、現代アートはなんだかよくわかんないもの、という認識があるのはこのおかげである。


村上隆というアーティストをご存知だろうか。彼はその現代アートの、文脈第一!みたいなところに、日本のサブカルチャーを持ってこようとした人物である。日本のサブカルチャーは実はアートなんだ!みたいな感じで。作品を見てもらえばわかるが、このようなフィギュアを作ったりして、それを説明しようとしたのだ。

画像1

My Lonesome CowBoy
引用元:note https://note.com/kyoukone/n/n3339870cd9d1/

ただその目論見は、ある意味成功したし、ある意味失敗したとも言える。

現代アート界ではそれはかなり評価を受けたが、サブカルチャーを愛する日本人からはかなりバッシングを受けてしまったのだ。サブカルチャーをバカにされた!こんな下品なもんじゃねえよ!というような感じで。

彼は、まさしく現代アートのようなハイ・アートと呼ばれるものと、サブカルチャーのようなロー・アートの「境目を曖昧にする」というようなことをやってのけようとしたのだが、それは上手くいかなかった。村上隆の作品は、現代アート側から見ると現代アートでしかなく、サブカルチャー側からするとキモいサブカルチャー丸出しの下品なフィギュアにしか見えないという、現代アートとサブカルチャーの要素が陸続きに交わることはなかったのである。サブカルand現代アート、ではなくサブカルor現代アート、なものになってしまったのだ。

それからも村上隆を始めとして、日本のサブカルチャーというものを、現代アートの文脈を使って説明しようとするという流れがあり。日本のオタク文化、アニメ、漫画等のサブカルチャーはかなり特殊なもので、日本人特有の思想のようなものもすごく反映されている!というような説明のもと、様々なアート作品が生み出されていたりする。

だが、それでも現代アートとサブカルチャーを陸続きにするようなものはやはりなかなか無かったのである。何故かと言うと、僕の推論だが、サブカルチャーをハイアートの文脈に持っていこうとすると、どうしても現代アートとしてしか見れなくなってしまう、ハイアートの文脈に乗せてしまうとそれはもう何でもアートになっちゃうんだなあ、という感じである。今のアートの世界はどうしてもそういう見られ方をしてしまうのだ。

なので僕は、アートの方をサブカルチャー側に持っていくとかの方がいいんじゃね?と思ったりしていたのだが、

そこでビジュえもんの登場である。


ビシュえもんはまさにそれを行っているのだ。日本特有のサブカルチャーの文脈に、現代アートの方を引っ張ってきているのだ。しかもそれを漫画で、皮肉めいたことば選びで行うことで、めちゃくちゃ上手くそれが行われている。あの、ちょっと狭いコミュニティでのよくわからんノリを外から嘲笑する感じが、しかもそれをドラえもんのパロディの中で行っている感じが、まさに日本のサブカルチャーの文脈がたっぷりと使われているのだ。

我々現代アートに携わる身としてはこれは衝撃的である。ここまで我々がやっている芸術というものを上手く面白おかしくしてしまっている事が悔しい反面、おもろい!やられた!!!という気持ちにさせられてしまうのである。まさに、村上隆がやった事によってサブカルチャー側の人間が怒ったように、我々はビジュえもんを見てくそう!と思わざるを得ないのである。

芸術の歴史は破壊の歴史とも言うが、我々はまさに、破壊された側の気持ちになってしまった。

そういうものが、美術のビジュえもんというものである。そういう構造を知ったり考えたりするのが、現代アートの超おもろいところでもあるので、そういう感じでビジュえもんを見ていただければ少し面白さが増すのではないかとおもう。

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