ルパンシリーズの最高峰『旧ルパン三世』

※同人誌『Vanda』7号(1992年9月発行)の『旧ルパン三世』特集に寄稿した文章の再録です。『Vanda』は(故)佐野邦彦氏と近藤恵氏が編集発行した同人誌です。
現在ではあまり『旧ルパン』とは言わず「第1シリーズ」などと言われていますが、同誌発行の1992年当時は「第2シリーズ」の通称『新ルパン』に対する『旧ルパン』の呼称が一般的でした。


 今回の特集テーマは『ルパン三世』それも通称『旧ルパン』だそうだ。この辺にも、Vanda編集部の年代的な好みというのが表れていますね-。
 などということはともかく、今や、TV、映画、ビデオ、TVスペシャルとメディアミックス的に増殖したルパン・ワールドの中で、最高なのは、やはりこの『旧ルパン』だ。(『カリオストロの城』はこの『旧ルパン』の発展形と言えるのだし)。
 Vandaの佐野邦彦氏によれば、『旧ルパン』はキャラクターの魅力が第一義ということで、実は今回の原稿もその線で、と内々の依頼を受けているのです。
 『旧ルパン』のキャラクター、ということなら、これはもう、誰が何と言おうと、不二子ちゃんだ。不二子ちゃんしかない。
 もちろん私とて、主人公であるルパン本人の魅力を認めるにやぶさかではない訳で。
 イキでキザで颯爽として、自信家で、誇り高く、そのくせけっこうドジで、軽くて、憎めないナイス・ガイ。いつも不二子にしてやられてて、カッコいいんだかカッコ悪いんだか分からない。何物にも縛られない自由な男、ルパン三世。
 もしも私がルパンを見上げる位置にある少年だったら、あるいは、この社会に閉塞感を覚え始めた青年だったら、疑いもなく、こうした自由人・ルパン三世に共感と憧れを持つだろう。でも、女性から見ると、このルパン三世てのは“手に負えない”て感じなのですね。対象外っていうか。
 むしろ私としては、ルパン単独よりも、ルパン+次元の名コンビぶりの方に魅力を感じてしまう。
 ルパンと次元ほどの名コンビを私は他に知らない。あらかじめ綿密に打ち合わせしてあるのか、以心伝心なのか、言莱なんて借りなくても、互いになすべきことをスッと果たす二人。次元はルパンにとって最高の相棒。ルパンの最高の理解者で、かといって必要以上に踏み込まない。「しょうがねェなあ」とボヤきながらも堅い絆。なまじの女なんて足元にも及ばない。ルパンが無茶をやれるのも、背後に次元の存在を信じたればこそなのだ。
 このルパン+次元に五エ門、不二子、銭形が絡む、そのコンビネーションの絶妙さこそが『旧ルパン』の魅力だ、と思うのです。
 話は戻って、不二子ちゃんだ。
 彼女が最も光り輝いていたのは、シリーズ前半の、大隅正秋氏が演出していた、いわゆる“大隅ルパン”と呼ばれる頃だ。
 この頃の『ルパン三世』は、後半のオモシロさとは違って、また独特の魅力を放っている。
 不二子と、彼女のかつての恋人でありパートナーであった殺し屋プーン(実写で言ったら藤竜也。渋い!)との再会と、悲しい結末を描いた、第9話『殺し屋はブルースを歌う』が端的に代表しているように、はなから子供向けではない、青年層に的を絞った大人のドラマ。全体に漂うアンニュイなムード。裏切り裏切られ、二転三転するストーリー。
 第1話『ルパンは燃えているか』でのルパンのカッコよさ。次元との名コンビぶり、不二子の魅力、銭形のとっつあん、敵組織スコーピオンの陰謀渦巻くF1レース。ルパンと次元が高速走行中にレースカーごとスリ変わるトリックを、数枚のストップモーションでカシャカシャとスライド的に見せるテンポの良さ。敵の本拠地ホテル・ミラクルに、修理屋に化けて潜り込んだルパンは水道管を次々と破壊、ホテル内を大洪水に陥れる。余分な説明一切なし、のシャープでスピーディーで、省略とメリハリが効いた、ハードな演出は、ルパン同様ダンディーだ。
 第5話『十三代五エ門登場』は最高だ。Aプロの作画も抜群にイキがよく、『旧ルパン』でどれか一本、と言われたら、これかなあ。ルパン、次元、不二子、そして今回初登場の十三代目石川五エ門、五エ門の殺しの師匠・百地三太夫と、登場人物はいずれ劣らぬ癖者揃い。とりわけ、銀髪に茶のグラサン、着流しにフリンジ付きのウェスタンベストといういでたちの百地の爺さんがすごい。声は初代バカボンのパパ雨森雅司(既に故人。惜しい)。「あ-る日ある時」のイントネーションがたまらない。
 ルパンと五エ門を相討ちさせようと企む殺し屋百地を葬り去り、雌雄を決せんと、高速道路を走る車の屋根の上というトンでもない場所で対峙する二人。出て来る車が全部実在の物という凝り方がまたスゴい。ルパンの発射した発火性液体燃料(イルカちゃんの水鉄砲が♡)を、秘剣龍巻返しではじき返す五エ門。たちまち周囲の車は爆発炎上、ハイウェイ上はクラッシュの山。「この大事故にもかかわらず死傷者は出ませんでした」というバカバカしさ!
 『ルパン三世』のイメージは、主要キャラの出揃う1話と5話で強烈に作られ、現在に至るも基調となっていると言えるだろう。
 “大塚アクション”と呼ばれるのを大塚さんは嫌うけれど(その気持ちはよく分かる)、『旧ルパン』は、この大塚さんの絵を抜きにしては考えられない。モンキーパンチ氏のバタ臭いアメコミ調の絵と、アクション派の大塚さんの絵が融合した『旧ルパン』のキャラは、その後幾つもの『ルパン』シリーズが生まれたけれど、そのどれもが遠く及ばない程、群を抜いている。
 『旧ルパン』のモットーは実証主義。つまり現実にある物をモデルに、極めて詳細に、凝った絵で、しかもディフォルメを効かせた、アニメーション・リアリズムともいうべき、アニメーションならではの再現をすること。
 単なるクルマ、という名の自動車ではなく、ベンツSSK、ルノー4CVという固有名詞を持った実在の自動車。単なるピストル、ではなく、ルパンはワルサーP38、次元はコンバット・マグナム、不二子はブローニングと、特定の銃器。
 作品の要求と、作画監督である大塚さん自身の、乗物や銃器へのこだわり(氏はアニメ界入りする前の麻薬Gメン時代、実際にブローニング380を携えていたという)が見事に結び付いて、アニメ史上初の画期的な画面が誕生したのだ。
 そして山下毅雄氏の酒落た音楽。衝撃的な主題歌。様々なテーマアレンジ、リズミカルなBGM。そのいずれもカッコよく、使い方も、これ以上ない程キマッていて、作品のムードを大いに高めた。
 そして、こうしたムードの世界の中で、不二子ちゃんは、この上なく魅力的だった。
 美人で、グラマーで、コケティッシュで。何度もルパンを裏切るのに憎めなくて、本当に可愛い悪女、女の中の女そのものだった。1話の、敵に捕らわれながらも不敵な笑みを浮かべる不二子。これだけで、彼女がいかにこの作品にとって重要なキャラクターか分かる、いいカットだ。大きくウェーブした栗色のロングヘア。女豹のような目。魅惑的に半ば開かれた口元。うーん、この頃の不二子ちゃんは最高だ。
 そして、あの声。甘くて、でも決してべ夕つかず、女一人世渡りする強さを秘めて、どこか知的ですらあって、「ルパーン」という、あの声で迫られたら、ワナと承知してても逆らえる男はいないのじゃないかな。
 演ずるは二階堂有希子さん。私は増山江威子さんには何の恨みもないのだけれど、コト、不二子ちゃんの声だけは「違う!」と声を大にして言いたいのだ。百歩譲って『新ルパン』はまだ許すとしても、かの名作『カリオストロの城』での、「ある時は敵、ある時は味方。恋人だったことも、あったかな」というセリフだけは、どうしても二階堂さんの声で聞きたかった、と思います。(でも、パイロット版の声は増山さんが担当していたというから、ワカラナイものだ…)。
 後年、二階堂さんは『母をたずねて三千里』の要ともいうべき、マルコのお母さん役で我々の前に現れてくれるのだけれど、これは、この『ルパン』での高畑さんとの縁なのでしょうね。
 しかし、こうしたアダルト・タッチのドラマ、早いテンポは、当時の視聴者には全く受け入れられず、日曜夜7時のゴールデンタイムに視聴率わずか7%前後と、惨憺たる結果となって表れる。放映5話目にして局の緊急会議がもたれたというから、関係者のショックの程が分かろう。
 結局、大隅氏はこの責を負う形で中途降板。後を、当時、Aプロに移籍して来た高畑・宮崎両氏が、大塚さんとの縁もあって引き継ぐこととなる。
 アダルト・タッチから一転して、子供向けを意識したコミカル・タッチヘの路線変更。
 その一番のあおりを食ったのが、不二子ちゃんだ。大人の女だった不二子ちゃんは、14話を境に髪をショートにして、キラキラこぼれるようなお色気もなく、ルパン一家の良き仲間に収まってしまった。
 不二子が魅力を失った分、という訳ではないが、前述の路線変更によって、『ルパン三世』は、とにかくオモシロくなった。ひたすらオモシロくなった。
 ルパン自身がまとっていた悪の匂いは消滅し、泥棒は人生を楽しむためのものになり、しかし、自らを犯罪者とする認識はしっかりと心の底に持った、一人の若者になった。次元は単純な銃器マニア、五エ門も同様。キャラクターが単純化され、キャラの個性や魅力で見せる話は無くなった分、話の展開や、動きそのものの面白さで引き付けてくれるようになった。
 途中で路線変更して子供向けにした途端ダメになった番組はいくらもあるが、『旧ルパン』は、そうならなかった希有の例だ。何度見ても面白い『ルパン』。繰返し見て、何もかも承知しているにもかかわらず、ワクワクしたり、快哉を上げてしまう面白さ。これはもう、落語などにも通じる、一種の芸の世界と言えるんじゃなかろうか。
 第15話『ルパンを捕えてヨーロッパヘ行こう』は、シリーズ最大の爆笑篇。タイトル通り、ルパンを捕えた上で、ヨーロッパの会議に参加しようという銭形の大奮戦記。田舎成金の金満(きんまん)氏の純金の胸像(『名探偵ホームズ/消えたソベリン金貨』のモトだ)を狙うルパンと銭形の攻防戦。両者の知恵比べ的なアイディアと、遊びごころ一杯の作画の冴えが素晴らしく、何度見ても飽きない。見事にルパンをブタ箱送りにし(実はルパンの計略だが)泣いて喜ぶ銭形。警視総監らの見送りを受けて(祝洋行のノボリがいい)ドハデな格好で機中の人に。機内でのドタバタぶりも楽しく、最後の最後まで、楽しきかな、マンガ映画。
 爆笑篇なら、もう一本、これ。第19話『どっちが勝つか三代目!』。フランスからガニマール三世がやって来た。目的はフランスフェアの警備と、ルパン三世逮捕。フェアにはルパン一世の遺品も出品されるのだ。ガニマールにおじいちゃんをけなされ、ルパンはカッカ。
 このニュースを自宅のTVで、ゴハンを食べながら見ている銭形。旧式の足付き白黒TVが泣かせる。丸いちゃぶ台の上には、メザシとタクアン、しょうゆ差し。周りに電気釜とヤカン。銭形はドテラ姿にいつもの帽子。この描写!バカバカしくも独身中年男のわびしさが伝わって来て、マンガ映画の世界だなあ。
 ガニマールは“科学と論理”の持論をかざすが、その実態は、山のような警備を固める物量作戦そのものだ。「こっちも物量で行くかァ」。この、ルパン流物量作戦が最高のバカバカしさ。
 大量のアルバイトを動員して送り出された数十人、数百人のルパンの群れ。焼鳥屋をやってるルパン、客もルパン。学生運動のカンパを集めてるのもルパン(時代だなあ)。まとめて逮捕されて、一斉に変装を取ると、今度は何十人もの銭形、何十人ものガニマールになってしまう。遂には、ルパン、銭形、ガニマールの格好をした子供3人組まで出現(みんな半ズボンなのがオカシイ)する始末。大混乱のうちに、ルパンは遺品を取り返してエンド。
 ああ、楽しきかな、マンガ映画。コムズカシイ理屈は抜きにして、思いっきり笑って、胸の中スッキリ。なんだか力も湧いて来る。このカタルシスとリフレッシュ効果こそ、マンガ映画ならではの醍醐味だ。「今はそういう単純なマンガ映画の時代じゃないから」と宮崎さんは仰有るけれど、そういう理屈抜きの楽しさを求める心ってのは、いつの時代も変わらないんじゃないかなあ。
 「大塚、宮崎ということでなく」というのもVanda編集部に言われたような気がするんだけれど、私にとって、『旧ルパン』を語る時に、宮崎さんを抜きにしては語れないものがあるので、許していただくとして。
 『旧ルパン』の後半は、宮崎さんのアイディアを高畑さんがまとめるという形になっていたというが、この『旧ルパン』から『パンダコパンダ』へ、その間に幻の『長靴下のピッピ』の準備期間をおいて、という時期が、両氏と、その仕事を見つめる私達にとって、一番幸せな頃、言ってみれば蜜月時代、と言えるんではありますまいか。
 『旧ルパン』のそこここに、宮崎さんの才能の片鱗を、あるいは、大塚さんと並んで画面に特別出演している姿を見出すのは、ほんとに愉しい。長くなるので、ここでは一々書きませんが。
 『旧ルパン』の宮崎さんといえば、これを抜きにしては語れないのが、第11話『七番目の橋が落ちる時』、第21話『じゃじゃ馬娘を助け出せ』の2本だ。
 共に、美少女を守り抜くために、片や爆破犯人、片や誘拐犯の汚名を着せられたまま戦うルパン。『カリオストロ』ですねー。私は宮さんの全作品中『カリオストロ』が一番好きです。
 普段の気楽なドロボー稼業の反面、人生の裏街道を行く重さを背負っているルパン。彼のいたわりに心を開いてゆく少女たち。全身全霊をあげて悪の手から少女を救い出しながら、その前から去って行く、去って行かざるを得ないルパン。
 詳しくは他所にも書いたことがあるから書かないけれど、いかにも宮崎流マンガ映画の世界そのもので、私は今の大作映画の監督としての宮崎さんの世界よりも、こういう、いかにも宮崎的な小品の方に心ひかれたりするのです。
 ひとケタの視聴率に喘ぎ、遂には打ち切られた『ルパン三世』は、幾度となく再放送を繰り返すうちに、爆発的な人気を得、’77年には新作として再登場する。その後のことは周知の通り。
 大隅正秋という一人の優れた演出家を断った程に早すぎた傑作に、5年の歳月をかけて、時代はやっと追いついたのだ。

初出:『Vanda』7号(1992年9月、MOON FLOWER Vanda編集部 編集発行)※グラマーという言葉が時代を感じさせますが、そのままにしておきます。

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