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宝塚歌劇雪組『f f f -フォルティッシッシモ-』 感想2【望海風斗さんでなければならなかった】

望海風斗さんでなければならなかったのです。望海さんの雪組でしかできない舞台でした。そのことを毎回確かめていました。初見の初期衝動で書けぬけた第1回と違い、言葉にできないことばかりです。書けなかったのは、リミッターをかけていたみたいです。でももうさいごだから、作品と作り手の方々と望海風斗さんへの愛と感謝をここにおもいっきり書きます。新しい解釈とかそんな内容ではないけど書きたいの。祈りを捧げたい。そして光あふれる世界に行きます。だって幸せだから。

(一晩で一気に書くので文体敬語の乱れ誤字脱字ぞんざいな表現を最初に謝っておきます。ただただ最後に愛を語る言葉を探しては否とか叫びながらパソコンのキーボードをピアノのように叩いておりました)

1,エモーショナルな「棘」

仕事先のヅカ友だちと年度初めの初日に久々に会えて話をしていたら、『fff』は無理という話になりました。しんどい時に観たのでえぐられてつらすぎた、2度と観られないそうです。そうだよね。しんどいよね、えぐられるよね、えぐられながら観てるよねと思いました。歓喜に歌え!といいながらこの作品にはいっぱい棘があります。ちくちくといやみのように刺してくる棘、毎回刺さって抜けない棘です。腹の立つ。とルイならいいます。

①『若きウェルテルの悩み』
読みました。ウェルテルの言葉が心にぐさぐさ刺さりました。神のためでも義のためでも国のためでもなく、自らのための死を正面からとらえたのが『若きウェルテルの悩み』です。誰のためでもなく自らの尊厳を守るために選択する死はめちゃくちゃ新しい、画期的な生き方(死に方)です。この小説を読んで自死者が続出したのは生きづらさを抱えたひとたちがたくさんいたからなんだろうと思います。いまとおんなじ。それが近代の個の誕生ともいえます。個となったひとは、個の独、すなわち孤独を発見したのです。
ゲーテ自身は、この小説を書いて一度しか読み返さなかったそうです。↓

岩波文庫『若きウェルテルの悩み』解説より、ゲーテの言葉を引用

『ウェルテル』は私が、さながらペリカンのように自分の胸の血で養った作品だ。あの中には、私の心の内面のもの、さまざまの感情や思想がたくさんに盛られているので、あのくらいの本が十冊できるほどの内容がある。『ウェルテル』が出版されてから、私はただ一回しか読み返したことがなく、ふたたびとは読まないようにしているあれは危険な花火だ! 読んでいておそろしくなるし、生み出した当時の病的な状態をもう一度くりかえして感ずるのが心配だ。…個人的な身近な切実な事情が、私に『ウェルテル』を書かせて、生むような気持ちにしたのだ。私は生き、愛し、悩んだ。」

ゲーテにとってこの小説はいわば血を吐くようにして書いた内面吐露です。生み出した当時の病的な状態とはすなわち死に至る病そのものなんだろうと思います。この作品がぐさぐさ刺さったベートーヴェンが曲を作り、音楽喫茶で聴いたベートーヴェンの音楽がぐさぐさ刺さった上田久美子先生が宝塚雪組の『fff』を作り、その『fff』がわたしにぐさぐさ刺さる。言葉と心は時を超えて新たにつながる輪廻みたいな輪を感じます。

ゲーテが血を吐くようにして書いた小説。
でも今では陳腐な若者の失恋と自死の物語、なのかもしれないです。この物語が陳腐に感じるのはいまも自死、特に若者の自死が増えていて、自死はありふれた日常だからだと思います。死を遠ざけ忌避しながも自死することも当たり前の世界に生きていて、読み飽きて見飽きて聞き飽きているんです。あっべつに責めてないですっ。そうだよねえとしみじみ思ったんです。

『fff』でもそのような場面があります。彩凪さんのゲーテが銀橋を渡りながら「不幸な人間たちが、重荷を背負ってあえぎあえぎ世間を渡っていき」と美しい声で朗読して、諏訪さきさんと沙月愛奈さんの演じる『ウェルテル』に謎の女がからみ、ウェルテルが自死を匂わせる銃声で場面が暗転した直後です。↓

『fff』第4場:ルイ作曲の『若きウェルテルの悩み』上演後のアン・デア・ウイーン劇場のロビー
「まったく、いい出し物だった。『若きウェルテルの悩み』」
「舞台には小説とはまた違った良さが」
「実らぬ恋に死を選ぶか…」

自死も娯楽です。ウェルテルに共鳴してたもんですからここでいきなり棘をぐさっと刺されたと感じました。棘というより雪組だけに辻斬り的袈裟懸けに斬られます。
メッテルニヒに「彼らは革命でも皇帝でも音楽でもいいのだ。楽になれたら。良い曲を書きたまえ。彼らが日常の憂さを忘れるような」と言わせるところもいきなり刺してくる刃です。真綿にくるむようなことはせず、直接斬りかかってくるのです。

創作と享受との間のずれ、作品の作り手と受け手の愛憎入り混じる関係性がここにあらわにされています。上田久美子さんの心情吐露みたいな感じです。

②論理矛盾するエモーショナルな物語
上田久美子さんの書いた作品、わたしは『金色の砂漠』と『星逢一夜』を観ただけなので、「上田久美子論」なんて到底語れません。でもこの2作は繰り返し観たので、2作プラス『fff』でなにか印象をいうとしたら、めちゃくちゃエモーショナルな物語に感じたということです。
たとえば『金色の沙漠』では砂漠の真ん中の国の社会制度、『星逢一夜』では三日月藩内の身分制度や幕府と藩の関係、物語の主人公が身を置く論理は丁寧に構築されています。人物を取り巻く世界の秩序の堅牢さが各種エピソードで強調されます。
物語の外側の論理はガッチガチ、でも物語の内側はたこ焼きのようにとろっとろで熱くてやけどする。人物たちは自分でも説明のできない熱い衝動に突き動かされてクールな秩序を乱して論理を蹴破ろうとするのです。

たとえばギィはタルハーミネを愛しながら憎んでいる。父の仇、奴隷として踏みにじられて生きた時間の恨みつらみ、頭では憎んでいるけれど、心は愛して愛してやまなくて結局は砂漠で心中するすさまじいお話です。晴興と泉、源太の3人の関係性も、身分制度という秩序に窮屈におしこまれつつも、土下座をする源太のほうが心理的な立場が上になっていたり、晴興もお上と村人のはざまで引き裂かれて源太を殺し自分も殺して(一種の心中にみえます)泉を生かそうとする。

上田久美子さんの物語は堅牢な秩序に窒息しそうな状況を構築した上で、その状況下に置かれた人間からとめどなくあふれる熱い衝動を描いていると感じます。前半で論理を構築して、後半でその論理を論理と真逆の衝動で壊していく積み木崩しの論理矛盾の物語展開は、観る者に強いインパクトを与えます。自分で積み上げた論理を自分で壊していくわけですから、相当にクセが強い。1+1=2の世界を訥々と淡々と構築していたくせに、いきなり1+1=0とか1+1=100とかいきなり叫んであさっての方向に突っ走って置いてけぼりにするのです。その論理を蹴破る瞬間に心の叫びのように歌が心のうちから湧いてきて淡々と切々と歌うわけです。端正に物語られながらもめちゃくちゃエモーショナルな物語だと感じるのです。いわば論理はぶっこわすために構築されて捧げられる供物です。矛盾こそが人間の心の真実であるとでも言わんばかりに(そうは言い切らないのもややこしい)。

『fff』でも、繰り返し、身分制度の秩序が堅牢に構築されていきます。それに比して、表現者や創作活動がいかにとるに足らないものかが強調されます。だもんですから、ゲーテが血を吐くように書いた文章にルイが曲をつけた『ウェルテル』を楽しい出し物として受け取らせたり、音楽を楽になれたらなんでもいい消費物として語らせたりします。わざと偏って書いているというよりは、上田久美子さんの作家としての偽らざる実感がこもっている気がして、リアルなんです。だからよけい表現が懇切丁寧に(えげつなく)なり、棘や刃で心をえぐられるような殺傷力を持つのです。もしかすると、上田久美子さんも血を吐くようにこの作品を書いているのかもしれません。

③『ウェルテル』とゲーテへのオマージュ
台詞としてゲーテに「我が文学は 人間の光」と言わせています。
全てはゲーテ『若きウェルテルの悩み』へのアンサー、答えなんだと思いました。いかに、ゲーテが血を吐くように書いた文学が当時のひとびと心に刺さり、、そして今を生きるひとの心にも刺さり続けるほどの強い力があり、それこそが人間の光なのだと感じたことを、たぶん、脚本で書いてる。

(1)構造
『若きウェルテルの悩み』は書簡体の作品で、ウェルテルのほぼ独り言(彼の目線語り)で展開する作品です。その構造同様、『fff』もまたルイの目線だけで展開しているのも、『若きウェルテルの悩み』へのオマージュ✨なのだろうと思います。

(2)モチーフ
ロッテが送り届けたピストル。『fff』でも、ルイが幼少期の自分に向けたり、ナポレオンの形見として登場したり、謎の女がつきつけたりします。

(3)思考を浸蝕されているルイ
ルイがロールヘンの再三の手紙を無視しているのは、ウェルテルになりたくないという一心なのだろうと思います。

ウェルテルは結婚前のロッテには優しくされて、恋人未満みたいなかなりいい感じになります。我ながらこのままではいかんと悟ったウェルテルは逃げます。なのに仕事先でさんざんな目に遭い、人間不信になるほどぐるぐるこんがらがったウェルテルは、そうだロッテに会おう、と思いついちゃいます。我が心の恋人よ。しかし結婚したあとのロッテは人妻としてのソーシャルディスタンスを厳守、そのよそよそしさにウェルテルは頭ではわかっちゃいるけれどやるせなくて切なくてたまらなくて抑えているけれどだんだんと狂おしさが募っていきます。その挙句に、別件の自死事件を聞いてその選択肢があったことに気がついて、ロッテとひと悶着した後にピストルを乞い、ロッテから送り届けられたピストルを甘美な贈り物として愛でながら(この部分が異様に長い)自ら死を選ぶのです。

ルイはこのウェルテルの辿った結末、〈ウェルテル・エンド〉をたどるまいと必死なのではないかなと思うのです。結婚して妊娠中のロールヘンに会いに行く勇気がないのは、妊娠すなわち性的な存在としてのロールヘンに会うのが怖い、会ってしまえば自分もウェルテルみたいに冷たくされて疎外感を味わって、その挙句に何をしでかすかわからないのです。
そこまでウェルテルの物語はルイの心を侵蝕して、行動原理のひとつになっている。ゲーテ先生は途方もない作品を世に生んでしまいました。だからあんなに心のこもったロールヘンの手紙もろくに読めないし、帰ってきてと頼んでいるのに無視する。ロールヘンを信じられない以上に自分を信じられないんだろうと思います。失いたくないから自ら遠ざけることもありますよね。バカです。でもどうしようもないほどにこの物語はルイの心に刺さって根を張っているのです。

(4)あなたは本当にあなたの歌うべきことを歌っていますか
これはルイに突き刺さった最大の棘、袈裟懸けに斬ってきた刃です。受け狙い、迎合、賛美の体をとりつつの便乗。これもまた作り手の葛藤がリアルに描かれてえげつないです。でもこれもゲーテ自身がものすごく自分の創作活動で葛藤しつづけたひとだということを知ると、決してルイを傷つけようとしたのではなく、賛辞を贈られた表現者が、賛辞を贈ってきた表現者に対して、「わたしへのリスペクトはもうええから、自分の歌いたいこと歌いなはれ」と分離独立を促した言葉だったのだろうと思います。ゲーテをこのうえもなく優しいひとに描いたのは上田久美子さんのリスペクトを感じます。
と同時に、ルイ同様に、上田久美子さんも、自分が本当に歌うべきことは何かを考えていたその形跡がこの場面に滲み出ている気がします。ルイの物語とゲーテの物語、さらに上田久美子さんの物語が入れ子構造になっている気がして、どきどきします。

ここからはわたしの感想ですけれど、なにを歌いたいかとは、何が大事なのかということで。なぜ生きているかという問いす。それを問い続けているのは何も天才だからとか芸術家だからではなく誰でもそうなんだとゲーテは伝えたいんだろうし、上田久美子さんもそれを自問自答しているし、それを観客にも伝えたいんだろうと思うのです。だからこの作品は啓蒙というよりはエモーショナルな、心情あふれる私小説だという気がします。
さらに、このコロナ禍で起きた、2020年以降の演劇界の現実と重ね合わせてみるとよりひりひりとした痛みを伴って実感させられるテーマなのです。不要不急とされた演劇の表現者としての痛切な怒りも葛藤もこめてめちゃくちゃ政治的。過激なこといわないで!という声がきこえてきたのかもしれません。でもこうして葛藤もすべて形にしてくれた。

ゲーテが血を吐くようにして書いて、一度しか読み返せなかったどろどろ内面吐露の『若きウェルテルの悩み』。この作品がぐさぐさ刺さったベートーヴェンが曲を作ったほどの作品です。『若きウェルテルの悩み』が百年超えても心に刺さりまくるのは、愛したいし愛されたいし、社会の中で片隅に追いやられそうになりつつも暗がりを照らす炎が欲しい、役に立ちたいという願いが誰にもあるからでしょう。文学や音楽の表現なんて政治や戦争の前では何の力もないというエピソードをさんざんに挿入して何度もちゃぶ台をひっくり返しながら行ったり来たりしながら、それでも百年の時を超えて心に響く『ウェルテル』を書いたゲーテへの賛辞を込めたアンサーが『fff』なのだと思うのです。

この文章も同時代を生きる上田久美子さんへのリスペクトをこめて書きました。先生の敬称をつけずに書きました。物語の作り手として心から尊敬しています。

2,望海風斗さんでなければならなかった

(1)雪原
ナポレオンとルイの雪原の場面は、『fff』で最も静かで最もDramaticな場面だと思います。雪原はある意味瓦礫の風景、グラウンドゼロともいえる場所です。精神の魂の焼け野原ともいえます。そこでルイは謎の女(欲望またはその裏返しとしての絶望)と離れて、憧憬と幻滅の対象(自分の鏡)としてのナポレオンと居酒屋トークさながらのぶっちゃけ対話を通して、原点に立ち戻っていきます。お父さんによって、世間の人々によって傷つけられた「好き」という思いを取り戻したり、ナポレオンの人生に自分と似通う部分をみつけて反芻することで喜びを得ますが、ナポレオンの挫折を追体験することで、自分も死の淵にもういちど立たされます。この場面は、喜びと挫折が刺さります。

望海さんと彩風さんでしかできない舞台だと思います。音楽もなければ歌もない、居酒屋トークで語らっているだけ。退屈かもしれない。でも「どんな音楽だ」と問われたルイが返す「知らん」のひとことでも毎回違っていました。吐き捨てるように言ったり、腫れ物にふれられたように鋭く返したり、あるいは気力をなくして自分が何をしてきたのか思い出せなくなってわからなくなったように「知らん」というときもありました。望海風斗さんの絶品の「知らん」が聴けるのはこの場面だけです。とてもむずかしい場面を成立させたのは、変幻自在の望海さんの言葉をどんなときもキャッチする彩風咲奈さんの鋭いアンテナと包容力あってのものだということも明記しておきます。徐々に目に光が宿っていくルイの表情とともにナポレオンの佇まいも徐々に光り輝くものとなっていきます。共にここの場面でいきづいているふたりを観ることができるのです。

(2)謎の女とは
①欲望

(別のところに書いたままを載せます)
初見でfffがすとんと腑に落ちて五臓六腑にしみわたってしまったことを言葉でどう説明したらいいのかわからなくてずーーーーーーっと苦悩していました。いや、わかったと感じていることは本当にわかっていることなのかどうかわからなくなってきてただただこんな思いを分かち合いたいしほえーそうなんですねってわたし以外のすべての方々の言葉に触れたいし知りたいのです。理路整然と書けなくてごめんなさい。もう無理なんです。説明するには全ライフヒストリーを語らないといけなくてそんなん誰の得?需要ゼロどころかマイナス。なので書けない。自分に重ねすぎ?ですよね?でもお芝居を観るのに自分と切り離して観ることなんてできないんです。共感能力だけ高すぎて疲れるでしょうと学校の先生に言われたことがある。腹の立つ。お前は今まで何してきたんだろうね。知らん。とんちきルイは力づくで何とかなると思って全然なんともならなかったわたしそのものだと思ったのです。毎日求めることはさまざまに姿形を変えて頭の中でぐるぐるしてああと叫びそうになる自問自答の毎日は狂人かな!?と思うことなきにしもあらずってみんなもそんなことある?て思ってたらルイがそうだったという。

謎の女は願いでもあり欲望でもあるので自らの欲望の声だけははっきりと聞こえる。創作してる時にペンよりもパンというのもルイの身体の欲する声なんだろう。ひらひらドレスもルイの女性に対する抑えがたい欲望なんだろう。ルイにとっては死もまた捨てきれない欲望なんだろう。欲望はずっとそばにいる。幸せに満ち足りている時には欲望は生まれない。不幸であると思えば思うほどこうであればという欲望は増え満たされない怒りが増す。欲望は不幸の種。そして卑しきものだし汚れたものであり憎むべきもの。ひとは死ぬまで欲を手放さない。生きる欲を捨てた時ひとは死ぬ。ハイリゲンシュタットリプライズの直前にルイが謎の女に自分のもとから去れと言ったのは自暴自棄のように見える。欲を捨てるとひとは死ぬ。雪が舞う時はルイの降り積もる悲しみ。瀕死の魂が思い出したのが憎むべきナポレオンなのが皮肉だなあと思う。謎の女の代わりにナポレオンとぐるぐると“自問自答”しながらあるべき故郷に立ち戻っていくんだなあ。
そして見方を変えると欲望は強くて綺麗なもの。パンドラの箱を開けた人類に最後に残されたもの。それはすなわち希望。何かを欲して望むことは苦しみだけど、何かを作り出す力にもなる。何かができるんだよ。

「望み」は望海風斗さんにかけているのかもしれません。ふと。

②死に至る病
ルイが抱きしめて運命と名付けた謎の女を、キルケゴールなら「死に至る病」という名で呼ぶのかもしれないと思いました。あれかそれかで迷う人間の欲の業。欲望の裏の意味。いいかえると、絶望です。ゲーテもナポレオンも"それ"に向き合い、方法を見つけたのだと思います。だからゲーテにもナポレオンにも女の声はきこえる。ルイが本当に歌いたいことも“それ”だったんだと思うのです。キルケゴールは自分にとっての真理を追求した実存主義の先駆者とされます。

キェルケゴールのことばです
「たとえ世界を征服したとしても、自分自身を見失ってしまったとしたら何の意味があるというのか」

人間は勝利する。勝つ。だが何に? というせりふと響き合うようです。
キルケゴールのいう「死に至る病」は、決して本当にそのひとを死に追い込むものではないです。「死に至る病」すなわち絶望を得ることによって、真に自分にとって大切なものに目覚めて、真に生きる、生まれ変われる飛躍のきっかけとなるものとして説かれています。って若干詳しいのは高校生のときに授業中に岩波文庫版を読んでたからです。キルケゴール、好きなの。時代もほんのすこしルイとかぶります。

死は救いなの、と謎の女はいいます。そこまでの岐路に立たされたときに、自分がずっと抱えてきたものが、人類普遍のテーマだと悟るのです。謎の女が傍らに立った瞬間にひとが崩れ落ちそうになるのは揺らぎを象徴しているのでしょう。あなただけじゃないの、といわれて、葛藤を抱えているのは自分だけじゃないんだという事が腑に落ちたとき、自分と他者を初めて同列に位置づけられる気がします。

謎の女が歩み寄ったときに銀橋をあとずさる望海さんの表情がこわばっていて、それがだんだんと謎の女の言葉を聴いて周りのひとびとの間を歩き回りながら真摯な表情にかわっていくのをみつめていると、なぜかこちらの心も透き通っていく気がします。望海さん自身が自分がかかえていたものを削ぎ落としていくのです。着衣はしているけれど、心の鎧をとっていく感じがします。真彩さんの言葉を受けて徐々にかわっていく受けの芝居をしながら、自らも発信している望海さん。銃をかまえられた瞬間の表情は観ているわたしの心にも痛みが走ります。
それから立場が逆転して、真彩さんに歩み寄っていく望海さん。その緊迫感と呼吸。望海さんと真彩さんの心と心で対話ができるふたりだからこその場面です。観るほどに切なさと愛おしさが募るのです。

「たとえ俺を殺すとしても お前と歌おう この歌を」
最後に観た時に(4月6日東宝マチネ)一緒に生きて一緒に歌える喜びを美しく歌いあげていて、望海さんが真彩さんを抱きしめる手は震えて、抱きしめ返す手も震えて、「お前という運命を 愛するよ」とささやく声も震えて、見つめあう目は涙に潤んでいました。けれどふたりだけの世界に閉ざすのではなく開かれた心で観るひとの心も招いてくれてとても幸せでした。

ここも「私なんてここにいていいんでしょうか」と問い続けたという真彩さんと、「ここにいていい」とずっと伝え続けたという望海さんの関係性が滲み出ていて、望海さんの抱きしめかたの優しさと声の優しさに心が震えます。謎の女こと真彩さんがルイこと望海さんの背中に手をまわして、ぴんと反らした指をゆっくりと丸めていく過程を丁寧にみせてくれる繊細な表現も女の、真彩さんのためらいと喜びが感じられて大切にしたいと思う場面です。強くだきしめる望海さんと真彩さんが互いを慈しむ愛がオーラのような光を放って劇場内の空気をかえて光り輝かせていく感じがします。

(3)この祈りをどうしたら音楽に
「祈り」ってすごく大事な言葉だと思いました。
たぶんルイは幼い頃から祈っても裏切られて、祈りなど無意味だと思って生きてきたんだと思います。己の力だけで乗り越えようとしてきたの。

でもすべて失って、最後の最後に、結局ひとはただ祈ることしかできないという根源的な悲しみにふれた気がします。結局ただ祈ることしかできないひとの無力さと、生の悲しみと、愛おしさにたどり着いていく。祈っても叶わないけれども、祈らずにはいられない心があることに気付く。ひとに寄り添って愛して祈りたいと願う。その祈りを音楽に表現することで、真の生を取り戻していく物語だと思うのです。
「主よ、人の望みの喜びを」というバッハの楽曲があります。謎の女とともに第9もまた人の望みの喜びを歌っています。だから智天使ケルビムも認めたのだろうと思います。己の私利私欲のためではなく、ひとの幸福を考えぬいて創った音楽だから。『fff』の神の概念はざっくりしていますが、自分の力を超越した存在がある、宇宙を感じるというのは、大いなるものにたいして祈りを捧げる感覚は、表現やものづくりの現場で、言葉で説明しづらくとも実感としてあると思います。

望海さんは、自分の身体をこの祈りの器として捧げてくれるのです。望海さんは自分の身体の内から湧いてくる声を、自分の身体の枠組み、制約を超えて、真彩さんの歌と共鳴しながら、はるか遠くに響かせようとしていました。天に響かせてくれるのです。宝塚大劇場で歌声は天をめざして旋回し、東京宝塚劇場では天に突き抜けようとしていました。

文学に、音楽に、演劇に一体今なにができるのか。
ゲーテからバトンを受け継いだ上田久美子さんの問いかけに似た祈りを望海さんが背負って舞台に立って、真彩さんとピアノを弾いて、祈りを表現できる音を見つけていきます。どれだけの想いを望海さんは背負っているのだろうと思います。音とはすなわち想いを容れる器なんでしょうね。そして突然見つけます。

急に来ます。この展開も、エモーショナルです。急にわかったのです。天啓としかいいようがない。何が起きているのかよくわからなくなっているのでここのあたりは冷静に書くことができません。ジャンプする望海さんは天衣無縫の音楽の天使です。最高です。第9の歌を歌い上げるとき、望海さんは劇場内の思いのすべてをうけとめて歌に変換して天に向けて祈りを捧げてすべてを解き放って昇華してくれるのです。観ていると心が浄化されるのです。気がする、というよりはまさに浄化されていくのを体感します。こんなお芝居と歌は望海風斗さんしかできないことです。苦しみを突き抜け、喜び歌え。アクロバティックな展開に秘められた上田久美子さんの魂の叫びも望海さんが全てひきうけて舞台の上で昇華してくれます。苦しみと喜びを身体で表現して、喜びを歌う望海さんはとてもとても美しいです。

この望海さんがルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという激しい魂を持つ音楽家として生きてくれたからこそ、音楽が、歌が、祈りと救いになりました。ゲーテの、ベートーヴェンの、上田久美子さんの、そして観客ひとりひとりの祈りを一身に背負うことは、望海さんでなければできなかったのだと改めて思います。魂の器のおおきな偉大な舞台人であり、感受性鋭く天性の優しさをもちあわせた方だから、ラストシーンで涙がとまらなくなるほど心が溶けるのでしょう。

3.『fff』と望海さんについて

生きることは苦しみだとしても、生きることで何かを残せるのだというメッセージをわたしはこの『fff』という作品から感じます。この世の苦しみ哀しみを全力で生き、生きることで誰かに何かを残せたら、それは永遠の命と喜びになるのだと歌い上げる作品は、観る側もこの世の苦しみ悲しみを全力で生きる過程を必要としていました。だから刺さったりえぐられたり逆に淡々と透き通ったりくぐりぬけらたり蓋をしてスルーしたりと、観るひとが心に持つものと反応していろんなルートが切り開かれるのだろうと思います。これから映像として観たら、観る度にかわっていくのかもしれません。

望海さんの歌に救われたひとはたくさんいると思うのです。生きたいと思うのと生きていたくない気持ちがぶつかりあい引き裂かれた時も、そのときも望海さんの歌だけは聴くことができました。望海さんはとほうもなく大きな魂の器でかなしみを引き受けて歌にして全てに意味があると昇華してくれる俳優であり歌い手です。

もともと望海さんという俳優さんは、作家の魂の叫びを共鳴する方なのだと思います。記憶を失うほど、自分の身と心に役を憑依させている気がします。依代になってくれる気がします。といいつつも、お芝居と歌が渾然一体となってトランスしているときもあれば、冷静に場を見極めているときもあって、その共存の絶妙さが、舞台人としての望海風斗さんを別格な存在にしていると思います。

眉目秀麗の美しい容貌をもちながら、冷たさよりは温かさで舞台やその場になじみ、音域の広い声で音楽と言葉を明晰に緩急自在に届けてくれるので、言葉ひとつひとつが劇的な効果を聴くひとの心に与えるのだと思います。でこんなに優しくて温かいひとだと思うのに、時折みせるひとり闇を穿つような狂おしさと激しさと切なさはどこから生まれるのでしょうか。宝塚男役としての望海風斗さんに出会った瞬間から心を奪われました。それがなぜなのかわたしにはいつわかるのでしょう。永遠にわからない謎のような気もします。

宝塚男役の望海風斗さんが好きで好きでたまらなく好きだと思いながら最後の黒燕尾を観て、デュエットダンスではかっこよくて優しく美しくて。これほどになるまでにどれだけの時間と涙と笑顔があったのだろうと思って、涙で視界が見えなくなりました。澄み切って美しい魂が舞台の上に存在しているこの同じ時代を生きる奇跡にめぐりあえて幸せです。

望海風斗さんありがとうございました
真彩希帆さんありがとうございました
雪組のみなさまありがとうございました

上田久美子さんありがとうございました
宝塚歌劇団ありがとうございました

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