僕は、「異常」なのだろうか?

 本を読んでいると、引き込まれるように、その考え・言葉を深く考えていく場面に陥る時があります。自分のことを肯定してくれているような、「それでいいよ!」って言ってくれているような、そんな場面です。

 泉谷閑示さんの「普通がいいという病」を読んでいた時のこと。
 「正常」とは、“世間一般の常識”とか“皆がやっているから”とかありきたりだったり、惰性での行動のようなイメージ。
 「異常」とは、その逆。「誰かが決めたであろう“普通”をしないこと」逆らっているわけではなく、違和感だったり疑問を持っていること。

 その「正常」と「異常」の両方を行ったり来たりして、それを言葉に表しているのが“詩”であろうと。

 個人的な解釈として、「具体と抽象」や「WHATとWHY」のような行ったり来たりもあると思いますし、「良いこと」があったら「悪いこと」を見ると言ったこともそう。対極を見る姿勢。そもそも、「善悪」とか「勝ち負け」とか、そういったどちらかに偏った状態って、なんだか疑わしいと僕は思ってしまう。

 もちろん、試合の勝敗は、確実なもので、勝った人がいれば負けた人もいる。それを楽しんでいる人もいれば、成長の過程にとって大事だと思う人もいる。紛れもない事実。

 僕は、自分のことを「普通とは違うのだろうか?」と、思うことがありました。仕事で上司から「もっと素直になれ!」とか、仕事の理由を尋ねると「理由なんてない、とにかくやれ」といった言葉を投げられてきました。その都度、萎縮していたわけではなく、「なぜ、この人は、僕にこんな言葉を言ってくるんだろう」そう思いながら、やり過ごしてきました。自分に自信が無いわけじゃないけど、漠然と、何かを疑っていたんです。

 この本の「異常」が僕の持っている一部であっても、異常な部分を、正常な部分とリンクさせて、思ったことを発信することは、なにかしら価値があると思えたんです。仕事でもそう。
 「なぜ、それをするんだろう?」と、世間一般の常識を疑うことは、腑に落ちる上でも大切だけど、時代の移り変わりの中、「これまでやってきたこと」のなかに、少しでも“不思議”だとか“嫌だな”とか思うことがあれば、深掘りしていく。その感情を感情のままにせず、言語化していく。きっと、同じように思っている人はいるから。

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