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安部公房ー『飢餓同盟』論、その3ー

安部公房ー『飢餓同盟』論、その3ー

今回で、第3回目を迎える、安部公房の『飢餓同盟』論であるが、今回で終わる感じではない。まだまだ、続きそうである。というのも、この『飢餓同盟』という小説、何かいたる所に、場所や人間の壁があって、複雑な構造を持っていて、しかしストーリーも破綻せずに、実直に描かれている小説だから、考察にも、非常に気が入り、また、読んでいて素直に面白い小説なのである。複雑怪奇とでも言えば適切だろうか、そんな雰囲気を持っている。論に進もうと思う。

第二章の或る箇所から、引用する。

ぼくはもうただ恐ろしかった。ぼくがぼくであるということさえも恐ろしかった。(中略)自分で自分を飛びこえることがこんなに勇気のいることだとは知らなかった。追いつめられて、ぼくは自分をのぞきこんだ。人間というものは、中心までとどく地球のひびほどの深さをもっていた。ぼくはぼくに目がくらんだ。

『飢餓同盟』/安部公房

ここの述懐は、非常に『壁』の主題に近いものを感じる。無効性とでも言おうか、「自分で自分を飛びこえること」などは、その一例である。そして、「追いつめられて、ぼくは自分をのぞきこんだ。」という表現は、まだ早かりし安部公房の、将来描く『箱男』の発想などが垣間見える。「ぼくはぼくに目がくらんだ。」という箇所などは、実に『箱男』の主題を言い当てていないでもない。少なくとも、表現の中に、この箇所において、『箱男』の萌芽が看取出来る訳ではある。ただ、この『飢餓同盟』における、主題の本質を探れば、例えば、次の箇所、

それでも、勇気をもつ理由があれば、まだよかったのです。ぼくには勇気を得てくるよりどころがなかった。ぼくは自分の虚ろさにたえられず、魂の飢餓状態におちいりました。

『飢餓同盟』/安部公房

という表現に行き着いたところで、種証されるのだ。つまり、「魂の飢餓状態」という表現、ここに、一つの、『飢餓同盟』の主題が見て取れる。実際の飢餓もさることながら、ここに表現された、「魂の飢餓状態」というもの。これを如何に理解すれば良いだろう。この時期の安部公房から照射すると、まだまだこれからが、小説家としての始まりだ、という気概が看取出来るし、『飢餓同盟』以降の小説への種子が散財されているといえよう。少なくとも、「追いつめられて、ぼくは自分をのぞきこんだ。」という表現は、『箱男』を意識していると、ほぼ確定して良い様に思われるが、どうだろうか。

その後に出て来る文章の、或る一節を引用。

彼はもう二十七だった。

『飢餓同盟』/安部公房

この二十七、という年齢は、実は安部公房の『壁』論でも述べた様に、安部公房が、『壁』で芥川賞を受賞した年齢と一致する。どうやら、『飢餓同盟』とは、この年齢の同質化から言って、安部公房が芥川賞を受賞して、これから小説家でやっていくと決意した時の、決意表明の具現化された小説だと言えるのではなかろうか。『飢餓同盟』は、そういった意味において、最も重要視せねばならない、安部公房の人生の分岐点に聳え立つ小説なのだと言えると思われる。この二十七、という年齢の表記は、確実に見逃してはならないと言えるだろう。

安部公房ー『飢餓同盟』論、その3ー、として述べて来た、この論も終わろうとしているが、結句、この論で得たものは、一つには、『飢餓同盟』以降の小説への布石になっている小説が、『飢餓同盟』だということ。もう一つは、二十七、という年齢の表記から、安部公房が、この小説を起点にして、小説家としての舵を切った、と受け止められるということである。何れにしても、最重要の小説であることは明白だろう。安部公房ー『飢餓同盟』論、はまだ続くが、この引用箇所を内包する、第二章において、重要な表記があったことは、必ず、研究における必須の運びだと、思わざるを得ない。これにて、安部公房ー『飢餓同盟』論、その3ー、を終えることとする。


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