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安部公房ー『飢餓同盟』論、その1ー

安部公房ー『飢餓同盟』論、その1ー

これまで、評論やエッセイ、また、初期の短編集などを考察してきたが、『壁』論も無事に事は運び、作品論としての、『飢餓同盟』論を、買いてみようと思う。そもそもが、自分は、安部公房のファンではあるが、『飢餓同盟』を読んだことは一度もなかった。手元にはあったので、タイトルは勿論知っていたが、何故か読み進めることがなかったのである。しかし、その原因を探ったところで、どうにもなるまい。書いてみようと思ったが最後、論は書き始められなければならないのである。

それにある先生に言わせれば、物語というものは作者が本当だと言いはるほどウソにみえ、ウソだと言いはるほど本当にみえるものだそうであるから、なおさらアイマイなままにしておくほうがいいようにも思う。

『飢餓同盟』/安部公房

こう言った叙述を、どう理解すれば適切だろうか。凡そ、これまで安部公房論で、方法論として、小説の裏付けを評論やエッセイから抜き出して来たことに傾斜すれば、この述懐は、それらを否定してしまうことになりはしまいか。安部公房の独白は、其の侭、方法論の独白足り得たのであって、何と厄介な、小説の始まりだろう。しかし、『壁』以降の安部公房は、ひたすら困難の抗いの繰り返しとして小説を創造しているのだから、この『飢餓同盟』においてもそれが云えるならば、この引用箇所を、鵜呑みにする必要はない。なんなら、この引用述懐すら、嘘だと言えるのかもしれない。それに、設定としては、「ある先生」の言葉であるから、『飢餓同盟』と言う小説の初めにこのような設定を入れているということは、本当の安部公房は実体を隠して、嘘の表現で小説を書く、と言う小説設定絵の主張の表れだと読めなくもない。だから、『飢餓同盟』において、方法論の探りは無効だと言えるかもしれない。この噓に始まる物語を、そういう物語として、読解を進める。

次の箇所を引用する。

いささかの説明が必要である。彼はこの診察所に赴任してこのかた、まだ一人の患者も診たことがなかったのだ。いや、来てみると、診療所というのは名ばかりで、実際にはそんなものはなかったのだ。彼は患者に飢えていた。・・・

『飢餓同盟』/安部公房

この設定は、安部公房が東大医学部を卒業していることが、関係していそうだ。無論、安部公房は、医者にはならないという条件で、東大医学部を卒業しているが、医学を学んだという事は、充分に小説に影響を与えていると考えて良いだろう。また、この箇所の最後、「彼は患者に飢えていた。」であるが、これは、飢餓と言う言葉を想起させられる箇所である。同盟というものが、この様にも表現されていることは、『飢餓同盟』における、一つの象徴箇所であるかもしれない。しかし、この「彼は患者に飢えていた。」と言う箇所は、驚きの文章である。まさかとは思うが、医者は患者に飢えるなどということはあるのだろうか。患者などいないほうが、平和で幸せだと、医者も思って居ると考えていたから、驚きの内容であった。

こうして、『飢餓同盟』の話を読み進めていると、とにかく面白い。ストーリーに引きずり込まれるというのは、こう言う状態なのか、と思わされる。確かに『飢餓同盟』は、独白というより、作り物の観が強いが、随所に、安部公房の独自の適応言語が看取出来る。物語を作る時に必要な実体験やデータ、こういうものを多分に兼ね備えた安部国防には強みがある。『飢餓同盟』は、『壁』の三年後に発表されているが、『壁』との共通項はあまり見られないことも重要であろう。新しい価値観としての小説を試みたのだとしたら、『飢餓同盟』は、大成功の形式を持った小説になっていると、思って居る。安部公房ー『飢餓同盟』論、その1ー、はここで終わるが、引き続き、安部公房ー『飢餓同盟』論、その2ー、で考察を続けようと思う。

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