詩人の定義ー近現代の詩と音学の系譜ー

(序)

詩人というものを、どの様に捉えるかは、実に難しいと言える。

ウィキペディアにはこうある。

詩人(しじん)とは、を書き、それを発表する者。また、それを職業にしている者。

ウィキペディアから

余りにも広義すぎて、どの様に言葉にして良いか、戸惑うのも、仕方のないことだろうか。詩を発表していれば、職業じゃなくても良いのか。或いは、詩を文章にする詩人も居れば、詩を言葉にして発する詩人も居る。街中で、奇声を上げて居る錯乱者が、もしも、詩人だとしたら、と言う空想にまで思いが至るが、ざっと、詩人の定義ー近現代の詩と音学の系譜ー、として、述べてみたい。

古くに思い当たるとすれば、「万葉集」、その後、人物においては、藤原定家や、西行、芭蕉などが思い起こされる。今述べようとしている、近現代では、萩原朔太郎や、中原中也、宮沢賢治、その他、様々に詩人は誕生した。古くは定型であったものが、今や定型と言う型を破り、近現代にその姿を現したのである。述べたいことは、現代の音楽家の中に、もしも一時代古く生まれていれば、詩人になっていただろう、という音楽家が多くいるということだ。

思えば、萩原朔太郎賞、中原中也賞などに、例えば、syrup16gの五十嵐さんや、音楽家で小説家の黒木渚さんが、選ばれても何らおかしくない、ーというより、もしもこの二人こそ受賞すべきだー、という状況下になっていると、思わざるを得ないのである。ましてや、二人には、その歌詞という、詩に音楽が付随しているのだから、普通の詩人よりも、より困難なことをやっているのであるから。

丁度、文學界の、2023年12月号で、対談が載った。音楽史にまつわる対談だが、文學界が、今、この情勢で、音楽を取り上げたことは非常に大きい。今や、音楽はその価値を高めている。音楽は人気が薄れたのではない。高尚過ぎて、一般人が付いて行けなくなったのである。この状況では、五十嵐さんと、黒木渚さんは、レベルが高すぎて、一般人は解読不能かもしれない。両者は、ー筆者さえ、どこまで理解出来ているか分からない、自分が優れていると言いたいのではないー、途轍もない歌詞を、書いている。

まさしく、歌詞であり、歌詩である。この、音楽と詩の共存の極地が、現代の芸術的課題だろうが、両者は、その先駆者に見える。音が詩を放ち、詩が音を収める。こういう補完関係を、具現化することの意味、即ち、芸術の神に近づくことを、実践しなければ、日本の芸術は廃れるのだ。実際、syrup16gも、黒木渚さんも、金銭目当てで、芸術をやっている訳ではないことは、その優れた音楽性から、当に分かることである。寧ろ、両者の芸術活動の資金を、国家予算内に入れてもらいたいくらいなのだ。

持続して音楽を続けることは、非常に、難しい現代の音楽界の構造である。セールス=価値ではない。詩人の定義ー近現代の詩と音学の系譜ー、と述べたが、五十嵐さんは、中原中也の系譜、黒木渚さんは、萩原朔太郎の系譜だと、思うに至り、それが自分の勝手な評だとしても、そこに、詩と音楽がある限りにおいて、詩人の定義がなされるべきだと、強く思うのである。そうは思われないだろうか。

引用のない、印象批評の極みの様な文章になったが、無論、この文章を、論文だと思われないで頂きたい。ただ、今、伝えたかったことを、ここに書き散らしたものである。それでも、詩人の定義ー近現代の詩と音学の系譜ー、と言うタイトルが脳裏を掠めた以上、書かずには居られなかったのである。最後に、日本の文學、音楽の、未来永劫を願って、また、その流れを、五十嵐さんと黒木渚さんに託して、この文章を、閉じたいと思う。自分の、今思うことを、書いたということだけは、断言出来るつもりだ。

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