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『黒木渚論』ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー

『黒木渚論』ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー

かいわれのせか

『はじめに』

今回の本論、ー黒木渚、その孤高とユーモアについてーは、まずこの文章を【序説】とする。【第一章】は、様々な角度から、黒木渚について述べてみた。どこにも発表していないものばかりである。また、【第二章】は、やはり、今迄通り、エッセイ調である。『黒木渚、MVに見る動き』、『黒木渚論・・・その位置』、『黒木渚さんの、グッズ、行灯』、の3論は、既出のものだとお伝えして置く。【最終章】は、『おわりに』として、本論を結んだ。

上記しているが、本論は、随分、執筆の視点の角度を、今迄のものとは変換している。総じて、実に新しい、黒木渚論になったと言えるはずだ。

※文章の中で、黒木渚という本名で活動されているので、黒木渚と表記していますが、決して渚さんを呼び捨てにしている訳ではないことを、ご了承願います。

目次

【序説】

『はじめに』

【第一章】

『黒木渚論・・・「小説現代」における対談』

『黒木渚論・・・コート・カバーン』

『黒木渚論・・・その発想の高きユーモア』

『黒木渚論・・・「解放区への旅」の為のノート』

『黒木渚論・・・本論の表紙絵について』

『黒木渚論・・・「灯台」と「Lighthouse」の違い』

『黒木渚論・・・大学院卒業』

『黒木渚論・・・闇の突破口を開いた天性の明るさ』

『黒木渚論・・・いつか芸術界を支配する時』

『黒木渚論・・・キュビズムについての一考察』

【第二章】

『黒木渚、MVに見る動き』

『黒木渚論・・・その位置』

『黒木渚さんの、グッズ、行灯』

『黒木渚論、とは一体何なのか』

『黒木渚論』ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー

【最終章】

『おわりに』



【第一章】

『黒木渚論・・・「小説現代」における対談』

平成二十九年五月一日発行の、「小説現代」、第五十五巻において、黒木渚※は、石田衣良と対談をしている。この雑誌において、「書く」ことをテーマにして、両者は対談しているが、読み返していて、面白い内容になっている。

当時、黒木渚は、『壁の鹿』と『本性』を作品化している状況下で、石田衣良は、黒木渚が賞を取ることについて、「うんと早いうちにとってしまうか、遠回りしていくか、ですよね」と述べている。現在の黒木渚を見ると、書きたいものを、良質なものを書いて、遠回りした道を選んだと思っている。

例えば、「夜のまどろみ」において、短編を量産していることも、未来の何れかに、短編集として本にする計画もありそうである。何れにしても、音楽と文学の二刀流だから、小説だけに集中できない、状況下ではあるが、石田衣良の発した、「遠回り」を思い出して、何かの賞を、まずは取って貰いたい。

『黒木渚論・・・コート・カバーン』

記憶を辿って、思い出したのは、黒木渚さんが昔、ツイッター(X)で、間違えやすい言葉を上げていたことです。その中に、カート・コバーンを、コート・カバーン、と記載されていて、思わず笑ってしまいましたが、確かに、使ってる言語を組み替えれば、その通り、変換できます。

nirvanaのボーカリスト、カート・コバーンには、学生時代、友人と共にはまっていて、ポスターやカレンダーを買って、楽しんでいました。楽しむというと、少し変ですが、まあ、偶像崇拝みたいなものです。日記や語録集なども買っていました。

黒木渚さんの小説、『予測不能の1秒先も濁流みたいに愛してる』には、カート・コバーンの、曲の描写が出てきます。nirvanaの曲は、青春に良く似合います。名前が、コート・カバーンだったら、あれ程、売れたかどうかは、分かりませんが。

『黒木渚論・・・その発想の高きユーモア』

黒木渚さんの、一番良いところは、自分にとっては、発想の高きユーモア、だと言えます。黒木渚の棘(通称黒棘、youtubeで、毎週21時から)においても、とにかく、選ぶ言葉のセンスが、ユーモアに満ちているのだ。

お笑い芸人よりも、ユーモアがあって、しかし、品のある、発想の高きユーモアなのである。どうやったら、こんな芸当で、面白く出来るのか、聞いてみたいくらい、面白い。或る種、天性の面白さだろうと思っている。

この発想の高きユーモアは、作品にも顕著に現れていて、例えば、「像に踏まれても」という曲は、何だか聴いているだけで、ははっつ、と笑ってしまうのだ。「神様なんていてもいなくてもどっちだっていいよ」などと言われたら、度を越した、その発想の高きユーモアで、自分の心臓は射抜かれる。

『黒木渚論・・・「解放区への旅」の為のノート』

一体に、黒木渚さんの、解放区とは、どこを指すのであろう。無論、抽象的な言い回しかもしれないし、或は現実的に、酒場かもしれない。歌詞からも、その具体性は看取出来ない。寧ろ、聴き手の想像力に委ねている感じだ。

音楽においても文學においても、芸術において、一つのテーマと成り得るのが、不自由からの解放である。この類のテーマは、大昔から、大変重いテーマとなっている。階級制度、封建制度、宗教制度、民族制度、などなど、上げてみればキリがない。

人類は常に、不自由からの解放として、その覆い尽くす悪徳と、強く闘ってきた。「解放区への旅」において、その不自由とは何だろう、と考える時、当時、黒木渚さんは、喉の不調のため、その病と闘っていた状況下に置かれていたことを、見逃す訳にはいかない。

喉の病の不調からの、解放。もしも、「解放区への旅」の為のノート、を書くとしたら、そのことが、脳裏を過らないでもない。というよりも、恐らくは、そのことが、黒木渚さんを不自由にしていたことは、大いに予想が付く。

同シングル、「解放区への旅」には、そういった低不調から運命への復讐を遂げようとする、「火の鳥」という曲も収められているから、その表題曲となった、「解放区への旅」のテーマも、同期するものがあるだろう。

本論、『黒木渚論』ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー、において、その表紙絵に、「解放区への旅」の一場面を使ったのは、この『黒木渚論』ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー、の裏に、長い喉の不調との闘いがあったことを、明記して置きたかったからである。そして、現在、黒木渚さんは、現時点において、予期した、解放区に居るはずだ。

『黒木渚論・・・本論の表紙絵について』

後述もするが、一端述べて置きたい。本論の、表紙絵について、である。この絵は、結構昔に描いた、「解放区への旅」のMVの或る一場面を抜粋した絵、である。なかなかに、自分はこの場面が気に入って居たので、書いたのだが、勿論、表紙絵に使うためではなかった。

今回、黒木渚論の、第4論目を書くにあたり、この絵を使えば、論がまとまりそうだな、と思ったので、使用している。黒木渚論4、と記載して置いた。これは、今までの、3論と同様、論のタイトルを表紙絵に入れていない。

一つには、論の題名が長いので、表紙絵に入れるとうまくフイットしないのである。それで、これまでの習例通り、黒木渚論4、と記しているのである。インスタの方にも絵を上げようと思っているが、結句、こういった事情で、抜擢された絵なのである、そのことを記して置く。

『黒木渚論・・・「灯台」と「Lighthouse」の違い』

黒木渚※の、代表曲の一つ、「灯台」は、かなり人気の高い曲だ。ゆったりとしたバラードで、ライブDVDでも聴けるが、苦しい恋心の様な歌詞で、描かれている。発表当時、聴いていて、ものすごく心に響いたのを、今でも鮮明に覚えている。

ところで、最新アルバム、「器器回回」には、「Lighthouse」という曲が入っている。この曲、「灯台」のアレンジが違うバージョンである。そして、初めて知ったのだが、灯台のことを、英語で、Lighthouse、と言うそうだ。

自分は、この「Lighthouse」をライブで聴いた時に、物凄く感動したのである。そして、その後、音源化され、アルバム「器器回回」に収録されることになった。違いとしては、「灯台」の歌詞の一部が無くなっていること、そして、アレンジも声の出し方も、全く異なることである。

まさに、「灯台」と「Lighthouse」は、別物なのであって、言ってしまえば、どちらもが、甲乙つけがたい黒木渚の名曲だと言えるだろう。「Lighthouse」だけが、アルバム「器器回回」では、MVがないのも、妙に気になる点だ。

この、「Lighthouse」と言う曲の世界観を保持するためには、MVがないほうが、想像力を喚起してくれるからなのか、或る事情があるのか、分からないが、少なくとも自分は、MVがなくても、「Lighthouse」に充分に感動しているから、問題ないのである。

この様に、自分にとっては、「灯台」と「Lighthouse」の違いは見受けられるが、どちらのほうが完成度が高いとか、そういったことは関係がなく、両曲ともに、名曲なのであって、適切に創られていると、今でも感動しっぱなしなのである。

『黒木渚論・・・大学院卒業』

黒木渚さんは、大学院を卒業されている。すごいな、と思う訳である。自分の話になるが、自分は大学院を中退している。別段、自分で決めたことだし、現在、中退したことに、さして不都合なこともないから、自分は自分と言う感じだが、やっぱり、大学院を卒業されていることに、尊敬するのである。

ポストモダンの研究、自分の研究の範疇には、ポストモダンは入っていなかったので、未知の領域だと思うが、研究という枠を外せば、安部公房などもポストモダンな様で、自分は安部公房を学生の時から好んで読んでいたから、研究の枠に入れておけば良かったなと思うこともある。

安部公房で一番好きなのは、『カンガルー・ノート』である。脛に、かいわれ大根が生えてくる話であるが、自分の、かいわれのせか、のかいわれは、この『カンガルー・ノート』から取った訳ではない。黒木渚さんの、「カイワレ」と言う曲から取った訳でもない、自然と降りて来た名前である。

よく、かいわれのせか、と言う名前の由来を聞かれるのであるが、自分でも答えられないのである。名前の由来が、分からないのである。しかしまあ、そんなことはどうでも良いことで、とにかく、黒木渚さんの作品に、安部公房を含む、ポストモダン研究が、影響を与えていることは、間違いなさそうだ。

大学院卒業ということだが、大学院に入るにはそれなりに勉強をしないと、受からないから、自分は、大学院に入った時嬉しかったが、中退したことに、友人からは、せっかくやのにもったいない、などと言われたこともあるが、本当に後悔していないのである。

しかしやはり、大学院を卒業されている黒木渚さんには、尊敬の念を持っている。卒業にも、努力が必要なことは知っているし、その後、公務員になったことも、間違いのない手順を踏んだのだろう。今は、音楽家、小説家をされているが、きっと過去のプロセスが、作品の根底にはあるはずである。

『黒木渚論・・・闇の突破口を開いた天性の明るさ』

黒木渚さんは、事務所を離れ、現在独立されている。そのことが、功を奏したのか、物事を上手く運んでいると言う感じがする。まさに、自分が最初に書いた論でも述べた、イニシアチブによって、進んでいる感じだ。

事務所に、闇があったのかは分からないが、日本の芸術界の、闇の突破口を開いた天性の明るさが、見受けられる。プライベートも充実している観があって、「器器回回」と言うアルバムが出せたのも、一つには、独立による自由が影響していると思われるのである。

自分が、天性の明るさ、というのは、物事が順調に進んでいる証としての、明るさのことである。そうなると、これから先の、黒木渚さんの芸術に、期待をしてしまうのも、無理はない。ファンとして、ついて行くのみである。

『黒木渚論・・・いつか芸術界を支配する時』

黒木渚※の姿勢は、やはり虎視眈々と、と言う感じである。着実に広く手を伸ばして、いつか芸術界を支配する時が来るだろうと、現在の黒木渚を見ていて思う。やはり、武道館を建てるというくらいだから、その前に武道館にも行きそうな気がして来た。

曲や小説などに宿っている、或る種の未来性、ーこれはつまり、未来を見越して、既に新しいものとされるものを準備して置き、作品化しておくという姿勢においてー、これらが、芸術界の未来を支配しそうな、勢いというものだ。

独立後、順調に来ている様に見えるから、尚更、我々ファンだけでなく、まだファンでない人をもファンにしてしまうことで、新規獲得を狙い、支配のテリトリーを広げて行く姿勢が伺える。即ち、黒木渚が、いつか芸術界を支配する時が来るのが、予見できるのである。

『黒木渚論・・・キュビズムについての一考察』

黒木渚※と、キュビズムの関係について、考察して置きたい。そもそもキュビズムとは。

「ピカソなどによって創始された、多様な角度から見た物の形を一つの画面に収める現代美術の動向。」

と、されている。黒木渚の「白夜」と言う曲の歌詞に、「キュビズム」の言葉がある。

また、黒木渚には、「ピカソ」と言う曲もある。上記した通り、キュビズムの創始者の一人である。黒木渚が、如何に、キュビズムに関心を寄せていたかは、この「白夜」と「ピカソ」から、窺い知ることが出来る。日本語では、「立体派」と言われることは、余りしられていない。

多分に、曲の感じやテンポに合わせて、「白夜」と「ピカソ」で、キュビズムのことが搬入されているのだろうし、云わば、ニュアンスとしてのキュビズムの使用だと思われるが、その使用方法のテクニックは、圧巻である。黒木渚における、キュビズムについての一考察、を行ってみた。

【第二章】

『黒木渚、MVに見る動き』

黒木渚さんの、MVにおいて、去年、一番、インパクトがあったのは、やはり「落雷」でした。曲と映像の親和性が、本当に高かったと思います。

何度もyoutubeで、観ていました。しかし、「落雷」だけに拘らず、過去を振り返っても、黒木渚さんの、MVに見る動きは、何か、歌詞やメロディと、一致するような、高い親和性があったように思います。

それでもやはり、「落雷」を一番に推します。そして現在、視聴回数を見ると、167,986 回視聴、となっています。すごいな、と思います。

また、「落雷」の入っている、「器器回回」というアルバム、本当にお勧めです。是非、黒木渚さんのホームページから、ショップに行って、「器器回回」を、購入し、お聴き下さい。

『黒木渚論・・・その位置』

黒木渚さんは、人の上に立って、人を導いてくれる人である、と言えると思う。細かい配慮や、先天的な声の質によって、周囲から人が集まる人徳もある。どの方向へ進もうとも、恐らくファンは付いて来るだろう。

云わば、そういった位置に居るという訳であって、更には、芸実活動によって、いかんなくその才能を、発揮しているのだから、我々の望む芸術の展望の先に、いつも居てくれることが、何よりのファンの救抜と成り得るという訳だ。

今後、どの様な芸術が待っているにせよ、ー個人的には、ジャズとのコラボを毎年慣行して貰えると嬉しいがー、不安ではなく、期待のほうが大きい、黒木渚さんの、芸術界での位置なのであるから、まずは、ライブやグッズのために、稼いだものを、貯金して置くのが、吉と出るだろう。

『黒木渚さんの、グッズ、行灯』

黒木渚さんの、グッズ、行灯が、手元で保管されている。

このグッズは、死に損ないのパレードのライブの時に、会場を照らしたとされるグッズだ。自分は遠方だったので、また諸事情もあり、参加出来なかったライブだが、行灯を含め、グッズは購入していたので、後日配信の時に、パソコンでライブ配信を観ながら、一人、行灯を振った記憶がある。

綺麗なグッズで、今でも大切に保管しているが、(黒木渚さんのグッズは、大切に保管しています。)、久方ぶりに灯してみた。

非常時にも、ライトとして使えそうだし、グッズとして、上質な感じを受けるグッズだと思います。

自分は少し、火の鳥を想起しますが、また、新しいグッズのために、貯金をしておこう、と思わされるグッズです。行灯は、最高です。

『黒木渚論、とは一体何なのか』

黒木渚論、とは一体何なのか、ということについて、今迄述べて来なかった経緯がある。まさに、文字通り、黒木渚論なのであるが、言ってしまえば、黒木渚さんに関する、自分なりの黒木渚の捉え方、である。

こういう風に捉えている、ということを、文章にしてまとめているのであって、現在まで3論、本作で、4論目になるが、一貫してその姿勢は変化してはいない。それぞれ、副題を決めて、発表しているが、飽くまで、自分なりの黒木渚の捉え方である。

だからと言って、何もかも同じ傾向では面白みがないと思い、一応、視点を変えて、論ごとに区切って、それらを羅列しているのだが、書いて居て、やはり、遣り甲斐というものはある。

というのも、根底には、黒木渚さんのファンの新規獲得、と言うことが一つの目標であるがため、出来るだけ初見の人にも、読んで貰えるように、自己の立場を含めて、黒木渚への入場形式を述べている訳である。

黒木渚さんの、魅力の発信、そのために、曲や小説、また、ライブやグッズでの出来事を、細かく整理して、これはこの様であった、的な観点で、書いて居るのだ。

黒木渚論、とは一体何なのか、と言う問いがあったとしたら、上記した内容を読んで頂ければ、一応、分かっては貰えるかと思うが、ともかく、ファンの一人としての、素晴らしき黒木渚さん、と言うことに尽きるのである。

『黒木渚論』ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー

本論は、黒木渚※の、ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー、というタイトルが、主軸となっている。表層に見える黒木渚からは見えない、実在の黒木渚に迫っている。無論、実在とは言え、どこまでが正確に読み取れているかは、黒木渚本人にしか分からないところだが。
それにしても、表層的には、孤高のミュージシャンなどと書かれていた頃もあったと思うが、近年の黒木渚を、孤高とするには、些かの語弊があると思う。少なくとも、音楽や小説に見られる立ち位置は、孤高かもしれないが、実在の黒木渚は、フレンドリーな常識人という感じを強く受けるのだ。

また、本論では、黒木渚に見受けられるユーモアについても述べているが、その面白さは、凡そ、孤高という言葉は当て嵌まらないだろう。優しく、純心な黒木渚がそこに、ーつまり、実在としてー、佇んでいると思う。
こういう風に論じていると、人間、黒木渚は、非常に人徳があって、面白い人であると思われてくるから、その実在としての黒木渚と、芸術家としての黒木渚には、大きな乖離があると言う点で、益々、魅力的だと言えそうだ。

本論の執筆意図は、こういった、本来の黒木渚の面白さに触れて、ファンになって貰いたいとする、一種の独白でもあり、また、布教でもある。現に、黒木渚が教祖だとは思わない。普段から、自己の欠点について、リーダーシップが取れないと、仰っている。
しかしそれこそ、独我的ではなく、ファンの気持ちの方を優先するという、教祖とは全く異なる存在だと言う証ではないだろうか。『黒木渚論』ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー、として述べて来たが、言いたかったのは、芸術的孤高、実在的ユーモア、としての、黒木渚に於ける魅力だったのである

【最終章】

『おわりに』

今年はゆっくりと、『黒木渚論』を執筆しようと思っていたが、時間が出来たため、随分と速く完成した、本論、『黒木渚論』ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー、である。
黒木渚さんのファンなら、だいたい、知っているだろうことを、述べていると思うが、今回も、書き出しは少し時間が掛かった。ただ、副題の、ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー、が決まってからは、述べた様に、早く完成したので、自分でも驚いている。書くことが苦痛にならない自分にとっては、如何に黒木渚さんの魅力を伝えられるか、という、思考の結果が全てである。特に、苦労するということもなく、楽しみも含めて、書けた様に思う。

これで、黒木渚論の第4論目となることは、自分でも驚くほどの、集中力で書けて居るの思うので、今年は、更に、多くの論を書けたらと思うが、どうなるかは、今のところは未定である。現時点で、第4論まで書けたことに、一つの到達点を見出しているからである。

願わくば、この黒木渚論が、黒木渚さんのご迷惑にならないということ、そして、新たな黒木渚ファンが増えること、このことを、願って止まない。以上で、『おわりに』として、論を結ぼうと思う。


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