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安部公房論ーその奇怪なる小説推移ー

安部公房論ーその奇怪なる小説推移ー

安部公房論に入るにあたり、まずは、その出自について、述べて置きたい。東京生まれだが、生後まもなく、満州へと行き、満州で少年期を過ごして居る。安部公房を発掘した、埴谷雄高も、台湾生まれで、両者ともに、日本国外において、幼い頃を過ごしているためか、所謂、存在についての、一種の揺らぎみたいなものが、作品から看取出来るのも、当然のことかもしれない。日本人ではない、という日本人としての、個体の揺らぎである。別段、小説に、刻銘にそのことが、リアルに描かれている訳ではない。ただ、小説の様々に見られる、主人公の「匿名性」は、如実に、自己の存在の不確定性を表出している様に思われる。そして、そういった事態というものは、小説の主人公にとっては、いつも本体的自由で居られない、「壁」に突き当たっている。

安部公房は、『壁』という小説で、第25回芥川賞を受賞している。芥川賞を受賞するだけの、充分に満ち足りた小説だが、この、『壁』という「壁」が、小説家としてのスタートになっていることは、看過できまい。勿論、「壁」そのものを言うのではないが、この、不可能性を象徴するもの、としての壁は、安部公房の小説のその後にも、多々見られる。安部公房は、自由に小説を書いて居るのだが、その本質は、常に「匿名性」を逸脱出来ない、「壁」にぶち当たる。ただ、その「壁」が有る限り、安部公房は、その「壁」を主軸的テーマとして執筆出来るのである。『砂の女』然り、『箱男』然り、他の小説においても、その「匿名性」は顕著に現出している。

㈠で述べた、出自による自己の揺らぎと、小説における「匿名性」を、簡単に結び付けるのは危険だろう。飽くまで、自立した小説に、執筆者を登場させようとするのは、ナンセンスである。ただ、小説の背景を知ることによって、ーつまり小説家の舞台裏を知ることによってー、より小説の深度を認知出来ることは有る。それは、物事を知る、という事である。その知るという行為をすればする程、安部公房作品の、その奇怪なる小説推移、という現象に着陸するのである。ここには、『壁』から始まる、安部公房の作品の全てが、常に不可能性を追求している感じが、残存しているのだ。「壁」を乗り越えることの不可能性としての、一貫したテーマの様なものである。何度も言うが、だからこそ、そのテーマを小説化出来るという、現実的倒錯がある。

これ以上ない「壁」という困難から出発し、身体の死滅へと突き進むルートとしての芸術性が見えて来る。小説を読めば読む程、浮き彫りになる。その身体的死滅が顕著に見られるのは、やはり生前最後の長編小説、『カンガルー・ノート』であるが、その前に書かれた小説、『方舟さくら丸』では、核戦争を想定し、核シェルターに入り込む人物像が描かれ、核戦争が始まれば、地球が壊滅死することが、もはや、人類の「壁」が、核戦争であることが、自明の理であることを、述べているのである。この絶望が、どうして、『カンガルー・ノート』という、世界ではなく個人主体の小説によって、安部公房が最後を迎えたかは、一見、或る種の謎ではある。ただそれを、ーその奇怪なる小説推移ーとして読めば、結句、人類は最後は、世界の死ではなく、個人の死によって、最期を迎えるということが、暗示されてはいまいか。

最後、というものは、どれだけ地球世界が最後を迎えても、個人が最後を迎えぬ限りにおいて、最後ではない。どこで核戦争が起こっても、自国に核が投下されても、個人が死ぬまでは、個人の死というものはない。『カンガルー・ノート』の最後は、新聞記事からの抜粋、廃駅の構内で死体が発見された、という記事の表出で幕を閉じる。『飛ぶ男』を最後の小説とする考えもある様だが、当時は、最後の小説として、『カンガルー・ノート』が認知されていたと言えるだろうし、何れにしても、小説の推移を見れば、述べた様な、個人の死が、安部公房文学の最後に有ったとは言えるはずだ。推移した小説のテーマは、世界の死は、個人の死を乗り越えられないと言う風に、帰着したのである。

安部公房論ーその奇怪なる小説推移ー、として論を運んだが、新潮社から現在出ている、ほとんどの文庫本を集めたが、まだ、全読は出来ていない。よって、過去に読んだもの、最近購入して、特に印象深かったものから、論の道すじを立てて臨んだ。安部公房論であるが、これは、全き印象批評である。学生時代の様に、文献引用をほとんどしていないからである。また、少し気になった箇所は、ウィキペディアを参照したが、引用とまで呼べるものでもないと思う。安部公房生誕100年ということで、元々、安部公房のファンであったから、安部公房論を書いてみようという思いになり書いてみた。正直言って、書き終わりましたが、全然、安部公房の天才的ヤバさ、については、書けてはいない。小説のテーマを主軸として論を運びましたが、内容のヤバさに触れたい方は、是非、文庫本を買って、読んでみて下さい。『人間そっくり』、を始め、会話文主体の小説の、会話の内容まで、踏み込んでいない、ということです。読んでみると、素直に、とても面白いです。これにて一応、安部公房論ーその奇怪なる小説推移ー、を終えようと思います。また何れ、小説の言語内部に着目した安部公房論を書いてみる予定です。


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