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安部公房ー『飢餓同盟』論、その2ー

安部公房ー『飢餓同盟』論、その2ー

安部公房の『飢餓同盟』論も、その2に、入ろうとしているが、なかなかに、今迄読んで来た安部公房の作品とは、傾向の乖離があり、同時に、この作品が安部公房が書いていなかったとしても、つまり他の誰かの小説だったとしても、これも明らかに斬新な手口で創られたものだ、と言わざるを得ないだろう。だからこそ、考察のし甲斐があるということになるし、また、困難な壁にぶち当たりながらも、その本質を知るために、努力しようという気になるものだ。今回も、『飢餓同盟』の重要箇所を抜粋して、小説の考察を進めることにする。

第二章の冒頭から、引用。

(織木順一の遺書)ー

遺書にもさまざまな遺書がある。
愛しているものは、他人の心の中にとどまろうとして、種子のような遺書を書く。
憎んでいるものは、他人の心に死をまいて、道づれにしようと毒のような遺書を書く。
絶望したものは、他人をもたないから、自分の死を記録するだけの短い遺書を書く。
だが、追いつめられたぼくは、死にたくないのに死ななければならないぼくは、どんな遺書を書けばいいのだろう?

『飢餓同盟』/安部公房

自分が安部公房論を書いてきて、始めて、小説の中で、遺書という言葉を見た。無論、読んでいない小説などが他にもまだまだあるから、安部公房は遺書という言葉を他でも使用しているかもしれない。しかし、『飢餓同盟』におけるこの記述は、重要視されなければならない。例えば、「憎んでいるものは、他人の心に死をまいて、道づれにしようと毒のような遺書を書く。」などは、太宰治の『人間失格』などを思わせる。

「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
何気なさそうに、そう言った。

『人間失格』/太宰治

ここには、太宰治の、自分の父親への憎悪が籠っている。こういう遺稿とされるに近い小説に、こう言った箇所があるのは、安部公房の、遺書創作の一つの鍵になったかもしれない。また、「絶望したものは、他人をもたないから、自分の死を記録するだけの短い遺書を書く。」などは、芥川龍之介の遺書、にある様に思う。

僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである。

『遺書』/芥川龍之介

芥川龍之介の遺書は、遺書としては、長いものではない。ただの、記述頭い感じである。この、箇所にある通りのものを想起して、安部公房は芥川龍之介にならって、小説を書いたかもしれない。そうでなかったとしても、充分に芥川の遺書を言い当てている。

続いての箇所を引用。

(欄外の附記)
・・・書くという行為は、あらゆる人間の行為の中でもっとも人間的な行為だ。なぜならそれは、自分を支配することだからだ。遺書はその中で、自分の死を支配しようとする欲求だ。

『飢餓同盟』/安部公房

「遺書はその中で、自分の死を支配しようとする欲求だ。」、この箇所に着目したい。自分の死というものが、他人にどういわれるか不安であったり、変な憶測をされるのを拒むものは、遺書を書いて、「自分の死を支配しようとする」のである。自分はこういう理由で死ぬという独白、遺書とはそういうものだ、と安部公房は言うのである。ここには、数々の小説家達が成し得て来た自殺にまつわる遺書というものの本質を、見事に言い当てている文章がある。安部公房の、一つの到達点が垣間見れる。

『飢餓同盟』論における、大きな収穫の一つが、安部公房以前の小説家達の遺書を、総括するかのように、遺書の意味を並べて、選別し、区割りにして述べていること。こんな箇所があるなどとは、思いも知らずに、本棚にずっと、安部公房の『飢餓同盟』があったことに、驚きと、もっと早く知れていれば、という後悔がにじんだ。しかし、この重要箇所を発見できたことは、大きなことであった。また、人が、遺書を書いて、「自分の死を支配しようとする」という、遺書の本質を述べていることも、大きな収穫であって、安部公房の死生観が知れたことは事態として大きく、『飢餓同盟』に重層的に入っている重要箇所だと思えてならない。安部公房と、自殺というものが、なかなか結び付かなかったので、こういう発見は、安部公房研究において、大きな成果だと思われる。凡そ、多くの先人が指摘していたことかもしれないが、自分はこういう箇所を、先行研究ではなく、自分で発見し、辿り着いて述べれたことは、一つの自信にはなる様な気がする。かくして、良き新しい安部公房の側面が知れて、良かったと思って居る。これにて、安部公房ー『飢餓同盟』論、その2ー、を終えようと思う。


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