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【批評】常識が崩壊する時——ランジャタイ試論——

ランジャタイの衝撃

 ランジャタイが好きだ。ネタ、トーク、小道具、それら全てを含めた「おふざけ」が堪らなく好きだ。彼らを初めて知ったのは2020年M1の敗者復活戦。怒りが湧いた。何やってるんだこの人たちは。真面目にやれ。しかし、ほんのわずかでも興味を持ってしまったのが運の尽き、ランジャタイ公式YouTubeの『弓矢』を見て、私の大事な何かがぷつりと切れる音が聞こえ、しかしそれは、自分の声とは思えない、呼吸困難になるほどの爆笑によって掻き消された。
 その後、様々なネタ動画(幸福にして生で見られたこともあった)、YouTube番組『ランジャタイもういっちょ』、ラジオ番組などを享受するうちに、ランジャタイは私のスターになった。
 私の中のスターというと、奇抜な格好の某ロックスターや前衛的演出を好む某アニメーション監督、独創的なタッチの某漫画家などなどなわけで、そこにランジャタイが加わるというのも何だか不思議な話だが、強いて共通点を見出すとすれば、「既成概念にとらわれない」というところがあるかもしれない。その反骨精神、融通無碍さ、破壊性に強く憧れるのだろう。
 ファンになってから一年以上が経ったということで、そろそろランジャタイについて語ってみたいと思った。やはり、自分が初めに好きになった「ネタ」の部分に着目しようと思う。ランジャタイの漫才はなぜ面白いのか、何が面白いのか——。自分自身の「笑う」という行為が生み出されるメカニズムについて考えてみたいのである。お笑いの「面白さ」を真面目に論じることがナンセンスだという意見もあるだろうが、言葉にすることで見出せる価値もあると考えているし、何より、私が語りたいのだ。

漫才のフィクション性

 ランジャタイの漫才について考える前に、漫才一般について個人的な考えを示したい(もちろん専門家でも研究者でもないため、かなり恣意的な意見になる。反論等も甘んじて受け入れたい)。
 漫才は当然「演芸」として語られるものであるが、私は「フィクション」として考えてみたい。漫才で披露される「ネタ」は観客に見せるために「作られた」ものであり、簡単に言えば「虚構」なのである。少なくとも、観客はそのことを理解した上で見ている。特に、賞レースが権威を持つようになった現在、この傾向は強いだろう。
 しかし、漫才は同じくお笑いの主要形式である「コント」と比べれば、虚構性は薄い。というのも、漫才はあくまで漫才師その人自身がやっているという体を取るからだ。コントのようにキャラクターの演技をするのではなく、漫才師としての自分を演じる。ここに、漫才をフィクションとして見た時の曖昧性がある。いわゆるアドリブ漫才などは、フリートークとの境界線をはっきりと引くことが難しい。アドリブとまでいかずとも、漫才師の「素」が顔を出すこと(少なくとも、観客にとってそう見えること)も多々としてある。この「現実」と「虚構」の曖昧さが、フィクションとしての漫才の特徴であり、面白さだと私は考えている。
 さて、漫才は一般的に2人で行われ、それぞれが「ボケ」と「ツッコミ」という役割を担う。フィクションとして漫才を見た時、「虚構」性の大部分を背負うのがボケだと言えよう。ボケが発する言葉は基本的に「非常識」「突飛」であり、その異常さに観客は「おかしさ」を覚える。現実から離れたいかにも「虚構」的な言動をすることが、ボケの役割なのである。
 しかし、ボケは時に「現実」的な論理性を離れすぎて、観客に瞬間的に理解されないことがある。その、地面からふわふわと浮かんだ風船のようなボケをがっしりと掴み、「現実」と「虚構」の橋渡しをするのがツッコミである。「常識人」として、ボケが繰り出す「虚構」を「現実」的規範内の言葉に翻訳し(例えツッコミなどに顕著)、観客に共感させる。それによって笑いが増幅したり、それ自体が笑いになったり、ボケとツッコミワンセットの笑いを生み出したりするのである。
 つまり、ボケの「虚構」が、ツッコミにより「現実」の言葉に翻訳され、観客に共感させることで笑いを起こすのが漫才なのである。
 もちろん、これは現代的な漫才を想定したものであるし、その中にもこうした捉え方が通用しないものは多数存在する。例えば、いわゆる「ケンカ漫才」のフォーマットはボケとツッコミの境界自体が曖昧なこともあるし、様々な「システム漫才」はシステム自体の「おかしさ」に主眼が置かれることもあるだろう。また、銀シャリの漫才のように、巧みな例えツッコミが過剰なまでに繰り出されることで、いつの間にかツッコミ側がボケの「虚構」性を上回り、その異常さによって笑いを引き起こすということもある。こうした多様性が、漫才の楽しいところだろう。

「反復」と「差異」が引き起こす常識の破壊

 フィクションとして漫才を見るという視点は、ランジャタイのネタに適しているかもしれない。なぜなら、それはどう考えても「現実」ではありえないからだ。

 ランジャタイのボケ(という分類の仕方では収まりきらない)国崎和也氏の口、表情、手足、そして全身から繰り出される言動の数々は、常軌を逸している。どう考えても「現実」離れした「虚構」でしかない。観客は、「現実」の論理では理解できない「虚構」を見せつけられているのである。そして、ツッコミ(と言えるかは分からない)伊藤幸司氏が行うのは最低限のリアクションと補足に留まり、観客が待っているはずの「現実」の側まで、「虚構」を引っ張ってきてはくれないのだ。
 ランジャタイの漫才は明らかに「虚構」なのだ。「現実」と「虚構」の境界線が曖昧な漫才としては異様なまでに(仮にコントを含めたとしても異様ではあるが)、「虚構」的過ぎるのだ。それは、「現実」に座る観客を無視した、独りよがりな漫才だろうか?いや、そうは思わない。少なくとも、結果の面で見れば、そうではない。なぜなら、観客の内には笑いが渦巻いているからだ(もちろん時と場合によろうが)。そしてまた、私の経験から言えば、漫才を見終わった後の自分の前に現れるのは、ガラリと風景の変わった世界の姿なのだ。
 一体なぜ、このあまりに現実離れした虚構が笑いを引き起こすのか。そのキーワードとして、「反復」と「差異」iというものについて考えてみよう。

 ランジャタイの漫才の特徴の一つとして、国崎和也氏の「しつこさ」が挙げられることに疑いはないだろう。
 例えば、『弓矢』というネタにおいては、「弓矢を打つ」という現実離れした行為が何度も反復される。開幕冒頭の「弓矢、打ちたくなーい⁈」という叫びに対して、「うんうん、打ちたいよね」などと同調する観客は皆無に近いはずであり、大体にして弓矢を打ちたいというシチュエーションは現実的に想像しがたい。更に行われるのが、「牛丼に弓矢を打ち、その先っぽを掴んでぶん回す」というものなのだから、全くもって理解できない。国崎和也氏の言動はどこまでも非「現実」的だ。
 だが、それが何度も繰り返されるうちに変化が現れる。もちろん、その突飛さに初めから笑うこともあろうが、繰り返されればされるほど、観客の笑いが加速していくのである。上記の『弓矢』終盤、「最後は笑顔でさよならしよう!」パートにそれは顕著だ。同じことが繰り返されているだけなのに、場内の笑いの量はどんどんと厚みを増している。通常、同じ「ボケ」は繰り返せば繰り返すだけ新鮮味が薄れ、笑いの量は減っていくと考えられるiiが、ランジャタイの場合は逆になることがあるのだ。
 これは、国崎和也氏が繰り出す「虚構」に、観客側の「現実」が浸食されていくためなのではないだろうか。つまり、初めのうちは「現実」からはるか遠くに離れていた「虚構」が、何度も何度も繰り返されることにより観客(「現実」)との距離を縮められ、観客側はその距離が縮めば縮むほど、その「おかしさ」に対する解像度が上がり、笑いにつながっていくのである。
 これは、次の2つが国崎和也氏になければ成り立たない笑いである。一つ目は、反復に耐え得る「虚構」性の強いボケを生み出せる発想力。二つ目は、ボケを何度も反復する強心臓・体力。
 もっとも、観客にとって完全に「見知った」ものになってしまえば笑いは生まれづらくなるわけで、実際、流石に反復しすぎて笑いが消えていくさまも見たことがある。だが、これは恐ろしいことである。なぜなら、観客にとって国崎和也氏の創り出す「虚構」が常識的なものになってしまっているということだからだ。ランジャタイを見る前の観客の規範意識は破壊され、拡大する。だから、ランジャタイの漫才が好きだという人は、それだけ自分自身の常識=「現実」が破壊されることを厭わない、勇気ある人間なのかもしれない。
 因みに、こうした観客の模範例こそが伊藤幸司氏だと考えている。『弓矢』終盤における、国崎和也氏の「牛丼に刺さった弓矢」を放り投げる行為に対する「もったいない」というリアクションは、まさに国崎ワールドを「現実」として生きられる人間だからこそ出てくる言葉だ。観客は、漫才を通して伊藤幸司氏へと同化していくのだろうか。
 ランジャタイの漫才にあるのは、反復だけではない。その反復の中に、差異が挿入されている。

 『宇宙の真理』では、国崎和也氏による科学者・研究者のマイムが反復されるが、スピードが変わったり、それまでになかった新しいマイムが加わったりする。この差異が、反復にリズムを生む。近づいていたと思っていた虚構がまた遠ざかることもあれば、逆に一気に近づくこともある。その揺れは観客を惹きつけて、笑いの渦の中へと否が応でも巻き込んでいくのである。
 まとめよう。
 フィクションとして見た時、一般的な漫才は、ボケが繰り出す「虚構」がツッコミによって「現実」の言葉に翻訳されることで、観客は笑う。
 それに対し、ランジャタイの漫才は、国崎和也氏が繰り出す常軌を逸した「虚構」が反復によりそのまま「現実」に近づいてくることで、観客は笑う。そして、最終的に観客の常識は破壊される。

おわりに

 長々と駄文と書いてきたが、ランジャタイの漫才は「反復」と「差異」によってだけ笑いが起きているわけでは当然ない。ランジャタイの二人は全部同じだと冗談めかして言うが、ランジャタイの漫才は実は多種多様であり、様々な面白さがある。ただ、ランジャタイのお笑いを理解できないという人も多いだろうから、この論が、数多くのフィクションに対する批評がそうであるように、一つの「読み筋」として機能してくれればと願っている。
 とにかく、ランジャタイは面白い。公式YouTube『ランジャタイぽんぽこちゃんねる』にて沢山のネタ動画が挙げられている。ぜひ多くの人に、その面白さが伝わってほしい。

注釈

i 当然、ジル・ドゥルーズとは何の関係もない。
ii いわゆる「天丼」というものもあるが、同じネタ内で全く同じボケを三度以上繰り返すということは一般的ではないだろう。

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