5番地

思想・哲学・文学・芸術の会(アープラ)

5番地

思想・哲学・文学・芸術の会(アープラ)

最近の記事

思想・哲学・文学・芸術の会(アープラ)ってどんなとこ?

https://scrapbox.io/arpla/思想・哲学・文学・芸術の会 簡単な説明はリンク先のとおり。 紹介しておいてなんだが直近の動向を私は知らない。なのでちょっと前までの話になるが、どんなとこかってのをチャラーっと書いとく。 その名のとおり、なんかこう知的な話題に関する話がなされているディスコードサーバーだが、いわゆる「学術サーバー」かと言うと違う。 引用する人がいたり特定の本について話したりしている人もいれば、雑談もあり、映画を皆で視聴したりもしている。t

    • 「頭の中」なんてない

      「あなたの頭の中の◯◯」みたいなん言うが、「頭の中」にあるのは脳みそやなんやである。「脳内」とかも言うが「脳内」に東京タワーも概念もない。出来の悪い比喩でしかない。 「あなたの頭の中の◯◯」とか言いたくなるのは、相手が頑として誤りを認めないときとかだが、それは単に相手が◯◯について誤った発言をしているというだけである。そしてその誤りを訂正させることができないという「遠さ」を、ありきたりな「内外」という表現で表しているにすぎない。ハイデガーは誰の「頭の中」にもいない。 もっとも

      • 久々にvaconを聞いた

        近ごろ久々にメルツバウやずとまよ以外の音楽を聞きはじめたなかでvaconのウッドペッカーのやつを見つけ、次いでなるせでいいのかな、なるせとのコラボのsee meを聞いた。以前にちょこちょこ聞いていたので今のうちにまたちょこちょこ聞いてみようと思う。 ラップはやらんしそも歌わんからなんもわからんが、vaconのラップは音楽を聞いてるという感じがして良い。他の人らもじつは技があってすごいのかもだし、vaconもそこにこそ重きを置いてるのなら失礼な話になるが、なんかこう「叫び」とか

        • 『存在と時間』、2頁目

          2頁 einleiten「開始する、導入する」。名詞で「前置き、入門、導入、序論」 ・動詞の意味から、論文で書かれている位置から、「序論」という和訳は想定しうるが、この種の推測は便利である一方、ときにその語がそこに書かれていることの意味を見逃すということもあるかもしれない。 「存在の意味への問い」 ・nachは[3格]をとっていることがdemが直後に来ていることからわかる。定冠詞の格変化のうちdemは3格にしかないのだから、中性か男性かわからなくてもそう判断がつく。つまり、

        思想・哲学・文学・芸術の会(アープラ)ってどんなとこ?

          読書会

          以下は私が所属する集まり「思想・哲学・文学・芸術の会」(アープラ。LINEオプチャやスクラップボックスやディスコードなどに展開中)にて、読書会案として提起したものである。実際にやってみる人は少なかった。 読書会に関して考えている人に寄与するところがちょっとでもあれば。 ・「リアルタイムで」とは? 一回ごとに読む箇所、読む時間を設定する。それを繰り返すことで目標地点(理想は読み終えるところ)への到達を目指す。 ・なぜ「リアルタイム」なのか? 参加者各自に準備期間中に課題図書

          読書会

          デリダ『声と現象』でのフッサール『論研』への「誤解」

          『声と現象』(ちくま学芸文庫)では、フッサール『論研』の第1研究第11節から次の箇所が引用されている。 「たまたま「可能性」や「真理」が欠けている場合には、言表の志向作用は、もちろん「象徴=記号的に」しか遂行されない。それは直観の中から、また直観を基盤として行使されるはずのカテゴリー的諸機能の中から、その認識価値を構成する充実を汲み取ることができない。その場合、その志向作用には、よく言われるように、「真の」、「本当の」Bedeutung〔意-味〕が欠けているのである」(デリダ

          デリダ『声と現象』でのフッサール『論研』への「誤解」

          「マウントをとってる」「上から目線」とかについてダラダラ

          「マウントをとる人」に関するなんかこうドートク的な非難だかなんだかはそれなりに見かけるが、「マウントをとってる」と言われる人からの話はあんまりないなと思い、あくまでも私の話だが、書いてみる。 フツーに引用して誤りを指摘したりすると「権威主義者」とか「マウント」とか言われるが、「マウントをとる」とはどういうことなのかいまいちわからない。「マウント」と言われたときは「この人は対象について、主題について話し合うより、それを肴に気持ちよくお喋りしたいんだな」とか「著者についての理解

          「マウントをとってる」「上から目線」とかについてダラダラ

          和訳書を読むことについて、ハイデガーの『存在と時間』を通して

          「本来的実存というのも、頽落する日常性の頭上に浮かんでいるものではなく、実存論的には、この日常性の変様的掌握にほかならないのである」(『存在と時間 上』、ちくま学芸文庫、380頁) 「この世間的=自己とは、本来的自己の実存的変様である」(『存在と時間 下』、ちくま学芸文庫、197頁)。 前者に関して、ハイデガーは「孤独化」はあくまでも「世界-内-存在」としての「孤独化」であるとも言っており、まさに「頭上に浮かんでいる」わけではなく、いわば絡み合ってーーフッサールの記号論に

          和訳書を読むことについて、ハイデガーの『存在と時間』を通して

          ラッセルとか

          主語と述語についてちょろちょろ。 哲学書にはしばしば「主語」とか「述語」とかが出てくる。古いものではアリストテレスの、たしか実体(ousia)に関する言葉として、「主語となって述語とならぬもの」がある。主語は英語でsubjectであり、「主体」とか「基体」とか、色んなふうに和訳されている。 述語は、「〜である」で表記されるようなもんだ。「私は中学生である」という文では「私」が主語である。「中学生」は主語との関係から述語または「述語的属性」だとか「述語的性質」だとか言われる。

          ラッセルとか

          なぜ修学旅行で竜が巻きついた洋剣のキーホルダーを買ってしまうのか

          これを知るためには、竜が巻きついた洋剣のキーホルダー、それがもつ魅力について考えなければならない。 しかしそのまえにまず、状況を整理する。旅先であるということ、お土産という考え(土産でみやげってなんやねんどさんちゃうん)、それが物を買うことへ私を動機づける。しかし旅先には色んな物があるだろう。それだけでは竜が巻きついた洋剣のキーホルダーを買う謎の解明には不十分だ。 私は店内を見て回る。何かを買うためだ。何か知らんが色んなもんがあるだろう。そして竜が巻きついた洋剣のキーホルダー

          なぜ修学旅行で竜が巻きついた洋剣のキーホルダーを買ってしまうのか

          ハイデガー『存在と時間』

          ハイデガーが死を持ちだすのは以下の理由からである。 「現存在の存在の解釈を、存在論の根本的問題の開発の基礎とするにふさわしく、根源的な解釈にしようとするならば、われわれはまず現存在の存在をその可能的な本来性と全体性とにおいて実存論的に照明しておかなくてはならない」(『存在と時間 下』、ちくま学芸文庫、25頁から26頁) そしてこのすぐあとに、「良心」が、「本来的な存在可能の証を立てるもの」として持ち出される(上掲書27頁)。 「良心」も「死」も現存在の本来的な存在可能などの

          ハイデガー『存在と時間』

          竹田青嗣『ハイデガー入門』のよくわからない箇所②

          「仕上げられるべきこの問いにおいて問われているものは存在である、つまり、存在者を存在者として規定する当のもの、たとえ存在者がどのように論究されようとも、存在者がそれを基盤としてそのつどすでに理解されている当のものである」(竹田青嗣『ハイデガー入門』、44頁、『存在と時間』36頁より) 竹田はハイデガーによるこの文章を引用し、ハイデガーの言う「存在」がどのようなものかについてハッキリしないと言い、ハイデガーの言う「存在概念の限定の可能性」を、「わたしがやってみる」とかなんとか言

          竹田青嗣『ハイデガー入門』のよくわからない箇所②

          竹田青嗣のフッサール解釈がよくわからない

          フッサールは一軒の家や騎士聖ゲオルグという「対象」について、竹田が「リンゴという客観を還元して」、「赤くてまるくてつやつや」とか言うのとは違って、次のように言う。 「外界の事物の知覚においては、まさしく事物がーーたとえば、一軒の家がーー知覚されている。が、この家は一つの超越であって、その実在は現象学的還元の対象になる。現象に明証的に与えられるのは、家という現象、いいかえれば、意識の流れのうちに浮かんでは流れさる、家というコギタチオなのだ。(中略)が、家という現象のうちにはまさ

          竹田青嗣のフッサール解釈がよくわからない

          「教育は洗脳」ってよくわからない

          たまに「教育は洗脳だ」みたいなの見かけるが、その人たちも教育を受けてきたんだろうになぜ「洗脳だ」と言えるのか、よくわからない。フーコーにしたって、 フーコー「ええ、私の考えとはおよそかけ離れたその考え方が、私のだとされたことも多いのですけれどね。権力は悪ではありません。(中略)また、教育機関の例を考えてみましょう。これに対する批判は正当なことも多いのですが。他者よりものを知っている人が、ある真理のゲームにおいて、なすべきことを教え、学ばせ、知を伝え、技術を伝達すること、そうし

          「教育は洗脳」ってよくわからない

          竹田青嗣『ハイデガー入門』のよくわからない箇所①

          「循環論法はある意味で避けがたい」(『入門』、40頁) 存在者の存在を問いの仕上げには次の準備が要る。すなわち、「存在のほうを見やり、その意味を理解し、かつこれを概念的に表明する仕方を解明すること」および「範例的な存在者を適切に選ぶ機会を用意し、この存在者へ至る正当な近づき方を取り出してくること」(『存在と時間 上』、ちくま学芸文庫、38頁)である。 ハイデガーは、存在者の存在を問うということ自体が現存在の存在の様態であり、この問いはゆえに、問わんとしている当のものたる存在に

          竹田青嗣『ハイデガー入門』のよくわからない箇所①