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♯02 数年ぶりに泣いた。"弱いのはいけないこと”って、一体誰が決めたんだろう

「泣くな」「気持ちが弱い」

わたしがまだ子供だった頃、幾度となく、この言葉をバスケの監督から言われた。

小学3年生の頃に学校の部活ではじめたバスケットボール。最初は行き渋りなどもあったが、気づいた頃には大好きになっていた。好きすぎるが故、たくさん練習した。低学年の頃から先輩たちと一緒に試合に出させてもらったり、キャプテンになったり、スキルもどんどん上達していった。

表向きは順風満帆に見えたかもしれない。だけど、監督からはいつも「気持ちが弱いこと」を怒られる日々だった。

わたしの場合、人に打ち勝ちたい!とかプレッシャーなんか関係ないぜ!という強靭なメンタルは全くと言っていいほど持ち合わせていない。繊細で心優しい、平和主義者だと、わたしを一番よく知っている家族からは言われる。そして、「責任」を人一倍、真正面から受け止める性格なのだと大人になってからもわかった。

いろいろな責任とプレッシャー、重圧。小学生だったらそんなに感じなくてもいいようなもの。そこまで考えなくて大丈夫なことを、当時のわたしはかなり背負っていたように思う。ただ、それらを打ち負かせるほど強くはなかった。人一倍練習しているからスキルは高いのに、プレッシャーに押し潰されて、大事な試合で自分の実力を発揮できないことが多かったのだ。

だから、監督はいつもこう言った。
「泣くな」「気持ちが弱い」って。

「気持ちが弱いこと」が、自分の中のコンプレックスに感じるようになっていった。絶対に”克服しなきゃいけないこと”なのだと。だから「弱い自分」「大事な試合で弱気になってしまう自分」をたくさん責めた。絶対にもう現れないように、心の奥底に閉じ込めるように「強くならなきゃ」って、思うようになっていった。

小学3年生にバスケをはじめて、高校3年生まで10年間。
大半の時間を、ずっとそう思いながら過ごしていた。

弱い自分はだめなんだって。
泣くのは弱い証拠なんだって。
だから、強い自分でいなきゃいけないんだって。



自分の情熱の全てを注いだバスケを卒業してから、大学生になり、社会人になった。もちろんだが、わたしの身近にあの監督はもういない。

そして社会人1年生になって、どうにもこうにも人生が上手くいかなくなり
行き詰まっていたとき。辛いのに、泣けない自分がいることに気がついた。心では泣いているのに、それが涙として出てこない。他人には強がって、弱い自分なんか見せない。本当は弱い自分がいるのに、それを自分で見ようとすらしない。

なんでだろう。
なんで、こんなに生きづらいんだろう。

追い込まれたことで、やっと気がついた。「弱いのはいけないこと」って、ずっと信じていたことに。もうバスケはやっていないのに、ずっとあのことだけは、わたしの心の奥底に染み込んでいたんだという事実に。

あの頃は子供だったから、ただ大人の言う言葉を真正面から信じていた。
でも大人になったいまは、違う。それが自分にとって大切なことなのか、これからの人生で大事にしたい指針なのかを立ち止まって一度ちゃんと考えてみたら、答えはすぐに出た。

「弱いのはいけないこと」なんて、嘘だ。
わたしの人生には採用しない。

だって、繊細だからこそすぐチームメイトが落ち込んでいることに
気がついて声をかけることができたし、俺についてこい!的なキャプテンではなかったけれどみんなが楽しく仲良くなれるように、色々な配慮をしてチームを作ってきた。

弱いのはだめって、誰が決めたんだろう。
泣いちゃいけないって、一体、誰が決めたの?

そして、強くて何かあっても涙なんか見せずに何でも1人で出来る人は、果たして本当に幸せなのだろうか。わたしは、自分の弱さを受け入れて心に素直に泣ける人で在りたい。そんな人の方が好きだ。

「弱くていい」。初めてそう思えた瞬間だった。
何かの呪縛からやっと解放された、そんな気分だった。

そう思えるようになってから数日、これまで抑え込んでいた涙が止まらなくなった日があった。悲しい出来事を思い出してワンワン泣いてるのに、心のどこかでは数年ぶりに「泣けている」自分に対して嬉しいと思う自分もいて、悲しいんだか、嬉しいんだか、心がぐちゃぐちゃだったことを覚えている。

やっと、泣けた。

でもまだ、「本当に泣いていいのかな?弱いけど大丈夫?」と怖く思う自分もいて、泣きながら「こんな弱い姿、見て欲しくない」「絶対いま、誰も部屋に入ってこないで」と、気が気じゃなかったのを覚えている。

でも、泣き終わった後は、心はとても晴れやかだった。

この日を境に、辛いことや悲しいことがあったら部屋でこっそり泣くようになった。「泣く練習」といってもいいかもしれない。そして昔、本当は泣きたいくらい辛かったのに我慢しちゃった出来事も思い出して、たくさん泣いてあげた。まるで、昔のわたしに”あの時はごめんね”と言わんばかりに。

弱い自分を、少しずつ人に見せる練習もした。本当は悩んでいること、本当は苦手なこと、辛いこと、話を聞いてほしいこと。最初は抵抗しかなかったが、少しずつ以前よりはできるようになっていった。

そして、わかったことがある。

それは、みんな多かれ少なかれ"弱い部分"を必ず持っているということだ。

わたしが打ち明けたら、相手も「実はわたしもね」って話してくれることもあり仲が深まったこともたくさんあった。わたしがただ、相手の弱い部分を見えていなかっただけ。「弱さ」を交換こすることで、人との距離が近くなって相手をもっと好きになるんだってことに、大人になってからやっと気が付いた。

弱さを見せる人と見せない人がいて、弱さとの向き合い方が上手な人と下手な人がいるだけの話なのだと。

だから、昔のわたしに言いたい。

あなたの弱い部分、なくそうとしないで。
克服なんかしなくていい。

それはあなたの大事な一部だから。

それに、10年克服しようと頑張ってみたけど、
結局弱い自分が消えてなくなることはなかったから。

あなたが「弱い」って思ってるその部分は、人へ共感できたり心に寄り添えたり、たくさんのプライスレスなギフトを自分にもたらしてくれているということを、どうか忘れないで欲しい。

辛かったら、いっぱい泣いていい。
強がらなくていい。
周りに助けを求めていい。
それが恥ずかしくて出来ないなら、
せめて、自分の部屋とかお風呂とか
1人でいる時くらい、思いっきり泣いてあげてほしい。

自分自身のために。
どうか、お願い。


————



「泣くな」「気持ちが弱い」

今なら、胸を張って堂々と言い返せる。

弱くて、何が悪いんだ。
泣いて、何がダメなんだ。

ずっと強がってばかりで一人ぼっちよりも、弱さを人に見せられるようになってから、わたしの周りは優しい人で溢れるようになった。

弱さを見せることができる数人が、自分の人生にとって大切にしなきゃいけない人なんだって、気付くことができた。

自分の弱さを受け入れたら、人の弱さも愛せるようになった。

押さえ込まずに泣けるようになってから、自分のことを前よりも好きになれた。


弱くて、泣き虫なのは
何がいけないことなんだよ。


って。



もう、弱い自分を克服しようなんてしない。

自分が崩れ落ちそうになった時は、一人で部屋で思いっきり泣いた後に
周りの優しい人達に助けてって言うと決めている。これからも、弱さがある人間らしい自分と一緒に手を取り合って生きていくんだ。





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