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授業の余談:「自信」の正体を言語化する

現在、現代文の授業でど定番『山月記』をやっている。だいたい3年サイクル(そのまま学年を持ちあがることが多いので)でこの教材をやるのだが、作者の中島敦の文章に毎回感嘆のため息が出る。思わず朗読したくなるような、特に李徴の即席の詩のところなんか、読みながら気持ちが高ぶっていくような、なんとも不思議な気持ちになるのだ。文章の力ってすごい!

さて、初読で李徴の性格を生徒に聞いたら「自分に自信がある」という答えた生徒がいた。「自信」というワードに引っかかったので、全体にこんな質問を投げかけた。

「みんなは何に自信がありますか?その自信の正体って何だと思う?自信はどこから生まれるのですか?」

隣同士で意見交換させると、「自信?誰にも負けないっていうことかな?」とか「そんなこと考えたことなかった」とか率直に口にしていた。

私の「痛み」に対する自信の正体

私も日本人にありがちな自己肯定感低めな人間ですが、これだけは自信があるということがある。それは、「痛みに対する耐性」だ。私には子どもがいるが、出産後に「痛み」に対する考え方が変わった。ふいに足の小指を角にぶつけた時などにこう思うのだ、「出産のあの痛みに一人で耐えて打ち勝ったじゃないか。今のこの痛みなんてそれに比べたらたいしたことない。大丈夫だ。」と。これが私の痛みに対する自信の正体であると思っている。

勉強に対しての自信

勉強に対しての自信も、通じるところがあるのではないか。例えば、「毎日10単語を覚える」というルールを作ったら、部活動等でどんなに疲れていても、帰宅時間が遅くなって眠くても、そのルールだけは守る。疲労、睡眠欲に自分の力で立ち向かうということだ。その経験の積み重ねが自信を生むのではないか。「あんなに眠い時も、疲れた時もこのルールだけは守って単語を覚えてきたじゃないか。」という自信である。(それを目に見える形で残しておくのもよい。私は、高校時代ボールペンを使って勉強していた。勉強する都度インクが無くなるという努力の跡が目に見えたからだ。)

私の思う「自信」の正体

自信はどこから生まれるのか。目の前の困難を自分の力で乗り越えた経験の積み重ねが自信を生むのではないか。その経験はどんなにちっぽけなものでもかまわない。大事なのは経験の大小ではなく、積み重ねなのではないか。なんてことを話して、シレっと授業に戻る。『山月記』でおなじみの「臆病」「自尊心」「尊大」「羞恥心」の関係性を探っていく。捻じれた関係を説明することがこの時間の目標。今回はたまたま「自信」というワードが出たため私の思う「自信」の正体という余談をしてしまったが、今回の「自信」という耳慣れたワードでも、きちんと自分の言葉で説明できるようになってほしいと思う。特に「自信」というワードのように目に見えないものについて言語化する練習をしていきたい。

余談は不要か?

世の中にはいろんな人がいて、学校でもそれは例外ではなくいろんな考えの先生、生徒がいる。授業に余談は不要だとする人もいる。私は、余談を否定はしない。このトピックを話すと長くなりそうなので、またいつか。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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