世の中のため、自分本位に生きてみよう【23年11月12日の駄文】
自分は欠点の多い人間で、それを補うため無理ばかりしてきた気がする。
まず、集団になじめない。必要なら意見はするし、聞かれれば応じもするが、どこか他人事というか、集団を俯瞰した位置から見ているような心持ちになってしまう。
だがそんなことを他人に言おうものなら、糾弾されるのはこちら側だ。冷たいだの、本気で考えていないだの、気持ちがこもっていないだの、好き勝手に言われる。
考えていないわけではない、ただ「自分事」にできないだけなのだと説明しても、訝しげな顔をされて終わりだろう。でも、それが自分の偽らざる本心だ。考えないのではなく、考える機能を持っていない。自動車に空を飛べと言っても無理だろう。掃除機に洗濯をしろと言っても無理だろう。そのくらいの無理強いをされているわけだ。
しかし、それではいけない場面があることも十分に分かっている。
40年以上も生きてきたわけだから、価値観の相違やずれた意見なんてものはさんざん味わってきた。
そんな場面を作らないように努力はしてきたつもりだ。他人の意見を尊重し、自分が言いたいことはぐっとこらえ、静かに状況を見守り、出た結論に粛々と従う。いわば大勢に流されてきたようなものだ。
この生き方、楽ではあるがやはり息苦しい。それもそうだ、ひとつも自分の指針で生きられていないのだから。
こんなことを言うと物騒な感じもするが、人生の終わりがなんとなく見えてきた今、こんな人生ではいけないような、焦りにも似た感情が芽生えるようになってきた。
そんな悩める自分の心の中にも、少しでも世の中に貢献したいという気持ちはある。
自分の特性を生かし、誰かのためになることをする。それが自分のやりたいこととばっちり当てはまっていて、なおかつ稼ぎもよければ最高だ。
上にも書いたとおり、これまでの人生では必死に欠点を補おうとしてきた。それによって、ある程度の成功体験も得た。仲間もできた。恐らくだが、いわゆる弱者というものに自分は当てはまらないのだろう。
それでも、あえて言いたい。自分の中にはぽっかりと穴が開いている。
人生ってこんなもんなのかという気持ちが濃い靄のように心を覆っていて、たまの休みに得られる幸福や癒やしなどをいくら注ぎ込んでもそれが晴れない。
まるで、ずっと低いギアで走り続けている車のような人生だ。性能的にはもっと飛ばせるはずなのに、多くのしがらみでそれができない。それでも走り続けることはできるというのがまた困りどころだ。速度はともかく走っていれば瑕疵のない人間だと周りには受け止められる。実際には心が穴だらけなのにもかかわらずだ。
これで人生を終わらせるには、あまりに切ない。物足りない。
もっと自分の心のまま生きてもいいんじゃないか。結果的にそれが自分のベストパフォーマンスを引き出し、世の中のためにもなるんじゃないか。
今の職を辞することはこれまでも何度か書いてきたが、以上の理屈も辞めるきっかけの1つになっている。
集団の中にいることが疲れるなら出ればいい。組織の管理ができないなら1人でやれることをやればいい。
理想論だなんだと笑われようが、もうどうでもいい。そもそも自分のことを気にかけている奴なんて親兄弟以外ほとんどいないだろう。
じゃあ、もっと自由に生きよう。
世の中のため、自分本位に生きてみよう。欠点だらけの自分が善い人生を歩むためにはこれしかない。
辞職のタイミングは来年春。そこからは多くのくびきから解き放たれ、自由の身となる。
前々から、会社に注ぎ込んでいる自分のリソースを全部自分のために突っ込んでみたらどうなるだろうかと考えていた。その答えはいずれ出るだろう。
何らかの成功を収めるかもしれないし、現実にぶちのめされて敗走するかもしれない。
でもルートの決まっている低速の人生より、スピードを出して荒野を突っ走れる人生のほうが楽しいはずだ。
……事故るかもしれないけど。まあ、それも人生だな。
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