世の中みんな、頭がいい

一般に「頭がいい」とされる能力は、細かく見ると
記憶力、理解力、発想力、分析力、、、と多くの能力に分解できる。

更に、理解力という能力を分解してみると、「」と「」の観点で分解できそうだ。

理解力の「質」が高い人は「1を聞いて10を理解する」だろうし、
「量」が優れている人は、「短い時間に多くの情報を処理できる」だろう。

理解力の「量」が優れている人は、「聴覚」と「視覚」のどちらに強みを持つかで分けられる。

視覚的理解に強みを持つ人は、一般的な読書速度である400〜800(文字/分)を大きくこえて、例えば2000文字を1分間で読むかもしれない。

2000文字を1分で読む人の中でも、「1分で2000文字を1回読んで理解する人」と「1分で2000文字を3回読んで理解する人」では情報の処理の仕方が異なる。

前者は文章を1度で理解するため、情報蓄積型の理解をするのに対して、
後者は全体概要をざっと把握してその精度を全3回の「読む」で高める。

そのため、前者は論理性が高く、後者は概念理解に長けている。

また、これらの「情報処理」の仕方に加え、インプットの方法も人により異なる。

「構造化」してインプットすることで、対象物の解像度が高い人もいれば、
「抽象化」してインプットすることで本質を抜き出すことができるため、
情報の取得コストを下げることができる人もいる。

このように、様々な能力に分解できるはずのものを全て「頭がいい」と括ってしまっている。

ということは、誰もが何かしらの能力を持つことを考えると、みんな「頭がいい」に含まれるなにかしらの能力を持っているはずだ。

だとしたら、世の中みんな、頭がいい。

はたして、「頭がいい」は何かを規定し、表現する言葉となっているのか。

自身が望む傾向、特性を、説明責任から逃れて表現するための怠惰な無表現ではないか。

「頭がいい」に含まれる様々な能力の中から恣意的に選んだ特性に対して、無思考に「頭がいい」と言っているだけではないか。

頭がいい、悪い、の2項対立ではなく、個々人の特性を細分化し、
各々の魅力を認め合えたらいいのに、と強く願う。

世の中みんな、頭がいい。それでいいじゃないか。

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