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雑感・手塚治虫『ザ・クレーター』より「クレーターの男」

映画『オデッセイ』(2015年アメリカ、日本では2016年公開)は、宇宙飛行士扮するマット・デイモンが火星にひとり取り残され、そこで生き延びていく、という話である。
見始めてから、どうやらそういう話らしいということがわかって、手塚治虫の「ザ・クレーター」という短編漫画集の、「クレーターの男」という短編を思い出した。たしかあの漫画も、一人の宇宙飛行士が月の取り残されて、生き続ける、という話だった。
さて、映画「オデッセイ」は、火星に取り残されるという絶望的な設定にもかかわらず、全体にわたってとても明るい映画で、ハッピーエンドで終わっていた。
映画を見終わったあと、そういえば手塚治虫の「クレーターの男」はどんな内容だったかなと気になって、読み返してみることにした。それは、こんな内容である。

アポロ18号で月に着陸して、火山の噴火口を調査していた主人公は、不慮の事故によりほかの仲間とはぐれてしまい、噴火口に取り残されてしまう。そしてアポロ18号は、彼を取り残したまま、地球に帰ってしまう。

…ここまでは、映画「オデッセイ」の設定と、さほど変わりがない。違うのは、ここからである。

主人公に残された酸素は約5時間分。身動きのとれなくなった彼は死を覚悟したが、不思議なことに、月の火山ガスのおかげで、彼は生き返ったのである。
それから130年後、地球から月にロケットがやってくる。
彼はようやく地球から来た人間に会うことができたのだ。彼は、自分が生き続けることができたのは、月の火山ガスのおかげだから、ぜひ月の火山ガスの調査をしてほしい、そうすれば、私たちは永遠の生を手に入れることができるかも知れない、と、宇宙飛行士たちにそう訴えたのである。
しかし、宇宙飛行士たちは、彼の話に取り合わず、月の火山ガスにまったく興味を示さない。
「俺たちは、ウラニウムを手に入れに月にやってきた。いま、地球は世界が真っ二つに割れていて、憎み合っている最中である。永遠の生を手に入れることよりも、どうやって敵に勝つかのほうが重要なのだ。だから月の火山ガスなんぞ持って帰る暇はない。それよりもウラニウム鉱脈を教えろ」
この言葉に、主人公は絶望する。主人公は、月に残ることを決意するのである。
やがて、その採石ロケットは、月のウラニウムを積みこんで地球に戻っていった。
あるとき、主人公が地球を眺めると、世界中で核爆発の光が輝いていることに気づく。
核戦争が世界中に起こって、地球上の人間はもはや死に絶えてしまったことを悟るのである。
彼はただ一人の人間として、月世界で生き続ける、というところで、この物語は終わる。

…なんとも、暗い物語である。もっとも、短編漫画集『ザ・クレーター』は、どの話も暗い。だから私は大好きな漫画なのだが。
これを読み直して思ったのは、この漫画は、決して映画にはなり得ないだろう、ということだった。このモチーフは、漫画という表現でこそ、人の心を動かし得るのである。その一方で、「オデッセイ」は、やはり映画だからこそ表現し得る世界である。この違いは、何なのだろう?

話は飛ぶが、映画監督の黒澤明は、若い頃、画家を目指していた。
「黒澤監督は、若い頃、画家を目指していたそうですけれども、なぜ映画監督になろうと思ったのですか?」
という質問に、
「画家では食えないしね。それに、絵では、自分の世界を十分に表現できないと思ったんだ。それで映画をやろうと思った」
と答えていた。
自分の世界を表現するためには、絵ではなく映画がふさわしいと考え、黒澤はその通りに映画で自分の世界を表現し続けた。映画こそが、黒澤にとって最もふさわしい表現手段だったのである。
その黒澤明が、手塚治虫を評して、
「ああいう人が映画の世界にいてくれないのは、実にもったいない」
というようなことを語っていた。
…このあたりのエピソードは、かなりうろ覚えで記憶違いかも知れないのだが、要するに黒澤明は、手塚治虫はあれだけの漫画が描ける才能の人のだから、その才能を映画の世界で発揮してもらいたかったと述べたかったのであろう。
しかし、それは間違っていると私は思う。
手塚治虫は、自分の思いを漫画でしか表現できないと思い、その点を徹底的に追求したのだ。
容易には映画に置き換えられない漫画を、手塚治虫は描き続けたのだ。

表現するということは、そういうことなのではないだろうか。

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