「調べ学習」と「研究」の違い―ケーススタディによる比較―
1. はじめに/なぜ「調べ学習」と「研究」の違いを調べたくなったのか?
本稿を書くに至った理由
私は学部三年、人文系の学部に所属する大学生である。三年生に進級し、自分で何かをリサーチし、その成果を発表するという(講義形式ではなく)演習形式の授業を受けるようになった。そのような形式の授業を受け、発表資料を作成している時に私の頭から離れない疑問がある:自分がやっていることは「調べ学習」の範疇を超えていないのではないか?
この疑問に答え、私自身を満足させるために本稿を執筆しようと考えた。
具体的な疑問
具体的に、執筆前の私には2つの疑問があった。
・How,What(Who)の問い
「なぜ〇〇は△△したのか?」というようないわゆるWhyの問いについては、「調べ学習」と「研究」の違いははっきりしていると思う。「なぜ」という問いは、いくつかの根拠を用いてある行為の動機を推論する行為であり、いわゆる(一般的に「調べ学習」と「研究」を分けるとされる)独自性を出すことが容易いだろうからである。それこそ人の文章を丸ごと剽窃しない限りは。
一方、How(どのように~?)やWhat(Who)(誰/何が~?)の問いについては、この独自性を出すことに難しさを―不可能さすら―感じた。特に、(歴史学のような)人文学系の学問においてはなおさらである。
・車輪の再発明
車輪の再発明とは、一般的に下のように定義される。
特に本稿では、車輪の再発明を「答えがわかっていることを、あえて独力で証明すること」と定義する。この車輪の再発明は、果たして「研究」と呼べるのだろうか?「調べ学習」の範疇に収まるものなのか?
2. 先行研究/教育界での定義
幸いにも、「調べ学習」と「研究」の違いについて多くの人々が自らの考えを記している。「調べ学習」が教育界で使われる用語であるため、今回は教育界に先行研究を当たろうと思う。
やや抽象的である。他の文献を当たろう。
つまり、「まだ答えのわかっていない『問い』に取り組む」ことを、「課題研究」を「調べ学習」から分かつものと定義している。
この文献も、前記の定義に沿う定義をしている。
要するに、「研究」を「調べ学習」から分かつものは、
①まだ解明されていないことを解明する/解明を試みること
②社会の課題等に結びついていること
というのが教育界での一般的認識であろう。
3. 「調べ学習」と「研究」のケーススタディによる比較
しかし、上記の先行研究は、1.はじめに で述べた私の疑問に完璧に答えるものではなかった。ここからは、教育界の人々の言説を超えて、「研究」と「調べ学習」の間でケーススタディを行い、その違いを解き明かそうと思う。
「調べ学習」のケース
花粉の研究 -花粉の観察と発芽及びスギ花粉の飛散調べ-
今回、「調べ学習」のケースとして、第62回自然科学コンクール 小学生の部でオリンパス特別賞を授与された、「花粉の研究 -花粉の観察と発芽及びスギ花粉の飛散調べ-」(茨城県小美玉市立堅倉小学校 1年・4年
中山 佳穂さん・中山 咲季さん 作)を用いたいと思う。前置きとして、この自由研究を非難したりするつもりは毛頭ない。この自由研究は非常に緻密に行われたものであり、実行者が小学1年生、4年生であることを考えるとむしろ称賛すべきものである。
彼女らは、自由研究の一環として、「スギ花粉がいつ飛散するのか」ということを調べた。上記引用の結果は、実際の調査結果(【2021年スギ・ヒノキ花粉飛散 シーズン総括】 ながくら耳鼻咽喉科アレルギークリニック )とほぼ合致するものであり、非常に高精度であると言える。しかし、この自由研究は、下の「研究」のケースと比較して「調べ学習」と分類されるべきものになると考える。
「研究」のケース①
スギ花粉症舌下免疫療法のスギ花粉多量飛散年での臨床効果と治療年数の効果への影響
上の「調べ学習」のケースと対比して、同じく花粉について研究した上記の論文を、「研究」のケースとしたいと思う。
この「まとめ」でわかるように、この論文は(「『調べ学習』のケース」のように)花粉の飛散量のデータを取り扱うのみならず、そのデータを医療分野に応用し、花粉症治療について新たな知見を生み出している。言い換えれば、上で扱った2つのケース比較から、(特にWhatやHowの問いでは)「研究」を「調べ学習」から分けるものは「何か新しい知見を生み出すこと」(その全部分が新しい知見でなくても)と言えるのではないのだろうか。この研究も、その多くが既存のデータであるが、既存のデータや実験を組み合わせて、新たな情報を得ている。また、この論文は花粉症治療への応用という社会的意義も備えている。
「研究」のケース②
出雲地方の化石 パート5
1.はじめに で挙げた疑問のうち、「How,What(Who)の問い」については答えられた。では、「車輪の再発明」についてはどうだろうか。島根県島根大学教育学部附属義務教育学校 7年の片寄 太耀さんの、第62回自然科学コンクール 中学生の部で3等賞を獲得した自由研究「出雲地方の化石 パート5」を参考に考えてみよう。この自由研究は、出雲地方の化石を分析することで、過去の日本の自然環境を推察しようと試みたものである。
「2000万年前の日本列島は大陸とつながって」いた、「日本列島は分裂し、現在のフォッサマグナは海だった」、「この時代にはすでに瀬戸内海はあった」のような、この研究の結果に当たる、過去の日本の地理の推察は、いわゆる「車輪の再発明」にあたるものである。これらのこと自体は、すでに先行研究( 1)日本列島の成立と中新世の日本海開裂 港区のあゆみ )により証明されていることである。
しかし、この自由研究は、上で述べた研究の定義「何か新しい知見を生み出すこと」を満たしていると考える。すなわち、「出雲地方の化石を用いて、日本列島全体の過去の地理を推察できる」という知見である。この自由研究の結果自体は車輪の再発明に当たるとしても、そのアプローチに独自性が見られる。つまり、車輪の再発明的な研究も、どこかに独自性を有していれば研究と定義できるのではないだろうか。
4. おわりに/結局何がわかったのか?
結論として、本稿は「調べ学習」にあたると思う。
本稿を通して、「『調べ学習』と『研究』の違い」という問いについて、「研究」とは ①新しい知見を生み出す ②社会的に意義がある という点で「調べ学習」と区別できるという結論に至った。新しい知見を生んでいない本稿は立派な「調べ学習」である。この問いは教育界やアカデミアで散々語られた話であろうし、研究者たちの中の不文律の中ではとうに答えが出ている問いであろう。ケーススタディも、ケース間の差が大きく信頼性も低い。ただ、「『調べ学習』をいかに『研究』に変えられるか」という疑問は(多くの文献の存在にも関わらず)多くの小中高生、または私含め学部生が抱いている疑問であるようなので、先行研究に見られるような理論の話を超えて、実例を用いてその疑問に答えるというアプローチには意義があるかもしれない。何より私が今後リサーチをしていくなかでの心のモヤモヤが少しは晴れたとは思う。
最後に、本稿はまだろくな研究指導も受けていない学部3年生により片手間で数日かけて書かれたものなので、研究についての知識や姿勢に誤りがあってもどうかご容赦願いたい。
というおことわりで本稿を締めようと思う。
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