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ESS・アカデミックディベート葬送【②古き良き時代と第一の失恋とパワハラK追放編】

はじめのはじめに  本稿は、辞めたサークル、辞めてないけど嫌々やってるサークル、特に関係はないけど傍から見ててオワコンなサークルの総括論評等をやる「サークル葬送サークル」の活動の一環(というか初活動)として書いた記事である。この記事みたいな活動に興味がある人は↓のリンクからdiscordに入ってもらうか、私にDMか何かして質問してほしい。 あらすじ  前回「①邂逅と対R・U先輩闘争と「セオリー」という名の屁理屈編」では、私がESSに入ってから、アカデの難解さに苦しみな

    • ESS・アカデミックディベート葬送【①邂逅と対パワハラR先輩闘争と「セオリー」という名の屁理屈編】

      はじめのはじめに  本稿は、辞めたサークル、辞めてないけど嫌々やってるサークル、特に関係はないけど傍から見ててオワコンなサークルの総括論評等をやる「サークル葬送サークル」の活動の一環(というか初活動)として書いた記事である。この記事みたいな活動に興味がある人は↓のリンクからdiscordに入ってもらうか、私にDMか何かして質問してほしい。 はじめに――何を「葬送」するのか―― 冬の寒さを抜け、暖かく…を通り越して熱くなってきた、地球温暖化真っ只中の今日この頃、皆さんはい

      • 阪大サークルオリエンテーション(サーオリ)における順路規制の行政学

        「サーオリ」とは?「注意」の市場としてのサーオリーーサーオリにおいて各アクターの求める資源ーー・「注意」の消費者たるサークル側の動機は、新入生の注意(attention)という資源を最大限自団体に集中させること。 →この極致に、新入生をせき止め長蛇の列を形成する一部迷惑サークルが存在する。 ・注意の生産者たる新入生の動機は、ミクロ的には自らの注意を自分の興味のある団体に集中させ、そうでない団体には注意を払わないこと→マクロレベルに平均化すれば新入生がその注意を各団体に平等に払

        • 外山合宿で宗教やめました~第34回教養強化合宿体験レポート~

           今回で34回を数える外山合宿ーー正式には「教養強化合宿」ーー。これまでの参加者によるレポートも数多く、今さら合宿内容のあれこれを紹介する隙もないような気もする。だが、外山合宿を通して、詳しく言えば新左翼運動史を学び、そこに「主体性の物語」を見て、十数年間所属していた宗教を辞める決断をした体験は、世に(特に合宿に興味がある者に!)知らしめる価値があると思うので、以下にそれを記す。宗教に入っていた事実自体ほぼ誰にも伝えていなかったし、驚かれる者も多いだろうが、辞めることにしたこ

        ESS・アカデミックディベート葬送【②古き良き時代と第一の失恋とパワハラK追放編】

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        • エッセイ
          3本
        • メタ研究
          3本
        • 政治・社会学系
          2本
        • 哲学とか理論とか
          4本

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          マイナーサークル運営のすゝめ――マックス・ウェーバー『職業としての政治』より――

          要約◯マックス・ウェーバーの『職業としての政治』の支配の三類型をサークル運営論に援用してみたよ ◯運営体制(本文ではいくつかの項目について星5中で評価してるよ) ・「カリスマ的な支配」:柔軟だけど安定性に欠ける ・「伝統的な支配」:安定かつ楽だけど硬直した組織になる ・「法治的な支配」:しっかりしてるけど運営クソめんどい ◯団体は↑の順で変化していくけど「退化」することもあるしそれは悪いことではない ◯体制は適材適所だから「目指す形」があればそれでいいと思う はじめに――マ

          マイナーサークル運営のすゝめ――マックス・ウェーバー『職業としての政治』より――

          快楽を求めるための理性―「快楽主義」(エピクロス主義)の誤謬―

          はじめに―「快楽主義」の誤謬― 「エピクロス主義」―高校で世界史を学習した者は、「禁欲主義」のストア派と対に覚えたことだろう―は、世に「快楽主義」として知られる思想である。「快楽主義」といえば、無秩序に快楽を求めるような堕落的な思想と捉えられがちであるし、エピクロス主義は実際歴史上そのように誤解されてきた。しかし、実際のエピクロス主義は堕落の対極にある。確かに、エピクロスは快楽の最大化を理想とした。しかし、彼はその手段として、欲望をひたすら叶えようとすることではなく、可能な

          快楽を求めるための理性―「快楽主義」(エピクロス主義)の誤謬―

          哲学に「現代物理学」は必要なのか?―物理主義とその問題点―

          はじめに―哲学には「現代物理学」が必要らしい― ここ数日、Twitter(のおそらくごくごく一部のアカデミック界隈で)で激論が交わされている命題がある。「『現代物理学』をバイパスしては良い哲学が出来ない」という命題だ。この主張を提示した物理学者によれば、人類は「ベル不等式の破れ等の現代物理学も知らないスピノザやハイデガーなどを、頭の中からきれいさっぱりと捨て去」らなければいけないらしい。「『存在』『実在』『時間』『空間』『宇宙』『世界』という大きな主語の哲学をしたい」ならば

          哲学に「現代物理学」は必要なのか?―物理主義とその問題点―

          結局何が「自己責任」なのか?―社会構築主義とデカルトの実体二元論、「『自分』とは何か?」という問いについての一考―

          思案の入り口 「学校・大学教育において、競争主義、能力主義、自己責任などの『勝ち組、負け組』の論理を導入することの問題点を挙げよ」と聞かれたら、あなたはどう答えるだろうか。後輩から「レポート課題のアイデアをください」と助けを乞われた私は、この問いに「『負け組』とされた人々が社会から疎外され、引きこもりや犯罪といった問題につながる」「そもそも『学力』はかなりの程度家庭環境や社会構造によって決定されることが証明されている」というひどく陳腐な回答をしたわけである。  さて、近年、「

          結局何が「自己責任」なのか?―社会構築主義とデカルトの実体二元論、「『自分』とは何か?」という問いについての一考―

          「顔」は「自分」なのか?―アイデンティティーとストア派哲学、生得論についての一考―

          風邪で寝込んでいる時に気づいたこと 先日、数日間風邪で寝込んでいたことがあった。外に出ることがないのだから当然身だしなみを整えることもなく、寝込み始めて3日目の夕方に差し掛かろうかというときであった。ふと、自分の「顔」というものの存在が脳裏をよぎった。普段は家の鏡とか、スマホの画面とか、ビルの窓の反射とかで数時間に一回は確認しているものであるが。そして、 ということを思った。  思えば、自分の顔というものは、自分自身で見ることはできない。そこに、顔の「第三者性」があるよう

          「顔」は「自分」なのか?―アイデンティティーとストア派哲学、生得論についての一考―

          備忘録:ソシュールの記号論における「記号」(と『消費社会の神話と構造』における記号の定義)

          はじめに 私は先日「希哲会」におけるボードリヤール著『消費社会の神話と構造』の読書会に参加させていただいた。 その中で、本書でボードリヤールが使用していた「記号」という単語の意味がいまいちつかめなかったため、簡単であるがリサーチしてまとめてみた。「記号」といえば、言語学だけでなく、(それこそボードリヤールのように)文化や経済の分析にも使われる概念である。そこで、今回は、希哲会にてリサーチの成果として発表する予定のレジュメを、noteにも投稿しようと思う。本稿は完全に備忘録(

          備忘録:ソシュールの記号論における「記号」(と『消費社会の神話と構造』における記号の定義)

          備忘録 あなたはその問いに「どう」答えるのか?ー帰納・演繹法と弁証法ー

          1. この記事は何のため? 近頃「物を論じる」ということにハマり始めた私であるが、そのときによく迷うことがある:話をどう結論まで持っていこうか?   そういうときに私の頭におぼろげに浮かぶことは「帰納法ベースで持っていこうか、それとも演繹法ベースで持っていこうか」ということである。しかし、実際に私はこれらの論理構造について適当なイメージしかないし、「帰納?演繹?」という認識の人も結構多いかもしれない。  本稿は、高校倫理でも近代西欧哲学での三大論理構造とされている帰納法、演繹

          備忘録 あなたはその問いに「どう」答えるのか?ー帰納・演繹法と弁証法ー

          「調べ学習」と「研究」の違い―ケーススタディによる比較―

          1. はじめに/なぜ「調べ学習」と「研究」の違いを調べたくなったのか?本稿を書くに至った理由  私は学部三年、人文系の学部に所属する大学生である。三年生に進級し、自分で何かをリサーチし、その成果を発表するという(講義形式ではなく)演習形式の授業を受けるようになった。そのような形式の授業を受け、発表資料を作成している時に私の頭から離れない疑問がある:自分がやっていることは「調べ学習」の範疇を超えていないのではないか? この疑問に答え、私自身を満足させるために本稿を執筆しよ

          「調べ学習」と「研究」の違い―ケーススタディによる比較―