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若葉の紅葉(1-4・4)


───男なんてのは、二種類に分けられる。守らない約束をする男か、守れない約束をする男か。



 市子が志望校に落ちて滑り止めの私立に入学した年の夏、その男は現れた。

 本来ならこんな学校に通うはずじゃなかった、などという傲慢な思い上がりを捨て切れずにいた市子は、その胸のうちをクラスメイトに見透かされたのか、六月になっても一人の友人も出来なかった。もはや孤独は市子のアイデンティティとなりつつあり、孤独ではなく孤高なのだ、と自らを慰撫することで辛うじて春をやり過ごすことができた。

 ところがある日、一人きりで校門を出て顔を上げると、午後四時の日差しが正午のそれと大差ないことに気がつき、ぽろぽろと涙が溢れ出たのだった。無理。もう夏至じゃん、と、市子は涙を拭う右手の甲にだけ聞こえるくらいの声量で言った。
 まさか十五の身空で時の流れを夏至に思い知らされるとは、市子自身もまるで想定していなかったせいで、不覚にも涙は次から次へとこぼれ落ち、何度も「もう夏至、もう夏至」と繰り返すうち、モーゲシというポケモンがいたような気がして携帯電話で検索した。いなかった。

 その男は、いったいいつから市子を見ていたのだろうか。ふと顔を上げた市子の視界に、マスターボールに似た緑色のセットアップ──当時のポケモンではマスターボールは緑色だった──を着た細長い男がにやにやと市子を眺める表情が映った。
 男は、緑色のジャケットの内ポケットから財布を取り出して、一万円を市子に差し出した。市子はそれを受け取ってまじまじと眺める。

 影が濃く、日は白い。木々が落とす影が男のスラックスにまだらな模様を作り出す。まだまだ暑くなりそうな夏至の日だった。


 「市子、大丈夫?汗だくだけど」

 市子が目を覚ますと、部屋の中はまだ暗かった。窓の外で黄色のランプが賑やかに回転している。硬質な音を轟かせ、除雪車が道路の雪を路肩に寄せているようだ。

 「……いま何時ぃ?」

 「四時半。除雪の音で目が覚めちまってさ、市子見たら、汗だく。うなされてたけど夢でも見てた?」

 「高校の時の夢見てた」

 「よっぽど大変な高校生活だったんだな」

 掛け布団を首まで持ち上げ、市子は丸まって身体を震わせる。まさか思い出したくもない高校生活を夢に見るとは。結局、夏が終わるまで友達は出来なかったが、徐々に成績が下降していくにつれて自分への期待値も同じように下降していった市子は、驕りが消えてクラスメイトとも気張らずに話すことが出来るようになっていったのだった。

 婚約者である大沢裕貴が布団から抜け出る雰囲気を感じて、市子は視線を向ける。大沢は壁に掛けてあった黒いパーカーを羽織ると寝室を出て行った。追いかけるようにして市子は布団から這い出ると、大沢の背後に立ち、耳を背中にぴたりとくっつけて目を閉じる。

 「ねえ、随分早起き。緊張してる?」

 市子が寝ぼけた声で大沢に問いかける。
 キッチンの換気扇が回転し始める大袈裟な音に、除雪車のキャタピラが回る音はかき消されてしまう。大沢は火をつけた煙草を一息吸い、やがて吐き出した真っ白な煙を眺めながら掠れた声で笑う。

 「そりゃそうでしょ。今どき煙草もやめらんない男が娘さんと結婚させてくださいなんてさ、最っ高な難易度だよ。しかもお義母さんが女手ひとつで育てあげた一人娘だろ?緊張しないほうがおかしい」

 「だから、私は挨拶なんてしなくてもいいって言ったの。いいよ、今からやめたって。どうせママはどんな男を連れて行っても文句しか言わないんだから。そもそも、男の人を信用してないんだもの」

 「でも、そんなお義母さんに気に入られたら、めちゃくちゃ達成感あると思わない?」

 「もし煙草をやめられてたとしても、それだけは絶対ないって断言できる。あの人をずっと見てきた一人娘として」

 市子が小学校に上がる前に両親は離婚した。
 詳しい理由は幼い市子に知るすべはなかったが、一方的に母がまくしたてる父の悪評は聞くに堪えず、口を開けば開くほど評価を落とすのは父ではなく母のほうなのではないか、と市子が心配になるほどだった。しかし、そんなことを母に進言するわけにもいかず、延々と繰り返される母による父への悪態をただ黙って聞き続けるほかなかった。
 母曰く、父は女性にだらしなく、お金を稼ぐこともなく、話が面白いわけでもなく、大昔に見た誰も知らない海外の映画をフェイバリットに挙げているような男だったそうだ。その話を丸ごと信じるのであれば確かにどうしようもない人間なのだが、幼い市子はそれならばなぜ母は父と結婚したのか、そこがいつも分からずじまいだった。

 大沢の側頭部で上を向く小さな寝癖を左手で撫でながら、市子は煙草を吸う大沢の指先を眺めていた。細くて長い指。皺のない厚みのあるパーカー。短く刈り上がった襟足。不安げに揺れ動く紫煙と、換気扇に吸い込まれていく速度の対比。
 私はこの人のこの姿を、ずっと見つめていくのだ、と市子は感慨深く思う。あの母親なんかに結婚のじゃまをされてたまるものかと、大沢に見えぬよう唇を噛んだ。

 大沢の肩越しに見るキッチンの窓からは、まだしっかりと暗い冬の景色が広がっていた。市子はゆっくりと窓に近づく。除雪車が雪を避けたばかりの国道に、すでにうっすらと真新しい雪が積もっている。車で二時間ほどの距離にある市子の生まれた街ではどの程度雪が積もっているだろうか。正午に予定している母との会食に予定通り到着できるだろうか、と市子は思った。

 煙草を灰皿に押し当てながら、市子と同じように外を眺めている大沢に向けて、市子は背中越しに話しかける。

 「なんかかなり降りそうだよ。少し早めに出たほうがいいかもね。裕貴がせっかく泊まってくれたのに遅刻しちゃったら勿体ない」

 「そっかぁ、そだね。九時に出たら間に合うかな。とにかく、久しぶりに市子ん家に泊まったんだし、二人でゆっくり朝飯でも食おうよ。四時に起きることなんてなかなかないしな」

 人生が変わる瞬間を迎える緊張感と高揚が、早すぎる早起きと混ざり合い、二人は些細なことでもくすくすと笑い合った。
 朝の静寂の中で、マグカップを取り出す音やフライパンをコンロに乗せる音がやけに大きく響く。日の出を待たずに食べ始める朝食は二人だけの秘密のようで、変哲のないトーストとコーヒーを必要以上に丁寧に並べる。使いもしないオリーブオイルをテーブルの真ん中に置いて、市子はそれをスマートフォンで撮影した。

 「ねえ、裕貴。今日、ママに挨拶をしたら私たちはいよいよ後戻りできないわけだよね」

 「うん、なに、どうしたの。不安なの?」

 大沢は小さく引き攣った笑みを浮かべて、市子を見た。市子は首を横に振る。

 「今が秘密を明かす最後のチャンスだと思うんだよね、お互いに。裕貴は、私になにか言っておく秘密とか、ない?」

 外はようやく青みを帯びてきた。市子は朝の光が照らす大沢の横顔と、すっかり食べ終えて空になった皿が慎ましく反射させるシーリングライトを交互に眺める。大沢に秘密を問い質した市子は思い出していた。あの男に買われた夏のことを。



 「ねえ、お姉ちゃんの名前教えてよ」

 マスターボールの男がハンドルを握ったまま市子に話しかける。車の低い天井のせいで市子は助手席に沈み込むように身体を預けるほかなかった。
 カーステレオからは市子が聞いたことのない外国の音楽が流れていた。歌詞の内容もわからなければ、悲しんでいるのか楽しんでいるのかさえ市子にはわからない。市子の家とは反対方向に向かって進んでいく車は、見慣れた商業ビルや学校や駅を置き去りにしたまま速度を緩める様子は一向に見られなかった。

 マスターボールの男の年齢は四十前後だろうか。出立ちから明らかにいわゆる普通のサラリーマンではないことがわかる。緑色のセットアップを着るサラリーマンなどいないからだ。細身のパンツに、ジャケットの下は一段落ち着いた色の黒に近い緑色をしたカットソー。普段どこでも見かけるような服装ではないが、ぎょっとする程に奇抜ではなく、落ち着いた印象を市子は抱いた。
 制服のポケットに突っ込んだままの左手で、強く一万円札を握りしめる。まさか、高校で友達ができるよりも先に援助交際をすることになろうとは───。今時、流行ってもいないよな、と市子は自嘲気味に笑う。

 「名前は、教えてくれないの」

 「……ワカバ」

 フロントガラスに反射したマスターボールの男の口元だけが、後方に飛ばされていく景色の中でぴたりと静止したまま妖しく浮かぶ。

 「ワカバ、何か食べたい物ある?」

 「焼肉」

 「いいね、俺もちょうど焼肉食べたかった」

 「ねえ、おじさん。私のこと買ったって、なんにも面白くないよ」

 規則的なウインカーの音と、大きく左に切られるハンドル。車体の回転に合わせて身体もぐるりと反対方向へ傾いてしまう。カーパフュームの甘ったるい香りが身体のどこかから涙を呼び寄せて、鼻の奥がつんと痛む。

 「面白くないなんてことはないだろう」

 「ううん、私は友達もいないし、毎日が全然楽しくないの。価値のある子ならきっともっと毎日が楽しいはずでしょ。そんな私を買うおじさんも見る目がないってことなんだけど」

 市子は両目に涙が浮かんできたことに気がついた。拭うのも癪だし、零したくもない。表面張力に任せて、なるべく眼球を動かさないようにすることで精一杯だった。

 「ワカバがどう思うかは自由だけど、人の価値ってそれぞれだから。友達が多くて毎日が楽しそうな若い子が苦手、って大人もいるんだぜ」

 「趣味わる」

 「ところでさ、さすがに制服のまま四十男と焼肉ってわけにはいかなくないか?なんか服でも買って、着替えてから行こうか」

 「え、いいの?」

 「援助交際だからね」

 駐車場に停めた車を降りて、昼間の暑さが幾らか和らいだ街に風が吹き込むのを市子は眺めていた。表情を変える夜の街に胸を高鳴らせて歩くと、すれ違うたくさんの大人から何か言いたげな視線を浴び、自分がひどく場違いに思えて不安に駆られる。
 明るく照らされた大通りに、どこかから流れてくるお酒と煙草の匂い。煽情的なネオンサインの真下を歩く時、市子は無意識に唇を固く結んだ。

 夜のすべてが、昼の生真面目さを脱ぎ捨てて市子を取り囲んでいる。少なくとも、市子にはそう思えた。立っている地面だけが唯一信じることのできる場所であるような心細さが、夜の街を初めて歩く市子のなかに浮かび上がった。

 暗い路地から見知らぬ男の笑い声が聞こえるだけで慌てて振り返る。高そうなコートを着た中年女性のむせ返りそうな香水の香りがより強く不安をかきたてて、市子は思わずマスターボールの男を目で探す。

 変なの、と市子は思う。ここにいる人間の中で一番あぶないのは、今まさに自分自身を買っている、この男だというのに。知っている顔だというだけで、すがるように後をついていきたくなってしまう。
 マスターボールの男は振り向くこともなく、一定のペースで歩き続ける。危うく、市子はその手を掴んでしまいそうになる。夜の森に迷い込んで、最後は食べられてしまうことがわかっていながら怪物を頼りにするしかないおとぎ話のなかの子供のように。


 焼肉を食べたあと、市子は自宅近くのコンビニで降ろされると、制服の入った紙袋を手に持ったまま、拍子抜けした顔でマスターボールの男を見る。

 「コンビニのトイレで制服に着替えて帰れよ。今着てる服は自分で洗濯しろ。煙草と焼肉の匂いがついた見知らぬ服を見逃してくれるほど、君のお母さんは間抜けじゃないだろうからな」

 男が運転するSUVにコンビニの照明が反射している。生ぬるい風がそよそよと吹いて、舞い上がった土埃がフロントガラスに付着した。

 「ねえ、もう私、帰るの?私、おじさんに買われたんだよね?これで終わり?服買って、焼肉一緒に食べただけで、これじゃまるで」

 マスターボールの男は立てた人差し指を口先に置いた。

 「あんまり大きな声で買われたとか言うな。近所に知られて、おかしな噂がたったら困るのはワカバだぞ。
 買い物をして、食事を一緒にして他にやることあるのか?まるで君のほうが俺を買ったみたいだな」

 マスターボールの男は運転席に座ったまま、窓から腕を投げ出してにやりと笑う。市子は、年上の男にこんなことを思うのはおかしいかも知れない、と思いながらも、まるで少年のような笑顔だと思う。

 「……おじさん、名前は?」

 一瞬、表情が固まったのを市子は見逃さなかった。男は煙草を一息吸うと、ゆっくりと煙を吐き出しながらシフトレバーを操作する。車が動き出すのを見て市子は慌てて運転席の窓に手をかける。

 「ねえ、名前!」

 思いのほか大きな声が出て、二人はお互いに目を丸くして見つめ合った。男は煙草を手に持ったまま、親指で顎を撫でて笑う。

 「そうだなぁ、ヨシノ、にしよっか。俺の名前。ヨシノ」

 SUVはバックして方向転換する。コンビニから出てきた若い男がそれを見ているのに気がつき、市子は顔を背ける。

 「じゃあな、ワカバ。また連絡する」

 ヨシノ──マスターボールの男──の乗ったSUVは大袈裟な音を出して暗い車道を走り去って行った。排気ガスの匂いだけでなく、エンジンの振動の余韻すら夜の駐車場に残していったようだった。

 ヨシノ。ヨシノシティ。ワカバタウン。やっぱり、と市子は思う。やっぱり、あの男は市子の偽名に気付いていた。もし、次に会う時があれば、私のポケモンを見せてやろう。ルギア、ホウオウ、エンテイ、ライコウ……伝説のポケモンをほとんどコンプリートしているのを見て驚くに違いない。
 市子は帰路の途中で、一人くすくすと笑った。すれ違った老人が飛び上がるように驚いていたが、そんなことはどうでも良くなるくらいに、市子の胸は踊った。昨日までの帰り道とはすべてが違って見えた。

 リビングから緊迫した男たちの声がする。すぐに二時間ドラマの声だと気がついて市子は納得した。

 「おかえり。随分遅かったのね。あんた、初めてだからいいけど、次からは遅くても七時までには帰ってくるのよ、わかった?」

 玄関から見えるダイニングチェアに背中を預けた母は、市子に言ったのか、テレビの中の船越英一郎に話しかけたのかわからないほど、微動だにしないまま振り返りもせずにそう言った。

 「はぁい、ごめんなさい。こんなに遅くなるつもりじゃなかったんだけど」

 「メールに書いてたから晩ご飯は作ってないよ。もう六月だもんねえ、ようやく市子にも一緒にごはん食べる友達が出来たってわけだ」

 手に下げた紙袋を、母に見られないように自室の床にそっと置く。暗がりの中で袋から顔を出した真新しい服を見て、市子はまた思わずにやついてしまう。

 「うん、友達。一人だけね」



 ヨシノから市子に連絡がきたのは一週間後のことだった。連絡先を交換してはいたものの市子から連絡する勇気はなく、だからといって連絡を心待ちにしているというわけでもなかったが、誘いを受けたときはそれなりに心は弾んだ。

 待ち合わせの駅へはバスで向かう。最寄りではなく数駅離れた小さな駅だった。午前のうちから気温はかなり高くなり、市子は汗ばんだ肌からTシャツを浮かすような姿勢でシートに座り、汗のしみがエアコンの風で消えるよう祈った。
 植樹帯に咲いた小さな花が陽に照らされてカラフルに見える。バスの窓から見た景色は眩しく、学生が乗る自転車のハンドルに反射した光が市子の目に焼き付いて、瞼を閉じても緑色の残像が残った。

 「こんな真っ昼間に援助交際する人、いないよ。ヨシノさんは見られて困る人とかいないの?」

 前回は気がつかなかったが、乗り込んだヨシノの車の助手席は適度に沈み込むようになっていて座り心地が良い。もしかしたら高級車なのかも知れないが、市子は車の良し悪しなどまったくわからなかった。

 「俺は誰に見られたって構わない。昼間に若い子と一緒にいたってどうとでも言い訳できるしな。君だって、父親だとか親戚だとかどうにでも言えるだろ」

 「ママに見られたら終わりだけどね。ママはお父さんと離婚して以来、お父さんの悪口ばかり言うようになって、それどころか世の中の男の人全般を憎んでいるように見える」

 運転席の窓が少しだけ開く。煙草の煙が勢いよく吸い込まれていく。

 「それは、結構なことだ。男なんて大したもんじゃない。男が肩で風切って歩いていられるのは、世の中の仕組みを男に有利なように男が作ったからだ。それに気がつかない大多数の男は、君のお母さんが言うように憎まれても仕方ない存在だと俺も思うよ」

 降り立ったアスファルトの上は目が回るような暑さだった。
 ヨシノが市子を連れてきたのは海沿いの街にある小さなコーヒーショップだった。大きめなウッドチップが敷かれた上にレンガが砂浜に向かって配されている。海の見えるテラス席で風を受けるとエアコンがなくても一気に汗がひくように涼しく、オーダーした巨大なソフトクリームを市子は少し後悔したくらいだった。
 空の真ん中にある太陽の光を、海はこぞって反射させている。遠くに浮かぶ漁船がクジラの鳴き声のような音を響かせた。

 「ママは車を持っていないから、こんな遠くまで来たことなんてない。私の知らない街に、私の知らない素敵なお店があるんだなんて、あんまり考えたことなかったな。ヨシノさんが連れてきてくれなかったら、こんなお店も知らないままだ」

 市子が言ってヨシノを振り返ると、ヨシノはパラソルテントの影を頭から被ったままアイスコーヒーを啜っていた。色や文字が所狭しとプリントされたよくわからないデザインのシャツが風を受けて勢いよくはためいている。

 この人は一体なにがしたいんだろう。市子は風で踊る長い髪を押さえながら考える。
 突然、泣いている自分の前に現れたかと思えば、お金で買っておきながら服を買い与え食事を一緒に食べるだけ。海に連れてきたり、ソフトクリームを食べさせたり。イメージする援助交際とは程遠いこの交流は、いったい何と呼ぶのだろう。考えるたびに、市子の耳は熱を持ち、心臓に風が吹くような不思議な感覚を覚える。

 その後も夏のあいだ、市子とヨシノは何度か会ったが、ついにヨシノは市子に触れることはなかった。会うたびに渡してくる一万円を市子は帰宅するといつも机の引き出しにしまった。夏休みが終わり、高校に同じ年齢の友人が出来始めた頃には引き出しの中のお金は十万円になった。

 そして、十一万円目を受け取ったその日がヨシノと会う最後の日になった。

 「もう、会わないことにする」

 ファミレスでハンバーグを食べ終え、チョコレートパフェを頬張っている市子に向かって、ヨシノが針金みたいに真っ直ぐな声で言った。
 目線をヨシノに向けると、彼の吸う煙草の独特な甘い匂いがした。ヨシノの頭の上で、シーリングファンが静かに空気をかき回す。背景の観葉植物も、サラダを運ぶスタッフも、客の笑い声もありきたりな店のなかで、ヨシノの姿だけがくっきりと市子の目を惹いた。

 「そう、なんで?」

 努めて冷静な声で尋ねたが、市子はもうすっかりチョコレートパフェを食べる気持ちは消え失せていた。

 「交際してる人がいる。つい二週間くらい前から。きっと、結婚することになると思う。だから、君とはもう会わない」

 「どんな人?」

 「俺より二十若い。彼女が三十歳になった時、俺は五十。四十歳になった時には俺は六十だ。笑っちゃうだろ」

 「私と浮気してることになっちゃう、ってこと?だって私たち、全然そんな関係じゃないじゃない」

 「いや、そういうことじゃないんだ。ただ、君とはもう会えないってこと。俺の考えだ」

 ひんやりとしたテーブルの感触が心地よい真夏の夜なのに、今はその冷たさがひどく悲しい。男女の別れ、ってこういう気持ちになるのかな、と市子は思う。私たち、本当にそんなんじゃないのに、とも。

 「楽しかったよ、この夏のあいだ。あの時、思いきって学校の前に行って良かった。いきなり泣いているのには驚いたけど」

 「ヨシノさん、笑ってたでしょ」

 「うん、笑ってた」

 煙草を灰皿に押し付けると、立ち上っていた紫の煙が死んだように消えた。
 ヨシノはおしぼりでしっかりと手を拭いてから、こう言った。

 「最後に、手を握ってもいいかな」

 「うん、いいよ」

 市子はテーブルの上に投げ出した右手を、ゆっくりと中央まで動かすと、汗ばんだ手のひらが擦れてキュキュキュと高い音がした。
 ヨシノが伸ばした手には、もうこの先は消えることのないだろう深い皺がいくつも走っている。自分の右手と見比べると、歴然とした年齢差が見てとれた。

 ヨシノの右手が、市子の右手に触れる。やがて、手のひらと手のひらが重なり握手するような形で繋がる。ヨシノは俯いて言う。

 「大きい手だ」

 市子は左手で頬杖をつき、ヨシノの手と自分の手を見る。

 「嘘、私の手、ちっちゃいってよく言われる」

 「いや、大きいよ、本当に」

 「初めて思ったけど、ヨシノさんと私、爪の形そっくりだね」

 ヨシノの肩越しのずっと奥に、窓が見える。その窓から駐車場に停まったヨシノの車が見えた。目を閉じると、あの中で聴いた外国の曲を思い出す。何という映画の主題歌だったか、市子は思い出せなかった。

 「もし、君になにかあったら、いつでも呼んでくれていい。きっと助けに行く」

 アイスコーヒーの入ったグラスにたくさんの水滴がついている。氷はほとんどなくなって、透明な部分と黒い部分がくっきりと分かれているのが見える。ストローで突っついてしまえば、混ざるのに。市子は思う。

 「あの夏至のときみたいに?」

 「あの夏至のときみたいに」

 ふっ、という声とともに、ヨシノの目元にたくさんの皺が寄る。目を細めて、薄い唇を大きく横に広げながら。

 「ねえ、ヨシノさん。私のママが言ってたんだけどね」

 囁くように市子が身を寄せて言うと、ヨシノも反射的に耳を市子に向ける。

 「世の中の男は二種類いるんだって。守らない約束をする男と、守れない約束をする男」

 二人の顔と顔を隔てる八十センチの隙間に滑り込んだ沈黙を、店員の声が切り裂いて消える。エアコンの風がチョコレートパフェを乾かしていく。ヨシノの顔の上で、いつまでも消えない皴を市子はただ見つめていた。

 「きっと、ヨシノさんは私を助けになんか来ない」

 手のひらの温もりが嘘くさくて、市子は言葉とは反対にその手がすり抜けて行かないように、力を入れてしがみつくように離さなかった。



 マグカップと皿を洗い終えると、ピンポン、とインターフォンが鳴った。

 市子は咄嗟に壁に掛けられたアナログ時計で時刻を確認する。あと数分で午前六時になろうかという早朝に間違いなかった。思いもかけない時刻のインターフォンは、不意に首筋を撫でられたような恐ろしさを感じる。
 大沢はすっかりコーヒーを飲み干して空になったマグカップの持ち手を撫でて弄っている。隠している秘密はないか、という市子の問いかけに笑顔を返したあと「なにもないよ」と真っすぐに市子の目を見て言った彼の言葉はある程度には信用できそうに感じた。
 結局、ヨシノとの出来事を伝えなかった市子からしてみれば、大沢が言った言葉に何の意味もないことは重々承知ではあったのだが。

 「誰だろ、こんな早くに」

 市子は廊下を歩いて、玄関ドアのドアスコープを覗く。
 黒のダウンジャケットを着た髪の長い女がそこにはいた。頭や肩に白い雪をかぶったままで払おうともしない。両手はポケットに入れ、俯いており顔は見えない。

 「誰?おかしいよ、こんな時間に。やめておけよ、出なくていいって」

 いつの間にか市子の背後に立っていた大沢が怪訝な表情を見せる。小声で威勢の良いことを言ってはいるが、市子と同じように顔には緊張の色が浮かんでいた。

 「女の人。わかんない、もしかしたら車動かしてほしいとかそういうのかも知れないじゃん」

 「はあ?だって決められた駐車場に停めてるだろ。いいよ、寝てましたって言えば通用するだろ、まだ六時前だぞ」

 もう一度、ピンポン、と鳴る。
 市子と大沢は顔を見合わせる。大沢は小さく首を傾げると、市子を促すように右手を玄関ドアに向けた。市子はゆっくりとドアに近づき「どちらさまですか」と声を返した。

 「大沢裕貴の妻です。開けてください」

 市子が咄嗟に大沢の腕を掴んだのは、恐怖からか引き留めるためかはわからない。掴んだ大沢の腕は新鮮な根菜のようにみるみる硬く、冷たくなっていった。市子が何も言えずにいると再び玄関ドアの外から女の声が響いてきた。

 「大沢裕貴の妻です。そこにいるんですよね。開けてください」

 振り向いて見上げた大沢の顔は、青白く、小刻みに震えていて、この場から逃げ出すことも忘れてしまうほどに動揺しているようだった。それを見て市子は、ああ、やっぱりこいつも嘘つきか、と声に出さずにはいられなかった。


 「……大沢の不倫に気が付いたのは、半年ほど前です。仕事から帰る時間がやけに中途半端だったり、スマートフォンのロックパスワードが頻繁に変更されていたり、怪しい挙動が目につきました。お恥ずかしい話ですが、これが一度目ではないんです。そのたびに不審な行動は同じですから、私もピンとこないわけがありません。
昨日の夕方、友人と温泉旅行に行くと言って大沢が家を出た時、きっと不倫相手の家に行くのだろうと思いました。旅行に行くにしては荷物が少なかったから。それで後をつけてここに来ました。昨日のうちに訪れなかったのは、泊りでなければ何とでも言い逃れできてしまうと考えたからです。夜通しマンションの出入りを監視して、今朝、こちらに伺った次第です」

 大沢の妻を名乗る女性は、まるで取り扱い説明書を読み上げるみたいに淡々と言った。時折、溶けて水になった雪が黒く長い髪から滴るのが見える。小さな一人暮らし用のダイニングテーブルを三人が囲んだ。大沢と、その妻という女性は向かい合わせで、椅子が足りずに市子は立ったまま、キッチンに体重を預けて二人を交互に眺めている。

 「…あなた、お名前は」

 大沢の妻を名乗る女性は、髪を耳にかけながら市子の方を見て言った。市子は叱られたような気持ちになったが、小さく咳払いをすることで辛うじて声を出すことができた。

 「高木です」

 「高木さん。あなたと裕貴がどういう話をしていたのかはわからない。でも、彼は既婚者なんです。私の言ってることが嘘じゃないってことは、彼を見たらわかるでしょ?」

 その目線の先では、青白い顔をしてテーブルを眺めたままの大沢が、全身の力が抜けてしまったような姿勢で椅子に座り込んでいた。

 「でも、私は彼からそんな話聞いたこともなかったし……今日だってちょうど、私の母に挨拶に行くところで」

 「そう、何も聞いてなかったのね。あなた、騙されてたの。彼ね、人を騙してないと退屈なんですって。騙されてる女の子が喜んだり嬉しそうにしてると、気分が高揚するって。頭がおかしいでしょ」

 大沢の妻は、長い黒髪を手で払いながら自身の夫へひどく冷たい視線を向けた。結婚記念日を忘れたとか、洗濯物を取り込まなかったとか、そういう時とは違う根源的な軽蔑と、哀しみを湛えた視線。

 その時、市子の脳裏に浮かんだのは母の顔だった。何かをきっかけにして決壊したダムから放出される大量の水のように、母親の口から吐き出される父親への悪態は、いつもどこか悲しさを感じさせた。

 身体の中に溜まった思いは、何かに変換して初めて外に出ることができる。逆に言えば、何かに変換しなければ思いは身体の中に溜まり続けてしまうのだろう。感情は、身体の外側ではその姿のままで存在することができない。憎しみは、悲しみは、愛情は、いつも何かに形を変えて人の目の前に現れる。
 それは言葉であったり、涙であったり、仕草であったり、金銭であったり、暴力であったりする。人はできるだけ感情が感情のまま伝わることを望んで相応しい入れ物を用意して差し出すのに、それはいつでも正しく伝わらずすれ違ってしまうのだ。


 大沢の妻が両手で顔を覆う。しばしの沈黙を経て、鼻を啜る音と、強く厳しい表情の彼女が再び顔を見せた。涙は出ていなかった。

 「すみません、とにかく、この男は私が連れて帰ります。高木さん、あなたには……本来であれば怒りをぶつけるところなのですが……夫があなたの時間を踏み躙ったこと、心を傷つけたことを考えると、ただこちらから頭を下げなくてはならないと思います。本当に、申し訳ありません」

 市子は、彼女が下げた頭のちょうどてっぺんをまじまじと眺めた。真っ黒で綺麗な髪。数本混ざっている白髪が電球の光を受けてきらきらと輝いていた。彼女が頭を下げる必要があるのだろうか。どんな顔をして良いのかわからず市子が目線を外すと、大沢と目が合った。彼は、市子の表情から何かを読み取ったのか、不意ににこりと笑った。

 「さっき食べた朝食が、市子と食ったメシの中で一番うまかったよ」

 つむじから足先までを寒気が通り抜ける。吐き気がする。彼のにやけた顔面に家中のあらゆる刃物を突き立ててやりたい。眼球と鼻の位置を取り替えてやりたい。引きちぎった両耳を彼の口に詰め込んでやりたい。彼が私につけた傷に比べれば、それくらい簡単なものではないか。どうして、それが許されない。

 市子は、立ち上がり玄関に向かう二人の背中を見つめていた。廊下に小さな水滴が残っている。かろうじて市子が冷静を保てたのは、そこに大沢の妻の細い背中が見えたからだった。

 「泣いてください、ちゃんと」

 市子は言った。
 それは大沢の妻に向けて言うことのできる最低限の言葉だった。
 振り返った彼女は、隠し事を言い当てられた時のような顔をしてから、小さく頷く。
 私が言えることじゃないけど、とか、こちらこそすみません、などとは到底言えなかった。ただ、その一言を彼女に伝えるだけで精一杯の市子は、床にへたり込んで座った。遠くで、玄関が開き、閉じる音が聞こえ、そして沈黙が訪れる。

 窓の外で雪の降る音すら聞こえるようだった。朝の雪の中で、悲しみと憎しみと愛情が歩いていくところを思った。そして、市子は音もなく涙を流した。

 鼻の奥と眉間がしみるように痛む。瞼を温める涙はとめどなく流れ落ちる。
 この感情の乗り物には、どんな気持ちが含まれているのだろうと市子は思った。間違いなくひとつ言えるのは、誰かが見ても市子の感情を正しく理解などできないということだった。


 ──やっぱり、ヨシノさんも嘘つきだ。
 全然、助けに来てくれないじゃん。来てくれるって言ってたのに──

 最後の会話。

 あの、別れを告げられたあとの最後の会話を市子は思い出す。

 「俺が誰だか、教えようか」

 真剣な表情で、しかし市子の目は見ずに煙草を咥えたままヨシノは尋ねる。車内では、外国の音楽。煙草の甘い匂い。車のない夜の高速道路。

 「いい」

 初めて出会った夏至の日と、不安が掻き立てられる夜の街。買ってもらった服。真夏の海とソフトクリーム。そして、最後まで触れなかった手と、新しい恋人。

 「私、たぶんもう知ってる。ヨシノさんが誰なのか」

 その時、静寂を破るインターフォンの音がした。



 「あんた、一人?彼氏はどうしたのよ」

 あまりの大雪で市子が車で来ると危険と考えた母は、早朝に始発に乗った。
 床に座り込む市子を見て、何かを察したのか察しなかったのかはわからない。返事のない娘を尻目に、母は無言のままダイニングチェアに腰を下ろす。カバンからみかんを取り出して皮を剥く。

 「私が手塩にかけて育てた一人娘、もらってこうなんて男はまともなやつじゃないんだよ」

 また始まった、と市子は思った。
 得意の悪態。もうずっと、ずっと繰り返し聞き続けたせいで、嫌悪感すら通り越した独り言のような悪口。市子は床に座ったまま、顔を上げることができない。気に入っていた自室のクッションフロアが、この声を聞くと実家の畳に思えてくる。あのカビ臭さを思い出して市子は深いため息を漏らした。

 「なんか、私、またお母さんと一緒に暮らそうかなあ」

 母が言う。

 「女二人で生きてくのも、まぁ悪くないよ」

 「お母さんも、ちゃんと泣けば良かったんだよ」

 ゆらりと立ち上がり、キッチンで湯を沸かす。大沢の吸った煙草が申し訳なさそうに、片隅で糸のような煙を立ち上らせたまま消え去ろうとしている。ヨシノの吸っていた煙草と同じ銘柄だったのを、市子は知っていた。

 独特な甘い匂いと母の笑い顔。
 三人がいた三十年前の家が頭のどこかから蘇る。母に改めて質問すれば良かったのだ。あの外国の曲はなんというタイトルだったのかと。

 煙草は水に浸かり、甘い匂いは消えていく。もう二度とかえらない三人がいた家のように。

 市子の手は、その頃よりは確かに大きくなったろう。彼が握った手の感触は消えないようにと祈りながら、いつか、またいつかと本当に彼の助けが必要なほどに傷つく日を待ち望んでいる。


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