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光をにぎる

古き良きもの、についてよく考えることがある。
再開発や技術の進化によって変わりゆく街並みや文化、
そして人々の暮らし。
時代の流れに逆らえないまま、過去は消えていってしまう。
誰かが愛した風景や店が、消えてゆく現実。
老朽化によって変わらずに在りつづけることの難しさ。
時代と共に一色に塗り替えられてしまう
変化の恐ろしさも感じずにはいられない。
いくつもの「物」が形に残らず消えてゆくこの現代。
そこに果たして、本当の未来は在るのだろうか?

最近観た映画の「Perfect Days」の中にも
地下鉄の忙しない都市的な風景の隣に佇む
昔ながらの商店街が印象的だった。
駅にはスーツを着た人たちが大勢行き交っているのに対し、
隣には風情ある居酒屋や古本屋が立ち並ぶ。
常連の客がそこでいつものとビールを飲みながら会話をし、
変わらない日々を過ごしていた。
何だか、時間がゆっくり流れている気がした。
長年、この場所、景色、匂い、味を愛している人が居る。
そして、この場所を変わらず守り抜いてきた人がいること。
なんて素晴らしいことだろうと思った。
しかし、永遠に続くものは限り少ない。
その光景を見て、いつかこの風景も都市化の一色に塗り替えられて
しまうのではないかと、少し悲しい気持ちにもなった。

以前「わたしは光をにぎっている」という映画を観た。
その中で主人公の祖母が言った台詞を鮮明に憶えている。

言葉は必要な時に向こうからやってくる。
形あるものはいつか無くなってしまうけれど、
言葉だけは残り続ける。
言葉は心、心は光。

題材になった山村暮鳥の「自分は光をにぎっている」の詩
と共に私の心に刻まれた言葉だった。

『自分は光をにぎっている』

自分は光をにぎっている
いまもいまとてにぎっている
而しかもおりおりは考える
此この掌てのひらをあけてみたら
からっぽではあるまいか
からっぽであったらどうしよう
けれど自分はにぎっている
いよいよしっかり握るのだ
あんな烈しい暴風あらしの中で
摑んだひかりだ
はなすものか
どんなことがあっても
おお石になれ、拳
此この生きのくるしみ
くるしければくるしいほど
自分は光をにぎりしめる

山村暮鳥

この詩は百年も前に執筆されたもので
山村暮鳥が結核で死ぬ間際に書かれたものだそう。
言葉は形を変えずに残り続ける。
そのおかげで何百年も前の詩が、私の心に光を照らしてくれた。
移り変わりのスピードが猛烈に速くなっているこの現代で
どれだけ自分の心を言葉にして伝えられるだろう。
古き良きものを守っていくにはどうしたら良いのだろう。
SNSが生活の一部になりつつあり、言葉を発信することも
安易なこの時代で、今こうして何者でもない自分が
文字を綴る。意味を成すのかも分からないが
何かを伝える、ということはこれからもやめずにいたい。
進化と退化は紙一重、まさにそう思う。
失ったものもあるが、得たものも必ずあるはず。
上手く調和してゆけたら、と願うばかりだ。

追記
大好きな石垣島に今年も行ってきた。
私はフェリーターミナルの待合所が大好きだ。
これから離島に向かう人、本を読みながら待っている人。
あの空間は時間が本当にゆっくり流れている気がする。
待合所のベンチに座って、
売店で買ったポーク卵おにぎりを食べた。
目の前の青い海が揺れている。
光が反射して、キラキラ光っている。
心が穏やかになっていくのが解った。
都心でもこんな気持ちで生きていけたらなあ。
初めて行った小浜島の雰囲気もすごく好きだった。










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