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役に立たない人類学などいらない?

 発展途上国の開発援助にかかわる政府関係者やNGOの人びとと人類学者は、2000年代初めまであまり接点を持たずに来たという論文を見つけました。読んでみて、にわかには信じられない思いでした。

 開発援助と人類学者は接点を持っていない? 開発援助にかかわる人たちは人類学者が身近にいても開発とか援助とかに役立つ情報は得られず、人類学者の側も、開発援助にかかわる人は現地の人のニーズに添った援助はしていないと解釈できました。「開発援助」は自分たちの都合でプログラムを決めているというのです。このことを互いの言葉で言い直すと、人類学者は「学問のための学問」でお給料をもらっているのだし、開発援助にかかわる人は自己満足に終始しているということでしょう。

 わたしが個人的に親しくしていた人類学者は、例えばマラウイ共和国で内面漁労と環境の保全の研究をしていた今井一郎さん(関西学院大学、故人)とか、わたしに「ンドキの森と呼ばれる誰も入ったことのない森がある」と教えてくれた丹野正さん(弘前大学名誉教授、故人)がいます。また浜松医科大学の佐藤弘明さんはピグミーの疾病と寿命について調査をされていました。どの人も穏やかで付き合いやすい人でした。

 しかし、アフリカの漁労やピグミーの疾病のことなど調べても、「今、直面している問題の解決にはならない。そのような無駄な研究に国費を使うなど何を考えているのか。そのような浪費は止めさせてしまえ」という根強い主張が聞こえてきそうです。

 発展途上国の開発援助では、援助するべき相手は当然のことながら異民族です。住む環境や民族の経てきた歴史が違いますし、その中から育まれた心情や宗教も違います。開発援助では、一人ひとりが「直面している問題」の質は違うことが多いのです。それを「無駄な研究」と切って捨てる態度が価値観の違う人たちの共感を得ることはありません。

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 文化人類学の中でも医療人類学は、医療界という異世界に居場所を見出した例外かもしれません。

 世界中の医師は共通の方法で根拠に基づいた医術を施します。看護師は医師と共に患者の精神的な安定を図ります。薬剤師は患者への投薬に責任を持ちます。その他の医療界に携わる人びとも、それぞれに役割を果たしながらチームとしての医療をめざします。そのチームの中に医療人類学者という異質な存在が紛れ込むことがあります。

 医療人類学者は医療の専門家ではありません。そんな人が、なぜ医療チームにかかわっているのでしょう?

 それは、言ってみれば「患者が言いたいことの代弁者」としての医療人類学者の姿なのです。患者は言いたいことがあっても言葉にできるとは限りません。訴えたいことを言葉にするには、普通、一定の時間と精神的余裕が必要です。しかし患者には時間も精神的余裕のないことが多いのです。それを「価値観の違う人たち」の専門家が何とか読み取ってチームの人に示す。それが医療人類学者の役割です。医療人類学者がいなければ、何を訴えたかったのか知られないままになる人が多く出ることでしょう。人を「わがままなだけだ」と見下したり、無知だとおとしめる行為はまちがっています。

 わたしの読んだ本に載っていた事例です。アフリカのガーナという国では、妊娠中絶を自分で処置して命を落とす少女が多くいます。自己投薬で中絶を試みて大量に出血し、死に至るのです。その根本的原因を現地の医療者は貧困と知識不足と捉えていました。しかし人類学者が根気よく聞き取ったところ、妊娠中絶の本当の原因は、妊娠したら高校や大学を辞めなければならないこと、また所属するキリスト教の教会が処女性を重要視する宗派の場合には周囲から咎められることが原因だとわかりました。経済的にも出産や育児に不安を抱えている場合が多いそうです。医薬品を用いて中絶する場合のコストは数百円以下で済みますが、病院で手術を受けるとなると数万円かかります。これは少女たちにとって簡単に用意できる金額ではないのです。ちなみに妊娠に至った原因はレイプや売春であることは稀で、たいていは恋愛関係にあるボーイフレンドとの間で妊娠しているということです(飯田・錦織編『医師・医学生のための人類学・社会学』、「自己投薬による中絶を引き起こす文化と環境」pp. 205–214)[https://www.nakanishiya.co.jp/book/b570799.html]。

 発展途上国への開発や援助は援助を受ける側の意向が大切です。援助する側の都合で決められるものではありません。その溝を埋めるのが人類学者です。その典型が医療人類学者だと言えます。それは医療というものが医療者の自分たちだけの基準では完結し得ないものだと実感したからではないでしょうか。かつての医療者は、何を投薬をしているのか、なぜ今、この処置が必要なのかをいちいち患者に説明することはありませんでした。それではいけないという反省から、医療人類学者や患者という医療人類学者とは違う視点を持った人びともチーム医療の一員として迎えるようになったのです。このことは発展途上国への開発援助や日本だけの特異な出来事ではなく、医療界全体の潮流だと思います。

 さらにこのことは、医療だけでなく人と人の関係全般に言えることです。

 現在では、開発援助にかかわる人びとと人類学者はあまり接点を持たないという点は是正されてきました。現地国のニーズが先にあり、そのニーズに対してどう応えるかが「開発援助」だと認識されつつあります。いきおい人類学者にも、例えば開発人類学という新たなフィールドが生まれています。その一方で、自分は開発援助には係わりたくないという人類学者が、現実にいるようです。また開発援助にかかわる人びとの側にも、今だに人類学者を胡散臭く見ている人がいるようです。「今、直面している問題の解決にはならない。そのような無駄な研究に国費を使うなど何を考えているのか。そのような浪費は止めさせてしまえ」と主張する人は、(現実的にいるのかどうか、具体的には知りませんが)そういう人なのかもしれません。

 今は過度期なのかもしれません。わたしの意見を言わせてもらえば、物事は役に立つということだけを見ていても、時が過ぎれば何の役にも立たないとわかるということはあるものです。〈役に立つ・役に立たない〉とは、安易には決められません。

 人類学者は人びとの多様なあり方を尊重しながら、その一方で、人の本質とは何だろうと考えます。この思考法は、社会的にもメリットが大きいはずです。医療人類学者が成功してきたように、人類学者全体の知恵を開発や援助にも活かすべきです。


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