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令和5年夏、熱狂甲子園塾!(その4)

森林監督の問題提起に関する考察

慶應義塾高校の森林監督は、全国で優勝することによって指導のあり方を含めて新たな高校野球観を訴えたかったらしい。
そうした監督の思いと生徒との間に以前は距離があったが、驚くべきことに、今年のチームは選手も同じ考えを持っていたそうである。
甲子園史上、そのような意識で戦ったチームはない。そんなチームが、現に甲子園優勝を成し遂げるのだから、恐れ入ったと言うほかはない。

ただ、そもそも慶應は何と戦っていたのだろうか。
丸刈り? 長時間練習? 管理野球? 体罰? 不正行為?
森林監督の著書や、ネット上の記事を読むと、そのようなものが挙がっている。いずれも大いにうなずける問題提起ではあった。
だが、慶應が甲子園で勝ち抜くことは、本当にそれらと戦うことになったのだろうか?

たとえば、髪型について。現代では、世間一般の人が、高校生の髪型についてとやかく言うことはあまりない。これは、あくまでも高校や球界内部の、「高校野球=丸刈り」という固定観念に対抗しようとした話である。
長時間練習や管理野球については、部外者にはなお結論を出せない。
甲子園がプロ予備軍のような扱いになっているのは、今もあまり変わらない。高校野球を通じて成長したいというよりも、甲子園がプロへの近道だと考える少年は、長い時間厳しい指導を受けることも望むだろう。
また、甲子園は今でもやはり野球少年の憧れの聖地である。プロになる厳しさを知るほどに、野球の中身よりも甲子園出場の可能性が高そうな高校を選ぶこともあるだろう。
結局、それらはいずれも、高校野球界内部の狭い話なのであろう。それが、森林監督のような当事者にとっては分厚い壁なのであろう。
相手がないと野球は成立しない。数多くの対戦相手と接する中で「変わらない」高校野球界にずっと疑問を感じてきた森林監督に、今それを訴える時期が来たということなのであろう。

慶應義塾高校の対極にあり、森林監督が苦々しく思うのは、直近の例でいえば、体罰を行ったとされる監督を早期に復帰させたあの高校であろうか。あるいは、監督が文武別道を公言して昨年の甲子園で台風の目になったあの高校だろうか。
だが、慶應のエンジョイ・ベースボールや自主性尊重の指導は、「慶應だからできること」という反論が常について回る。全国には、「野球しかない」ような学校と「野球以外にもある」ような学校とがあり、同列に論じられない。出発点の違いは明白に存在する。
本質においては、生徒の指導を行いつつ勝利を目指す点においてどの学校でも同じと言いたいが、それを言う資格があるとしたら現場で苦労をしている当事者だけである。教育は日々戦場であり、一瞬気を抜くと指導者のほうが負けてしまう。若くて熱心な指導者に、教育界全体のことを考える余裕はない。
ときどき、部活動は指導者のエゴのためにやっているように見えることがある。もっともそれは、高校野球に限る話ではない。生徒に成果を上げさせることと、指導者である教員の自己満足は連動している。運動部も文化部も問わない。体罰や不正行為は、それが行き過ぎて起こる。
一方、部外者である世間の目は、野球であるにもかかわらず、相変わらず学力偏差値のようなものに向けられている。私のような部外の教育者には、そういう「変わらない」世間の目、マスメディアの視点のほうにいらいらさせられる。慶應高校が野球をエンジョイできるのは、頭がよいからか? 我が校は、自主性を持ち得ないのか? ―それを肯定する教育者はいない。
私のようなヘボ教師は、慶應に勤めてもなかなか自主性を伸ばせないだろう。教育は、たいへん難しい営みである。全国あまたの教師は、毎日、善意で必死に職務に励んでいる。

近年の慶應義塾高校野球部の成功は、森林監督あってのものである。近くで拝見したことはないものの、おそらく卓越した指導力をお持ちだろう。
森林監督の著書『Thinking Baseball』は、今年ではなく3年前の出版である。当然、今年の全国優勝以前の思いが書かれている。森林監督がそのころから改善したかったのは、高校野球のほうであろうか、それとも教育のほうであろうか。私は、高校野球は部外者であるため、この記事を通じて、あくまでも教育の話をしている。
教育においては、根本のところで多くの価値は相対的であるといえる。教育活動の中には、中身に大した意味はなく、秩序を維持することや伝統自体に意味があるものもある。

たとえば、ガムを噛んでプレーする高校が出てきたらどうか。
ガムといえば、プロ野球選手がガムを噛む姿は、つい数年前までは、「子供たちの教育に悪い」といって忌避されていた。ところが現在は、毎日テレビで選手が口を動かしながら打ったり守ったりする姿を見るようになり、意見はかき消えてしまった。
高校野球でも、「リラックスして力を発揮できる」などという科学的に正当な理由でどこかがガム噛みを始めたら、どうなるのだろう。その高校が、自らの正しさを主張するために、甲子園で優勝したら、どうなるのだろう。
そう考えたら、「全員ガムを噛まないで野球できる」ということは、それなりに意味があることである。さらに、「全員坊主頭にして野球できる」ということは、何かしらすごいことなのである。

今大会、明確な問題提起の意図を持って戦い、その目標を達成した慶應高校のおかげで、かりに、すべての高校野球が自由な髪型となったとしよう。そうなったとき、今度は、教育者として、全員丸刈りの慶應高校野球部が見てみたい。慶應ならば、それができるだろう。思考停止を招きがちな固定観念に揺さぶりをかけるのが教育の一つのあり方だというのは、森林監督の著書にも全般にわたって書かれている。

森林監督の指導は、甲子園だけがすべてではないという考えに基づいていたらしい。だが、その考えの正しさを訴えるために目指したことは、甲子園に出場し優勝することだった。これは、目的と手段とが矛盾している。
勝負である以上、監督も勝ちたかっただろう。そして、優勝するまでは、今慶應の大応援団を心強く感じていただろう。
だが、何の因果か、全国から湧いて出た慶應関係者の大応援団は、マナーが問題視され、おそらく監督の考えとは裏腹に、「勝てば官軍」を地で行く様子を見せつけた。
そんな中での優勝によって、慶應高校も、結局は「変わらない」甲子園に呑み込まれたのではなかろうか。優勝したことで、高校野球の大いなる矛盾の中の一存在にすぎなくなったのではなかろうか。そんな心配が残った。

森林監督の数年にわたる問題提起は、はたして意図どおりの問題提起となったのだろうか。
新チームが始動して、慶應も再び次の勝利を目指してますます力が入るようになったはずである。それは、果たして勝利至上主義とどう異なっているのか。
これからの慶應義塾高校野球部と森林監督の動向に注目したい。

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