見出し画像

かつて存在した日本のバイクメーカー「目黒製作所」(メグロ)の足跡

大正2年生まれの祖父は、戦後直後はニコンで働いていましたが、昭和10年代から終戦直前までは目黒製作所という会社に勤めていました。目黒製作所はかつて日本に存在していた日本を代表するバイクメーカーで、本社は品川区西五反田4丁目(現在の日産目黒店・ショールーム)にあったそうです。「メグロ」と呼ばれ、第二次大戦前からの日本メーカーとしては最も長く活動していたとのことですが、昭和39年に川崎重工業(当時の川崎航空機工業)に吸収合併されて消滅してしまいました。今でもメグロバイクの愛好家が日本各地にいらっしゃるみたいですね。

祖父の遺品の中に当時の写真が多く出てきまして、以前、川崎重工さんの図書室のようなところで保管してもらおうと、思い切って代表へ電話をしたことがあるのですが、たらい回しの末に広報部には繋がったものの、かなり忙しかったようでそのまま関係が途切れてしまいました。当時の目黒製作所に関係する方は既にもう存命ではありませんが、その子孫の方など、誰かキーになる方がおられれば、遺品を渡したいと思います。その中身をいくつか。

<本サイトの掲載画像(写真)における無断複製、転載、転用、改変等の二次利用は固く禁止とさせていただきます。>

この人事決定通知は私の祖父のものですが、昭和19年と記されています。戦争の気配や影響が次第に大きくなり、空襲を避けるために目黒から栃木県那須烏山市に工場疎開したのが昭和19年なので、東京と那須を行き来していたのかもしれません。当時は既にバイクを製造する余裕はなく、日本軍の武器部品調達のための軍事工場となっていたと思われます。

(c) Goro Nagaoka
(c) Goro Nagaoka

この写真は製造工場内だと思います。東京の大森にも製造工場があったそうですが、写真を見ると建物が木造で若干簡素ですので、那須烏山工場だと思われます。若い頃の祖父が写っています。中央にシェパードのような犬がいるのが気になりました。供出なく犬生を全うできたのならよいけど。

(c) Goro Nagaoka

これはどこでしょうか?寺社仏閣での写真が多いです。こちらはお偉いさんと若い工員といった感じでしょうか?

(c) Goro Nagaoka

服装から見るに、この写真はかなり戦争が激しくなってきた頃のものだと思います。立派な鳥居と門構えですが、どこの神社でしょうか?当時の混沌とした世の中を想像しつつ、それぞれの人の表情を見て、何だか感慨深いものを感じます。右にいる方が目黒製作所の旗を持っています。今でもいそうな感じの方ですね。

(c) Goro Nagaoka

この写真は一瞬日光かと思いましたが、ちょっと違うかも?戦争の影響が少しずつ… といった雰囲気ですが、日常では参拝に行ったりと、可能な限り普通に暮らしていたのでしょう。全社員の集合写真のように見えます。

(c) Goro Nagaoka

この写真では、職員の皆さん(おそらくその家族も?)の表情が明くていいですね。新婚さんのようなカップルが微笑ましいです。おそらく本社部隊だと思います。

(c) Goro Nagaoka

奥高尾縦走路と書いてあります。軍服の人もいるので、社員による訓練や鍛錬旅行的なイベントなのでしょうか? こんな山の中なのに着物や背広の人がいます。東京とはいえかなり深い山の中です。

やはり会社愛が強い組織だったんだろうなと写真からも想像できます。とても日本的というか、仲間同士の友情や愛情を感じますね。戦争が迫ってきている中ですので、かなりの緊張感とハイテンションな中だったと思いますので、よけいにそうさせる雰囲気があったのだろうと思います。

(c) Goro Nagaoka

とてもおしゃれな服装の人もいますね。よく集合写真を撮る会社だなと思います。当時のことなので、かなり大人に見える人々も全然若かったりするのでしょう。

(c) Goro Nagaoka
(c) Goro Nagaoka

栃木県那須烏山市では、かつて存在していた目黒製作所の工場を全面的にPRされていました。<メグロの聖地・那須烏山>
https://meguro-nasukarasuyama.com/

戦果が激しくなり会社運営が難しくなったことから、空襲の直前に、社員は全員解雇となったようです。当時は雇用保険どころじゃなかったと思います。その直後に東京大空襲がありました。それぞれもう再び会えることもなく、どこかへ散っていってしまったのでしょうか?

この写真は素敵な写真ですね。終戦前ですが、ちょっと三丁目の夕日的な。ちなみに右端にいる人が私の祖父(の若い頃)です。目黒製作所の本社前で撮った写真です。

(c) Goro Nagaoka

もしまだ「メグロ」が存在していたら、いったいどんなバイクメーカーになっていたのだろう。当時の目黒製作所を知る方、働いていた人が祖先にいる、という方がいればお話を伺ってみたいものです。当時は役所も焼け野原になってしまい、多くの方の戸籍も全て焼けてしまったそうなので、多くの方の江戸時代のルーツなども途絶えてしまったんだろうと思います。祖父は東京の白金三光町で暮らし、疎開をしない決断をしたそうですが、白金台の周辺は奇跡的に焼けなかったそうで、おかげで戦前の写真など多くの遺品が残りました。今後も色々とご紹介できればと思っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?