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打ちのめされ、投げられ、叩きつけられるのよ

空き巣に入られたかもしれない、と同僚は言った。朝、打ち合わせに向かうエレベータの中で。唐突に。

打ち合わせ後、詳細を訊く。自宅に置いていたはずの財布が見当たらないという。マンションの掲示板の張り紙で、前日、他の部屋の住人が空き巣被害に遭ったらしいことを知る。その空き巣に、自分の財布も一緒に盗まれたのではないか、というのが彼の見解。侵入経路はおそらく、施錠が漏れたベランダの窓から。戸締りが甘かったことも自認している。

被害は、クレジットカードと現金数万円。まだカードの利用を停止していないというので、今すぐカード会社に連絡することを彼に薦める。その場でカード会社に電話をかける同僚。カード会社のオペレータらしき相手としばらく話しこんだあと、彼は電話を切った。どうでした? 不正利用の形跡とかありませんでしたか? と私が訊くと、彼ははにかんだ笑顔を浮かべた。どうやら、クレジットカードの有効期限がだいぶ前に切れていたそうだ。

近くの四川料理屋で、そのまま彼と一緒に昼食。犯人と鉢合わせしなかっただけでも良かったじゃないですか。もし相手が包丁とか持ってたら、最悪刺し殺されていたかもしれませんよ。慰めの言葉だか脅し文句だかよく分からない私の言葉について、彼はまじめな顔で、もし鉢合わせしたら、バールで応戦するしかないな、とつぶやく。え、部屋にバールあるんですか?

彼の玄関には、鉄製のバールが常に用意されているらしい。大地震が起きて、もし玄関の扉が開かなくなっても、それを使えば扉を自力でこじあけて脱出することができるそうだ。その防災意識を、少しでも防犯意識に振り分けていたら、あるいは。麻婆豆腐の山椒で、舌が痺れてきた。

帰宅して、夕飯にサラダチキンをほぐして野菜炒めを作る。その間、奥さんは、箱買いした炭酸水のペットボトルに貼ってある、小さなキャンペーン用シールを爪で剥がしていた。その数、全部で24本分。web上で、シールに記載された番号を手入力で送信し、当選すれば、18本分の炭酸水が無料で手に入るという。全部外れだった。

ジムでヴァージニア・ウルフ『』の続きを読む。文章と身体の波長が合う。散文詩のような言葉は朗唱にも似て、ときどき鮮烈な印象を残しては、次々と目の前を流れ去ってゆく。なぜ惹かれるのか、自分でも理由がよく分からない。

「斧が木の中心まで切り裂いたわ。中心は温かいのよ。樹皮の中で音がふるえている。『ああ!』と女の人が恋人に向って叫ぶわ、ヴェニスの彼女の窓から身をのり出して。『ああ、ああ!』と叫んだかと思うと、また『ああ!』と叫ぶの。彼女は叫び声を私たちに聞かせたのよ。でも叫び声だけなの。ところで、叫び声って、何かしら? やがて、甲虫のような姿の男たちが、ヴァイオリンを手にやってきて、待ちかまえ、数え、うなずき、弓をおろすの。すると、さざめきと笑いが起こるわ。船乗りが、起伏の多い、けわしい丘のふもとで、唇で小枝を嚙みながら、岸辺にとび上がったとき、オリーヴの木々と無数の舌をもつ灰色の葉が揺れ動いたように。

ヴァージニア・ウルフ(著),川本静子(訳)『波』みすず書房,p.149
「やがて、街路から戻ってきて、どこかの部屋に入ると、人々は話し合っているか、話そうと殆ど努めていないかだ。彼が話し、彼女が話し、誰か他の人が話し、ものごとが余り何度も話されるので、全部の重みを持ち上げるのに、今は一言で十分だ。議論、笑い、聞き古した不平――それらは空中を舞い落ち、空気を濁らせる。

同上,p.182

BGMに、SŁAWEK JASKUŁKE の"Sea"を選ぶ。ウルフの文章と音楽が、ぴたりと重なる。ポーランドのピアニストが想う"Sea"は、北のバルト海だろうか。ウルフのいたロンドンからは、望むことのできない海。文章を綴るとき、彼女が思い浮かべた海ではなかったはずなのに。

人生はこんなものだとか、あんなものだとか、あなたに言ってさし上げられないわ。私は多種多様の人々の群の中に飛び出していくのよ。人々にもまれて、海原に浮かぶ船のように、打ちのめされ、投げられ、叩きつけられるのよ。

同上,p.162
太陽は沈んでしまった。空と海の見分けはつかなかった。波は砕けつつ、砂浜のはるか彼方に白扇をひろげ、響き渡る洞窟の奥まで白い影を投げかけ、やがて小石の上を吐息を漏らしつつ引き返していった。

同上,p.219

あともう少しだけ読もう、あともう少しだけ。残りの頁があとわずかになった。クロストレーナーのペダルを漕ぐ両脚が疲労でだるくなり、本を閉じる。明日には読み終わるだろう。

帰宅して、菊地成孔の粋な夜電波の放送をradikoで聴きながら、印象に残ったウルフの文章をEvernoteに書き留める。奥さんが、ウィルキンソンのキャンペーンのシールが全部外れだったこと、日記に書きなよ、と話しかけてくる。そんなこと書かないよ、自分の日記に書いたら、と彼女に応える。SmartNewsのトップに記事が並ぶ。

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