【小説】水上リフレクション4

第四章【操り人形とビンタ】

 翌朝、歳三は目醒めがよく五時には起床していた。前日の酒はまったく残っていない。年を重ねたからか早起きになった。子供の頃、じーさんが早起きをしてテレビを見ながら、パンをかじっているの見ていた。なんであんなに早く起きるんだろうと思っていたが、やっと気持ちが分かる年になった。いつものようにコーヒーを沸かし一息ついた。朝は必ずブラックコーヒーだ。そしてコーヒーをすすりながら昨晩のことを思い出していた。まるで一晩かけて見た、楽しかった夢を思い出すかのように。
 午前八時三十分。今日もいつもと同じ一日が始まるはずだった。家から自転車で十五分程の図書館へ向かう。図書館は九時開館だ。開館前に行くのは毎朝、各紙三部しかない朝刊を先を競うよう殺到する暇人と戦うためだ。別に一日くらい見なくとも、どうってことないのだが毎朝の習慣になっている。先を越されるとその日は負けた気分で少し憂鬱なる。
今日は、昨日の雨も止み快晴だった。自転車日和だ。朝日を浴びて気分も良かった。信号待ちで足を止め向かいを見ると、いつもの寂れた公園が目に入った。普段は全く気にせずに通りすぎるのだが今日は違っていた。
歳三は公園横のコンビニで、メロンパンと缶コーヒー、スポーツ新聞を買った。そして歳三は公園内の日陰になっているベンチを探し腰を下ろした。今日はいつものように図書館へ行くのはキャンセルだ。
新聞のトップはやはりソフトバンクホークス。紙面をパっと見る限り勝ったらしい。そしてページをめくり目的のページへ急いだ。もちろん昨日のレースの記事だ。通常大手新聞社の朝刊はボートレースの記事を扱わない。扱っているのはスポーツ新聞だ。そこには小さく各レースの成績だけが記載されている。結果は分かってはいるが昨日、出会った中原千晶の着順に目を通した。3R5着。8R6着だった。黒木美鈴の成績も確認した。優勝戦2着。
昨日は女子レーサーだけの一般競争だった。女子レーサーの中では美鈴はトップの得点率を誇る女子艇王と言ってもいい。準優勝は当たり前に近い成績だった。
歳三は財布に入れていた紙切れを取り出した。昨日、美鈴から手渡されたものだ。そこには二人の電話番号が記されていた。それを見ながら歳三は考えていた。昨日のことを真に受けるべきだろうか。それとも酔った席での戯言だろうか。
しかし受け取って約束をしたからには、何らかのアクションを起こさなければ失礼だろう。そんなことを公園のベンチでしばらく考えていた。学生時代のように好きな女の子へ電話をかける心境だった。少しドキドキしていた。
歳三は自分の中で迷っているふりをしていたが、実は腹は決まっていた。ただ電話をかけることに躊躇して、その時間の穴埋めをしていただけだ。
ポケットからスマホを出し美鈴に電話をかけることにした。去年まではガラケーを持っていたがスマホに変えた。このスマホというやつは便利な物で使い方さえ覚えてしまえば、何でも検索できるし、何よりレースの結果がすぐに分かる。携帯ショップの店員に勧められるがままに機種変更をした。初めは後悔したが今ではこっちの方が使い勝手がいい。
番号を入れると呼び出し音が鳴った。その音が歳三の心音を増長させていった。まるで恋人にでも電話をかけるように。
しばらくすると「もしもし」と女性の声が聞こえた。紛れもなく昨日聞いた美鈴の声だった。
「あっもしもし、昨日、居酒屋でお会いした瀬利とし・・・いや、ひまじぃです」
歳三は本名を言おうとしたが、とっさに《ひまじぃ》と名乗った。話の成り行き上、その方がしっくりくると思ったからだ。暑さもあったが、それ以外の感情が歳三の携帯を汗で濡らしていた。

          *

 居酒屋での楽しい飲み会の後、千晶は美鈴のマンションにいた。
「千晶、早く起きんね。朝ごはん食べに行くよ」
美鈴は千晶の布団をめっくて、カーテンを開けた。朝日が差し込んで、まるでドラマのワンシーンのようだ。
「うぅん、おはよう」
 千晶は案外ごねずに目を覚ました。そしてキングサイズのダブルベットにちょこんと座った。枕元にはいつも千晶が着ている、ピンクのパジャマが綺麗に折りたたまれて置いてあった。
その横には乱雑に脱ぎ捨てられた美鈴の青いパジャマ。二人で一緒に買いに行ったお揃いのパジャマだ。
 千晶は座ったまま、肌寒い自分の感覚を確かめるように下半身に目をやった。
「あっゴメン。昨日あんた帰って来てすぐ寝ちゃうから」
美鈴は下着姿のまま自慢の巨乳を揺らしながら冷蔵庫に向かった。そして自家製のミックスジュースを飲みながら
「着替えさせてやろうと思ったんやけど、面倒くさかったけん、洋服を脱がすだけでベットに寝かしたんよ。服はハンガーに掛けとったけん」
「そうなんだ。ありがとね」
「あんたも飲む?」
「そうだね」
 そう言って千晶も冷蔵庫に向かった。歩いてくる千晶を見て美鈴が言った。
「あんた、また痩せたんやない?」
「先月より1キロくらい痩せたかな」
「やっぱり。1キロも痩せたら直線のスピードが少し上がるやろうけど、それ以上に体重落としたらダメやけんね。ターンで力負けするから」
「分かってるって。それより美鈴は太ったんじゃない?」
 ちょっと怪訝そうな顔で千晶が返した。
「バれたぁ」
 美鈴は舌を出しながら照れくさそうに、にっこり笑った。

 ボートレースは体重によって有利・不利がある。そのためファンにも分かるよう、出走表に各人の体重が表記されている。体重の重い選手は軽い選手に比べると推進力が落ちる。どうしても直線スピードで負けてしまうケースが多いのだ。しかし一概に体重が重いのもダメだという訳ではない。強風や雨などの天候の悪いレースでは水面が荒れるので、そういう時には体重が重いほうが安定する。しかし一般的には体重が軽いほうがメリットが多いとされている。試合より減量で苦しむ選手もいるくらいだ。美鈴はそのバランスが非常によかった。
「ところで、今何時」
 千晶が欠伸をしながら美鈴に聞いた。
「八時十五分。お腹すいたけん早く【華美】でモーニング食べよ」
美鈴のマンションの向かいにあるカフェだ。二人はよくここで朝食を食べていた。
 ここ【華美】は和風のカフェで古くからある老舗らしい。美鈴が越してきてから二人でよく通うようになった。予想通り今日もお客は疎らだ。時代の流れで新し物好きの人種は離れ、今では閑古鳥が鳴いているという古い表現がしっくりくる。ここのコーヒーや食事はお世辞にも美味しいとは言えない。
ただ、フルーツのミックスジュースは美味しかった。美鈴はいつもあんバタートーストを一緒に頼んで朝ごはんにしていた。家のジュースもここのおばちゃんに教えてもらった物だが、何かが違う。ジュース作りには試行錯誤の美鈴であった。千晶はコーヒーと和風サンドイッチが定番で特にサンドイッチはお気に入りだった。コーヒーの味は何を飲んでも分からないから、ここのコーヒーで十分だった。
「あんた、ここのサンドイッチ好きやねぇ」
「うん。なんだか懐かしい味に似てるからね」
美鈴はトーストを頬張りカルティエの腕時計を見た。
「そろそろ、時間かな」
「えっもう行くの。もうちょっとゆっくりしようよ」
「違う、違う」
美鈴は携帯電話をテーブルの上に置いた。程なくして美鈴の携帯から着信音がなった。Mr・Childrenの《Sign》だ。
世代は違うが美鈴のお気に入りの曲だった。
「もしもし」
 美鈴が電話に出ると
「昨日、居酒屋でお会いした瀬利とし・・・いや、ひまじぃです」
電話口の声を聴いて美鈴は、千晶にOKサインを出した。
「昨日はどうもありがとう。楽しい一日だっ・・」
美鈴は歳三が喋り終える前に
「今から【華美】に来ない」
「華美?」
「あっゴメン。分からんよね。あたしん家の近くのカフェなんやけど住所は×××××」
 美鈴はだいたいの住所を告げた。
「今日、あたしと千晶は休みやけんさ、これから会って千晶と話してみて。それと誠二さんにも来てもらおうと思うから、あたしが呼んでおくね」
 歳三は誠二も来るのかと一瞬げんなりしたが、よく考えればあいつがいた方が話がスムーズに進むかもしれない。バカキャラが唯一、力を発揮する時だ。
美鈴が電話を切った後、すぐに千晶が不思議そうに問いかけた。
「ひまじぃって昨日、会った人だよね。なんで今からまた会うの」
美鈴はあんバタートーストをナイフで切り、口に入れるとミックスジュースで胃袋に流しこんだ。
「あんた、覚えてないの」
「うっすらとは覚えているんだけど」
「まぁ、うっすらでもいいや。とにかく、ひまじぃがあんたにいろいろ教えてくれんのよ」
 千晶は少しびっくりした顔で聞き返した。
「私に?何を?」
「一言で言うなら、あんたのメンタル面を鍛える。そんなとこやね」
「そんなことできるの」
「その質問は会ったら分かるって。それに半分はあんたが酔った勢いで頼んだんやけんね」
「えっ。そうなの」
驚いた素振りをみせた千晶だったが自分の酒癖は美鈴からいつも聞かされているので、なんとなく理解はした。

           *         

 歳三は自転車を公園近くの駐輪場に預けて、タクシーを使い【華美】へと向かった。自転車でも行ける距離だったが車中で考えたいことがあったからだ。千晶にメンタル面強化の話をしてやることを約束したが、現役バリバリのレーサー相手に、自分なんかが教えられることがあるのだろうか。歳三は自問自答していた。
頭の中でいろいろ考えながら目的地までの道のりを過ごした。十分程でタクシーは、【華美】へと到着した。考えは、まとまらなかったがとりあえず店に入ることにした。
 自動ドアが開き店内に入ると、一番奥の広いテーブルに美鈴を発見した。美鈴は今日も笑顔で迎えてくれた。ふっと見ると向かい側に黒のセミロングの髪。白のパーカーを着た女性が座っていた。千晶だった。
 そして美鈴の横に今日もアホ面の誠二。その横にはスーツを着た見知らぬ男が不機嫌そうに座っていた。歳三は千晶の横に座り
「昨日はどうも」と軽く会釈をした。
「ひまじぃ。久しぶりやな」
 誠二がアホ面で言った。誠二とは毎日のように会ってる。歳三はため息をついて特に何も突っ込みもせずに、美鈴を見ながら聞いた。
「こちらは?」
 なぜか誠二が答える。
「こいつはね。二宮雅紀。美鈴ちゃんの後援会の会長ばしよるったい」
 有名レーサーになると後援会やら応援団がいつのまにか発足することがある。美鈴の実力を考えれば当たり前かもしれない。
「二宮さんは物凄くいい人で、あたしの成績が振るわない時なんかに色々アドバイスをしてくれる人。あと応援幕なんかも作ってくれるんよ」
なる程それで千晶にもそういう人物が必要で、たまたま自分に頼んだ。歳三はそう理解した。
 歳三はスーツの男にとりあえず簡単な自己紹介をした。
「はじめまして。瀬利歳三といいます。みんな呼んでるので《ひまじぃ》と呼んで下さい」
歳三はスーツの男の反応を待った。だが特にリアクションはない。
誠二は二宮にきちんと挨拶をするように促したが、歳三は手でそれを制して
「いいよ誠二。とりあえず名前も分かったから」
「二宮雅紀です。年は五十八歳です」
 二宮はまるで箇条書きを読んでいるかのように、機械的な口調で簡単すぎる自己紹介をした。
 男は歳三の目を睨んでいる訳ではないが、目を逸らさずにそう答えた。二宮はスーツがよく似合うやせ型でメガネのインテリ系。どこにでもいるような男だが、歳三の第一印象は最悪だった。
美鈴ちゃんが重たい雰囲気を打開するかのように明るい声で
「それじゃあ全員揃ったんで始めようか」
(全員揃う?)意味は理解したが、歳三はその真意に違和感を感じたのは確かだった。千晶は終始キョトンとした顔でこのやりとりを見ていた。
 まずは美鈴が
「千晶は自分のことをよく分かってないだろうから、あたしが話すけん」
千晶はエンジン整備やペラ調整を含めた機械的要素は抜群らしい。また、直線のスピードも体重が軽い分かなり有利で他選手には負けない。スタート感も良く平均スタートタイミングは女子選手の中でトップテンに入る。ただ転覆を恐れないターンの度胸と技術。体重が軽い分当たりが強いと弾き飛ばされてしまこと。そしてレース前のメンタル的要素が勝率を悪くしている要因だった。
「技術的な部分はあたしも教えてるから少しづつ上達はしてるんやけど、実践ではまだ生かせてないみたい。あたし一人じゃ限界があるけんね。でも今度、福岡支部の男子レーサーにも協力頼んだけん、何とかなるんやないかな。ひまじぃは経験を生かしてメンタル面強化に力を貸して」
 歳三は小さく頷いた。歳三は自分ができることは限られているが、少しでも千晶に協力をしたかった。美鈴は誠二にも協力を仰いだ。
「誠二さんは、千晶の後援会を立ち上げてレースを盛り上げて」
「おう、それなら得意ばい。高校の時は応援団やったけんね」
 高校生の時に応援団とは誠二らしいエピソードだった。そのデカイ声で脅迫のように相手をビビらせていたのだろうと美鈴と歳三は目を合わせ小さく笑った。
「僕は千晶ちゃんのレースのデータを詳細に取るよ。データーも重要だからね」
 風貌から察して二宮らしい発言だと歳三は思った。さらに誠二が話を盛り上げた。
「よし、俺たちはこれからチームばい。二人がG1優勝戦で戦える舞台を作るばい」
千晶はこの状況に同調できていない様子だった。終始無言で話を聞いていたがうつむき加減でぼそっと呟いた。
「私、なんだか操り人形みたい」
その言葉に皆はっとした様子だったが歳三はなんとなく千晶の様子を観察していたので、その言葉に違和感を感じなかった。ただ、美鈴の熱意を感じるのも大切だと思ったから話を切らなかっただけだ。そんな千晶に歳三は言った
「たまには操り人形も楽しいもんだよ。その方が楽な時もあるんだ。人生には頑張らなくていい時があると思ってる。今回は操り人形で楽に過ごしてみないか」
 下を向いていた千晶だが、しばらくの間をおいて
「分かった。私もボートレーサーとして強くなってみたい。よろしくお願いします」
 すぐに返答が返ってきたので歳三は驚いていた。良い言い方をすれば素直だが幼稚な天邪鬼という表現もできるかもしれない。そしてそんな千晶に答えるように歳三は言った。
「自分の話は誰にでも当てはまるものではない。世間的には不正解なものばかりかもしれない。だからすべてを聞き入れるのではなく自分に合う言葉や、考え方をチョイスしていってほしい」
 千晶はその言葉を聞き笑顔で答えてくれた。
「なんだか少し気が楽になった。ありがとう」
 そんな笑顔を見て一番嬉しく思っていたのは美鈴だった。
「やっぱり良かったやろ。ひまじぃや誠二さん、二宮さんと出会って」
 その後、話が盛り上がり、時間はあっという間に過ぎ十三時を回っていた。
「今日は全員の歓迎会ということで、十八時に【アトリエ】に集合して晩御飯をみんなで食べよ。誠二さんの奢りで」
美鈴は舌をペロッと出して、笑顔で誠二を見た。
「よ、よかばい。まかせんしゃい」
「冗談、冗談。今日はあたし達もちゃんとお金出すけん」
「いや、俺が出すばい。メシ代くらい俺にまかせんね」
誠二は最高潮のニヤケ顔でそう宣言した。
「その代りその大きな胸ばちょことだけ、触らしてもらえんやろか」
誠二の手が美鈴の胸元へ行く前に、物凄いビンタが誠二の顔面をとらえ後ろの壁に激突した。
頭が壁にめり込んでいた。もちろんそんな事はないのだが、その表現が正しいくらいのビンタだった。みんな大爆笑をしていた。そして美鈴が何事もなかったかのように
「この変態はほっといて、十八時に【アトリエ】に集合ね」
「二宮さんも行くでしょ?」
二宮は鋭い目線で歳三を見ながら
「いや、僕はやめておく」と誘いを断った。美鈴は寂しげな表情を浮かべていた。
そして歳三と誠二は【華美】を後にした。歳三は身体的ダメージと精神的ダメージを、同時に食らった誠二を引きずるようにタクシーに乗り込んだ。

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