【小説】水上リフレクション3

第三章 【天神の街とヘンテコ双眼鏡】

 歳三は今年で六十二歳になる。ひまじぃと呼ばれ、もう高齢化社会の中枢を担う歳になった。生まれは東京だが、両親の離婚を期に母方の実家がある福岡博多へ移住した。高校生の歳三は標準語を喋ることで、みんなに格好をつけていた。今では、ありえないだろうが当時は都会から来た転校生としてチヤホヤされるされることも多かった。そんな経緯もあり移り住んで、四十年以上経つが、博多弁に馴染めないでいる。
 五年前に勤めていた会社を辞め暇なおじさんと化す。六年前に父が他界し、わずかながらも生命保険の金が転がりこんできたからだ。親父とは三十年以上、会っていなかった。母と親父が離婚したのは俺が高校一年生の時。原因は借金・浮気・お酒。三拍子そろった典型的なダメ親父だった。
 その後は、母が女でひとつで歳三とまだ小さい弟を育ててくれた。《死ぬ気で働く》というフレーズがあるが、母はそれを地で行った。二十四時間といっても過言ではないくらい、母が働いていたのを歳三は覚えていた。
 歳三はその当時、親父を憎んだが会わない時間が長くなり、自分も大人になるにつれその感情も薄れていった。
母は常に笑顔だった。歳三たち兄弟に心配にかけまいと疲れている時でも明るく振舞っていた。歳三はそのことを知りながら親孝行らしいことはしていない。だが感謝していた。歳三にとっては世界一の母親だ。
その父親が亡くなったと役所から連絡があり亡骸を引き取りに行った。その際に保険金の話を聞いた。あの親父が歳三の受け取り名義で保険をかけていたのだ。歳三は親父の生活状況はあえて聞かなかった。自分自身と重ねて悲しくなりそうだったからだ。
ただ親父の痩せこけた顔を、棺桶ごしに見た時には涙が溢れ出た。そして親父は歳三にそっくりだった。血の繋がりは消せないとその時感じた。
この歳三という名前は親父がつけたらしい。ただ単にテレビでやっていた新撰組、土方歳三の特集をを見ながら付けたらしい。安易すぎる親父の命名だった。そんな天国の親父に歳三は小さく《ありがとう》と呟いた。
 今では親父と変わらないかもしれないと歳三は思っていた。
 朝、図書館に行き新聞を読む。
 心の中で、社会情勢にいちゃもんをつける。
 昼、競艇場へ行きスポーツ観戦をする。
 心の中で、予想して勝負している気分になる。
 夜、一人で晩酌をして寝る。
 心の中で、明日はなにか刺激的なことが起こるように祈ってみる。
 そんな毎日の決まったルーティーンで生活リズムはよい・・・・ことにしている。
 そして、今日も人畜無害な暇なおじさんとして生息している。          

 歳三と誠二は例の女の子二人が入った居酒屋の待合席にいた。
「おい誠二、俺たち場違いだぞ。若い奴ばっかりじゃねぇか」
誠二はさっきの女の子たちを想像してか、かなりのにやけ面だ。
誠二はまったく歳三の話を聞いていない。席の横にパンフレットが置いてあったが歳三には店の名前すら横文字で読めない。
「やっぱり中洲にし・・・」
そう歳三が言いかけた時に店員に呼ばれた。やけに早く感じたがそんなことはどうでもよかった。歳三は案内される間も、少し回りを見回したが誠二のような小汚いオヤジはいない。しばらく歩くと小洒落た小部屋のような場所へ連れていかれた。
「お客様の大切な夜のひとときに、当店をお選びいただき誠にありがとうございます。本日のお部屋はこちら(ボヌール)をご用意いたしました。ご注文がお決まりになりました頃、お伺いいたします。それではごゆっくりお楽しみ下さい」
若くて素晴らしく美人な店員がやけに丁寧にあいさつをした。
歳三たちが行く一杯飲み屋とは訳が違う。
 歳三は店員がさった後、恐る恐るメニュー表を眺めていた。誠二はテーブルに座るなり、いきなりチャイムで店員を呼んだ。
「お待たせ致しました。ご注文をお伺い致します」
誠二はニヤニヤしながら美人な店員さんを凝視していた。
「いやぁ今日はお姉さんに会いに来たとよ。この前来た時にすごい感じが良かっけん、また来てしまったばい」
美人な店員さんは満面の笑みを浮かべて、誠二のバカな言葉に付き合ってくれた。
「ありがとうございます。以前ご来店された時のことはよく覚えております」
 誠二はそれを聞いてえびす顔だ。歳三は誠二を静止しようとした。だが誠二の言動は早く、すかさず店員に話しかけた。
「ボヌールってどげな意味?全然分からんとばってんが」
美人な店員さんは笑顔で答えた。
「ボヌールとはフランス語で【幸福】という意味でございます。当店では各部屋に世界各国の【幸福】を意味する言葉をお部屋の名前として付けております。因みに横のお部屋【フェリチタ】はイタリア語でございます」
「へぇ、なかなか洒落たこと考えるったいね」
誠二はまだお喋りを楽しもうとしていたようだが、歳三は店員に気を遣いテーブルの下で誠二の足を蹴り飛ばした。
「痛てっ。何ばするとか」
 いいから早く注文しろと歳三は目で合図を送った。誠二もその空気を察したのかやっと注文を始めた。
「そしたらね、俺は芋焼酎のロックと明太サラダ。それとティラミスのアイスば持ってきて」
 歳三は肘をついて顔を隠した。
「お前はビールでよかろう」
「それでお願いします」
「かしこまりました。ではすぐにお持ちいたします」
歳三はすべてが恥ずかしかった。
 こんな洒落た店に二人のおっさん。
 誠二の教養のないしゃべり方とエロ目線。
 誠二の首から下げてるヘンテコ双眼鏡。
 そしていきなり芋焼酎。
 歳三は誠二に呆れた様子で言った。
「お前さぁ恥ずかしくない?」
 誠二はキョトンした顔で「何が?」と答えた。歳三は誠二の顔を見てこれ以上言うのは止めることにした。言っても無駄だと理解したからだ。
「気にするな。それより明太サラダって上手いのか?適当に頼んだだろ」
誠二は愛飲しているゴールデンバットに火をつけふっと煙を吐き出した。
「さっき待合室でチラシば見よったら、えらい美味そうやったけん注文してみたったい」
誠二がサラダとは健康にでも気を使い出したのか。それとも小洒落た店に合わせてバカな脳みそで、考えてオーダーしたのか。そんなことを考えながら歳三はこの店でメシを食う覚悟をした。
「おいメニュー表、貸してくれ」
 と歳三は手を出したのだが。誠二は目を細めてそっぽを向いている。歳三は何事かと誠二と同じ方向を確認した。「あれっ」歳三はつい目を奪われた。
「ひまじぃ、あれば見てん。多分さっきの子たちばい」
誠二はあのヘンテコ双眼鏡で女の子達を観察し出した。歳三は小声で怒鳴った。
「おい、やめろ!」
誠二もさすがにマズイと思ったのか、双眼鏡を手から放した。首からぶら下がる双眼鏡が揺れていた。なんともバカな光景だ。だが歳三も確信していた。茶髪の子に白いロングスカートの子、おそらく間違いない。そして誠二は案の定
「よっしゃあ。あの娘たちが横の席におるなんて、この店に来た甲斐があったばい」
 女の子達を前に誠二はテンションMAXになっていた。そして誠二はおもむろにすっと立ち上がった。
「おい、どうしたんだよ」
誠二の立ち姿を見て歳三は嫌な予感がした。

          *

 千晶と美鈴はお酒と食事を楽しんでいた。
「ねぇ千晶、今年はどこのレースの斡旋を受けとーと?」
美鈴は二杯目のビールを飲みながら、オーダーした生春巻きを頬張っていた。千晶はマンゴーラッシーにリキュールを加えたいつものオリジナルカクテルを飲みながら答えた。
「とりあえず今度は若松の新鋭レディース。十一月は平和島の一般競争と宮島のビーナスシリーズだったかな」
 千晶は少しずり下がった、かわいい靴下を直しながら思い出したように言った。
「それと十二月は福岡の周年記念があった」
美鈴はそれを聞いて目を丸くした。大きな目がさらに大きくなっていた。
「千晶すごいやん。周年記念っていったらG1よ。あたしも斡旋を受けとうけん一緒に出よ」
G1の舞台に二人で立つのはプロになって以来、初めてだ。美鈴はあまりの喜びにビールを一気に飲み干した。
しかし、千晶は明太サラダを食べながら浮かない顔をしていた。これは異例のことであった。地元の人気選手というだけで実力で斡旋を受けた訳ではない。
「でも実力じゃなくて人気投票で選ばれた訳だし。それに回りは上手い人ばっかりだから、なんか怖いな」
「転覆でも心配とうと?。大丈夫よ千晶やったら」
しかし、その言葉は千晶の胸には響かなかった。私だから大丈夫じゃない・・・そう思っていたからだ。それは美鈴も分かってるはず。励まされてるはずが逆に虚しい気持ちになった。
「何かあったら、あたしが守ってやるけん」
しかし美鈴の言葉に力はなかった。ボートレースは個人競技。守ってやるなんてことはできない。すべては自己責任だ。美鈴が発した言葉は一緒に出場したいと思う気持ちを、反映した優しい嘘だった。
「でもファンの人たちに恥ずかしくない走りができるかな」
 美鈴が返答をしようとした時、横から大きな声が聞こえた。驚いて目をまん丸くする千晶と美鈴。
その声の主は見たこともないおじさんだった。
「絶対、できるばい!自分ば信用せんね」
男は隣の席から、すでに二人の席の目の前まで来ていた。そして聞こえた会話に思わず励ましの言葉を言い放ってしまったのだ。美鈴が恐る恐る当然の質問を男に投げかけた。 
「あの~どちら様ですか?」
 男は一瞬、はっとしたが、すぐさま顔を少し赤らめながら兵隊のように背筋を伸ばした。
「すいまっしぇん。失礼ばしました。話が聞こえたもんでつい。わたくし、永松誠二という者で決して怪しい者ではありません」
 この常套句がますます怪しさを増していることに、本人は気づいていない。誰が見ても怪しいに決まっている。美鈴が続けて聞いた。
「それはいいんですけど、永松さんでしたっけ? すいません私たち食事を楽しんでるんで邪魔しないでもらえますか。席はお隣みたいですよ」
美鈴は隣の席を指さし誠二に早く立ち去るよう優しく促した。そしてその指の先にいたのが歳三だった。誠二を静止しようとしたのだが間に合わず遅れてやってきた間抜けな男だ。歳三は誠二の腕をつかんで、げんこつをかましてやった。
「痛っ!」
「早く戻るぞ」
歳三は恥ずかしく、どうしていいか分からくなっていた。とにかくこのバカを連れ戻すことだけを考えていた。歳三はあまりにも非常識な誠二の腕を掴み引き寄せた。しかし誠二は歳三に構わず、目の前の女性二人に問いかけた。
「間違うとったら、すいません。もしかして、あんたたちはボートレーサーの中原千晶さんと黒木美鈴さんじゃないでしょうか?」
千晶と美鈴はびっくりして、シンクロするように顔を見合わせた。千晶は不思議そうにその男を見ながら
「そうですけど。ボートレースのファンの方たちですか?」
「そうです。開催がある日は毎日、見に行きよります」
美鈴はふっと目に入った双眼鏡を、ニヤニヤしながら眺めていた。双眼鏡には白のマジックで《ボートレース必勝》の文字とマスコットの《ていちゃん》のステッカーが貼られていたからだ。
そして誠二は非常識この上ない言葉を何の躊躇いもなく言った。
「もしよかったら一緒に飲んでもらえんでしょうか」
歳三はあっけにとられていた。二人の女性たちも同じだった。表情がそれを物語っていた。そして美鈴が不思議そうに言った。
「でも、よく私たちのこと分かりましたね。ファンの方でも、よほど有名にならないと、顔まで覚えてもらえないんですけどね」
「それなら、問題ありません。いつもこうして選手名鑑ば持っとりますけん。たいがいの選手は覚えとります」
そう言いながら誠二は、小汚いセカンドバックから選手名鑑を取り出し満面の笑みを浮かべた。選手名鑑だけではない。誠二の双眼鏡も二人を確認するのに役に立ったのだ。
「それに、わたくしは千晶ちゃんと美鈴ちゃんの大ファンやから、間違うはずなかとです」
 誠二は自信満々の表情だった。
「こんなチャンスは滅多になかです。金閣寺の舞台から飛び降りる気持ちで声ばかけさせてもらいました」
千晶は口に手をあてクスクスと笑っていた。
「それを言うなら金閣寺じゃなくて清水の舞台ですね。それにその選手名鑑はプロ野球のみたいですけど」
誠二は、はっとした顔をしてプロ野球の選手名鑑を自分の眼前まで近づけた。そして恥ずかしそうに慌ててバックにしまった。
「すいません。間違ごうた」と頭をぽんっと叩いた。
「でも偶然ですね。隣の席に熱烈な私たちのファンがいらっしゃるなんて。このお店はよく利用しますけど初めてです」
「それが、あながち偶然じゃなかとです。実はさっき店の前で見たとですよ」
 誠二は鼻の下を伸ばし、表情を緩めながら続けた。
「顔は分からんかったばってん、今思いかえしたら美鈴ちゃんが千晶ちゃんのオッパイば触りよったでしょう。それば見てこの店に入ったとですよ」
それを聞いて千晶の丸い顔がリンゴのように赤くなった。そしてすぐさま口を膨らませて美鈴を睨みつけた。美鈴は、ばつが悪そうに千晶から目を背けたが、笑いをこらえるのが精一杯だった。歳三はそんな三人のやりとりを後ろで、あっけにとられながら聞いていた。すると話は思いもよらぬ展開へと発展していった。
「このおじさんたちと飲んでもいいんやない。悪い人じゃなさそうやし」
「でも」千晶はうつむき加減で考えていた。
「このおじさん、面白いしさぁ。それに、ほら後ろのおじさんは真面目そうやし」
美鈴の提案を千晶は渋っていた。普通はそうなる。渋っている様子の千晶を見て、美鈴の後押しをするかのように誠二が言った。
「分っかりました。今日はわたくし永松誠二が奢ります」
誠二の宣言に歳三は、すぐさま手を引っ張っり後ろを向かせた。歳三も彼女たちと目が合わぬよう同じように後ろを向いて、誠二の耳元で怒りを抑えながら呟くように怒鳴った。
「バカ!お前なちゅう失礼なことを言ってるんだ。恥ずかしくないのか。彼女達が俺たちオヤジと飲む訳ないだろ。早く謝ってこい!」
 だが誠二はそしらぬ顔だ
「それは、分からんばい。こげなチャンス滅多になかとぞ。お前こそよう考えろ」
歳三は本当に頭にきた。誠二の耳をひっぱり歯ぎしりをするような口調で小さく怒鳴った。
「誠二、てめぇ奢るとかぬかしよったけど、誰が金出すんだ。俺だろうが。ふざけるのもいいかげんにしろ!」
その時、誠二の右手がまた広がろうとしていたことに気づいた。だが歳三は怯まない。二人がもぞもぞしている最中、美鈴が二人に声をかけた。
「揉めるのはそれぐらいして、こっちへどうぞ。奢ってくれるんでしょ」
「ちょっと美鈴」
千晶は少し困り顔だったが、美鈴の性格からしてこうなるだろうと多少は予測していた。
「たまにはいいじゃない。それにファンは大事にしとかんとね」
千晶は美鈴の言葉に反論できずに、頷くしかなかった。
そして誠二が歳三を振り払いそそくさと彼女らに近づき
「いやぁ美鈴ちゃんありがとね。それでは千晶ちゃんは美鈴ちゃんの方へ」
 と千晶をエスコートし美鈴の横に座らせた。自分は彼女らの向い
の奥に陣取った。
「おい、ひまじぃ。早よ座らんか」
 と言って横のサブトンを左手でポンポンと叩いた。歳三はこの場の雰囲気を壊さぬよう仕方なく座ることにした。
顔を上げるとそこにはまぎれもないボートレーサーの中原千晶と黒木美鈴がいた。いつも観覧席で見ている二人だった。歳三は芸能人にでもあったかのように胸がドキドキしていた。そして二人を真正面から近距離で見るのは当然初めてだったが正直こんなに二人ともかわいいとは思っていなかった。
美鈴は茶色の綺麗な髪に目が大きくて今風の女性。そして誰もが頷ける人気レーサーの千晶は清楚で優しそうな女性だった。
誠二は千晶の食べかけの明太サラダと、マンゴーラッシーのリキュールをいやらしい目で眺めていた。歳三は後ろから後頭部おもいきりを叩いた。六十を超えたじじぃのやることじゃない。歳三は苦笑いをしながら、サラダとドリンクを千晶の方にそっと戻した。
しかし、これからこの四人で何を話すのだろう。もちろんボートレースの話だろうがまったく先が見えない。ただ不安の先には嬉しさもあったのは事実だっつた。
もう、こうなってしまった以上、彼女たちと楽しく飲もうと歳三は決意を固めた。
 誠二がテーブルのチャイムを押した。そしてすぐさま店員がやってきた。今度はイケメンの男性店員だった。
「おにぃちゃんね、俺たちはあっちのボ・・何とかっていう部屋におったとばってん、こっちに移動したけん。向こうで頼んだもんをこっちに持ってきて」
 男性店員は嫌な顔ひとつせず笑顔で答えた。
「かしこまりました。それではボヌールでご注文の品をこちらフェリチタにお持ちいたします。他にご注文はありませんか?」
美鈴が元気よく手を挙げた。程よく酔いが回っているらしい。
「私、ジントニック。千晶は?」
 千晶は誠二の奢りと聞いて少し気を使ってるようだった。誠二がそんな千晶を見て、何でも好きなものを頼むように威張って促した。誠二の奴は歳三の金だと思って言いたい放題だった。だがそれを責めることはもう手遅れだと歳三は諦めていた。
「ここは自分の好きな酒ば作れるっちゃろ?なんでも好きなのを作ればよかやんね」
そんな会話をしているうちに歳三と誠二ががオーダーしたものが運ばれてきた。あの美人な店員さんが持ってきたのだが、男性店員が何事もなかったかのようにスマートにそのトレーを受け取った。
「大変お待たせいたしました。こちらが生ビールでございます」
歳三はそのグラスを受け取った。
「こちらが芋焼酎のロックでございます」
 誠二は、がさつにそれを受け取ると一気に飲み干した。千晶と美鈴は唖然としていたが歳三は驚かなかった。いつものことだからだ。
「これをもう一杯。できればジョッキがよかねぇ」
 こんな洒落た店でそんなことできる訳がない。本当に恥ずかしいやつだと歳三は思ったが店員の反応は違っていた。
「かしこまりました。ロックでよろしいですか?」
「ロックでよかばい」
たいていの店は(申し訳ございません)と対応するのだが、そんなオーダーにも応じてくれるとは歳三には少し驚きだった。ただこの店は自分のオリジナルカクテルを作れる【お酒のアトリエ】らしいので納得の部分もあった。
しかし難点は店員に聞かないかぎり、オリジナルカクテルを作ると会計時しか値段が分からないシステムだ。それが歳三の財布を震わせていた。
「千晶、早く頼みなよ。この際だからなんか違うの注文してみたら」
 千晶は、まだ打ち解けていない様子だった。それが当たり前だ。誠二と美鈴のように、この短時間で社交的な態度をとれるはずもない。煮え切らない千晶を見て、美鈴がイケメン店員に注文した。
「ヤクルトとオロナミンC。アルコールはドーバースピリッツで」
「ちょっと美鈴、そんなの飲めないって。それになんとかスピリッツって何?」
「ウオッカの一種よ。ちょっと度数が高いけど果実系に合わせると結構いけるから」
「そんなのさらに飲めないよ!さらに果実系じゃないし・・・」
そして美鈴は千晶の言葉など気にせずに躊躇なく続けた。
「それと真鯛のカルパッチョと佐賀牛の和風ステーキ、あと伊勢海老のシーフードピザ」
 美鈴は何の遠慮もなく値の張るものばかりをオーダーした。それは美鈴のキャラの成せる技だった
「ねぇおじさん・・・いい?」
 それでも美鈴は少しは気を使っているように、歳三には見えた。しかし美鈴の声色は誠二の心に火を着けた。
「よっ・・よかばい」
誠二は今日、最高潮のニヤケ顔で即答した。歳三の顔をチラっと見たが歳三は無視した。
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
男性店員がさった後、千晶が美鈴に言った。
「ねぇあんなの私飲めないよ。それに美味しくなさそうだし」
この店はオリジナルカクテルを作ってくれるが、味に関しては自己責任らしい。
「大丈夫やって、あたしが選んだんやから絶対、美味しいって」
根拠のない自信を口にした美鈴あったが、なんとなく千晶もそれを楽しんでる雰囲気だった。この二人はかなり仲の良い親友なんだな歳三は微笑んだ。そして美鈴は
「それより、永松さんでしたっけ」
「仲良くなったんやけん、誠二さんでよかばい」
もう仲良くなったと勘違いした、誠二の単細胞に歳三は呆れ顔を見せた。そして歳三は思った。誠二の頭の中にはプリンでも入っているのだろうかと。
「連れの方のお名前は」
 そう言うと美鈴は繁々と歳三を見ていた。
「俺は瀬利とし・・」
 自己紹介をしようとしたが歳三だったが誠二が横から、しゃしゃり出てきた。
「こいつは〈ひまじぃ〉っていうとです」
「ひまじぃ?」
 千晶と美鈴は二人でハモるように聞き返してきた。
「話せば長くなるとばってん、暇なおじさんやから〈ひまじぃ〉面白かろ」
 全然、長くなる話じゃないし簡潔に答えている。百点だ。
「それは勝ってに誠二が呼んでるだけで名前は瀬利とし・・」
今度は美鈴に言葉を阻まれた。
「ひまじぃさんね。了解!」
 美鈴は敬礼ポーズをとって笑っていた。もう一度〈歳三〉という名前を披露しようと思ったが歳三は止めることにした。ここは若い子たちのノリについていこうと諦めたからだ。しかしひとつ気になる点があった。
「〈ひまじぃ〉でいいんだけど、さんづけはちょっと」
「何で?」
 と誠二がすっとんきょな顔で歳三に聞いてた。
「だってお前〈ひまじぃさん〉じゃ、どっかの日向ぼっこしてる、じぃさんみたいじゃねぇか」
千晶が笑いながら歳三を見て少し申し訳なさそうに言った。
「それもそうですね。でも年上の方だし呼び捨てはちょっと」
「いいよ。逆にさんづけされると気持ち悪いから」
千晶のあどけない笑顔に負けた六十二歳のオヤジがここにいた。
 それから歳三や誠二のボートレース通いの話や、千晶たちのやまと学校時代の話。そしてレース展開やエンジン整備の話や、レース場の串カツ屋のおばちゃんの話などで盛り上がった。
ただ、ボートレースは公営ギャンブルなので一般の人に話せないこともあるらしい。その辺は歳三も誠二も分かっていたので配慮した。その間にさっきオーダーした品が続々と運ばれてきた。追加注文もガンガンして全員ほろ酔い気分で楽しく会話が弾んだ。
 さっき美鈴が注文した、得体の知れないカクテルは、かなり美味かったらしく千晶は同じ物を二杯も注文していた。
それから千晶の成績の話になった。そのことはあまり触れないでおこうと思った歳三だが、美鈴の方から切り出してきた。
「千晶の走りを観客席で見よってどう思う」
歳三と誠二は回答に困った。そんな二人を見て千晶が口を開いた。千晶は元々お酒が弱いらしくカクテル三杯でだいぶ酔っていた。
「今日の私のレース見て、どう思ったのよ。ビリだったの知ってるでしょ」
 千晶は酔うと人が変わる。
「あのレースはスタート直前に、レバーを緩めたやろ。あそこでフライングば恐れずにスタート切っとたら絶対、捲られとらんばい。あと転覆ば恐れんでターンに磨きをかけることやね。素人視点ばってん千晶ちゃんは技量ではG1級の選手ばい。それを自分が転覆して他の人を巻き込んでしまうとか、勝たな舟券買っとう人に申し訳ないとか、余計なこと考えるけんプレッツシャーになるとよ。ばってん誰にでもプレッシャーはある。それば克服せないかんね」
いつになく誠二は真面目に、千晶の目を見ながら語った。あまりにも真剣な口調だったので歳三には台詞のようにも聞こえた。誠二の意外な一面を歳三は知った。
「誠二さん、凄いね。いつもあたしが言ってることやん」
そう美鈴が言うとそこへ割り込むように千晶が、真っ赤な顔でテーブルを叩いた。
「どこかで聞いたことあると思ったけど、美鈴の受け売りじゃん。そんなことは分かってんのよ!だから、どうすれば克服できるかって聞いてんのよ!ひまじぃ!」
 いきなり振られた歳三は口ごもってしまった。そこに助け舟を出したのは誠二だった。
「そのメンタル的なことはここにおる、ひまじぃに任せてみんね」
「どういうことよ!ひまじぃ!」
 歳三は酔っぱらった千晶に詰め寄られた。とりあえず返す言葉がなかったので、歳三は誠二の太ももをつねってやった。
「痛って!」
「どうかした?誠二さん」
 美鈴は状況を把握していたみたいだが、あえてその言葉を口にした。顔が半分笑っていた。
「いや、何でもなか」
千晶は歳三と誠二を交互に睨みながら、早く続きを話すように催促した。
その空気を察知して誠二は言った。
「いやね、ここにおるひまじぃは以前、仕事でそういう講習とかばしよったったい」
 誠二は早く話すように左肘で歳三をつついた。歳三は何でこんな話の展開になったのか考える暇はなかった。千晶の目がそれを許さなかったからだ。
「まぁなんというか、人の受け売りだけど《仕事は能力のあるなしはあんまり関係ない。大事なのは熱意と考え方だ》みたいなことをちょこっと会社に頼まれて、新入社員や既存の社員にレクチャーしてた。そんな感じかな」
 歳三は頭を掻きながらそう答えた。
「そうそう、ひまじぃは昔、何店舗も飲食店ば経営しよる会社で働きよった。その中で何店舗か店長をして全部の店で売り上げば伸ばしてきたらしいばい」
「お前、よくそのこと知ってんな?」
「だいぶ前に、お前が酔っぱっらて話たやないか」
 歳三は誠二との付き合いは長くはないが、今では何でも話せる幼馴染のような感覚だった。美鈴は頷いて
「そうなんや。ひまじぃって凄いんやね」そして千晶が割り込む。
「それがどうしたのよ!私の成績を上げるのと、どう関係すんのよ!」
清楚な千晶の面影はもうなくなっていた。完全に酔った状態でまた歳三に絡んだ。
「俺たちはファンとして千晶ちゃんに勝ってもらいたいとよ。美鈴ちゃんとSGで一緒に戦いよる姿やら最高やん。俺たちは技術的な面では何もしてやれんけど、メンタル面ならこのひまじぃが力になるけん」
 誠二は少し熱く語った。
「そこまで言うなら私を強くしてみせなさいよ!明日からあんたのへっぽこレクチャーを受けてやろうじゃないの!」
それを最後の言葉に千晶は深い眠りについた。
 歳三は頭を抱えた。また展開があらぬ方向へ行ってしまっている。
 ただ歳三にそれを止める力はなかった。
 ノリノリの美鈴。酔っぱらった千晶。何でも勝手に決めてしまう誠二。

「ひまじぃってどうやって会社で成績残すことができたの?」
「どうやってと言われても分からないけど、ちょっとした信念はあったかな」
「新年?《明けましておめでとうございます》のことや?」
歳三は誠二のデコに思いっきり平手打ちをかましてやった。そんな光景を見ながら美鈴が話を続けるよう目で催促してきた。今日出会ったばかりなのに、何故そんなに興味を示すのだろうかと歳三は思った。しかし場の雰囲気上、話すしかない状況だったが歳三は話すことはしなかった。話が長くなる上にたいしたことではないと思ったからだ。
 しかしもし千晶の力になれるのであれば、これまでの経験が役に立つかもしれないし技術面以外でアドバイスできることはあるかも知れないとふっと思っていた。その雰囲気を悟ったのか美鈴は
「ねぇひまじぃ。今日出会ったのも何かの縁やからさ、千晶に協力してくんない。千晶も酔った勢いとはいえ、あんな風に言ってたんやから」
煽てられるのが得意な歳三は、まんざらでもない態度をとってしまっていた。
「よし!決まりやな。頼むばい」
「それじゃあ」
 と言って美鈴は用意していたかのように、歳三に紙切れを渡した。
 それには千晶と美鈴の連絡先が書いてあった。そして美鈴は明日にで連絡するように言った。明日とはなんとも気が早すぎると歳三は少し困惑するような表情を浮かべた。それを察知した美鈴は
「だって二週間後には、あたしは滋賀のびわこ、千晶は北九州の若松よ。だから、早いほうがいいって」
歳三はこの早い展開に少し面食らっていた。世の中、何が起こるか本当に分からない。
この状況の中、千晶は横になって気持ちよさそうに寝ていた。
「ちょっとトイレに行ってくるわ」
歳三は敷居の下に用意された高級なスリッパを履いて、トイレに向かった。そしてトイレで用をたそうとした時、急に後ろから誰かが歳三の腕を掴んだ。誠二だった。
「ひまじぃ・・・」
 誠二が要件を言う前に歳三は財布を出した。
「金だろ。今日はお前の奢りだもんな。ほらこれ、財布に入れとけ」
歳三は現金五万円を誠二に渡した。(必ず返せよ)と言いかけたがやめた。なんとなく今日は気分が良かったからだ。
「すまんなぁ。必ず返すけん」
誠二は現金を財布にしまいトイレから出て、そそくさと席に戻っていった。
 歳三が席に戻ると美鈴と誠二は帰り支度をしていた。
「千晶、さぁ帰るよ。早く起きて」
「う・うぅん」
そして四人は会計を済ますためレジに向かった。
「本日のご来店、誠にありがとうございます。お会計は三万八千五百六十円となっております。ご一緒の清算で宜しいでしょうか」
「よかばい」
誠二は自慢げにポケットから、あの小汚い財布を出して言った。
今日だけはそんな誠二がかわいく歳三の目に映った。そして清算を済ませて
「それじゃ帰えるばい」と誠二が先頭で店を出た。
続いて少し酔いが覚めてきた千晶。そして歳三が店を出た。

「もう誠二さんったらこんな物、落として。バレたら二人で半年かけた計画が台無しやない!これからが勝負なのに何やってんのよ!」
 美鈴は小声で独り言を言うと、誠二がポケットから落とした紙切れをバックにしまい少し遅れて店を出た。

 外は雨が降っていた。秋の長雨とか言うが、今日は久しぶりの雨だった。十月にしては台風接近の脅威もあまりなかった。ここ福岡はこの時期、台風が連発して来ることもあり、雨が多い時期なのだが、今年は例年になく少なかった。
傘を持たない四人は店の置き傘を借りて外に出た。
「二人ともタクシーで送って行こうか」
当然だが歳三に変な下心はない。夜中に女性、二人というのが心配だったからだ。
「いや、大丈夫。いつも地元に帰ってきたら、千晶はあたしのマンションに泊まるから。それにすぐ近くやし」
「分かった。今日はありがとう。久しぶりに楽しい酒が飲めて嬉しかったよ」
「あの約束忘れないでよ」
 美鈴は念を押すように歳三に言った。
「あぁ」
「それじゃあ、おやすみなさい」
二人は天神のネオンの中を歩いて帰って行った。
「また会う日を楽しみにしとるばい」
 誠二のバカでかい声が夜の天神の街に響き渡った。
 美鈴は笑顔で答えていた。そして歳三と誠二もそれぞれタクシーに乗り帰途につくことにした。
タクシーに乗り込んだ誠二が開いたドアが閉まる前に
「今日は楽しかったばい。またあの子たちに会えると思うと夜も眠れんばい」
「お前は会えるかどうか、分からんだろ」
「バカ、ひまじぃが会うちゅうことは、俺も一緒ばい。一心同体やけんね」
 歳三はすぐさま思いっきりドアを閉めた。
「運転手さん、行って下さい」
その時、誠二のヘンテコ双眼鏡の紐が、ドアに挟まり双眼鏡を外にブラブラさせながらタクシーは走って行った。後ろから誠二がドアに顔をひきつけられるようにして、右往左往している姿が歳三をさらにいい気分にさせた。そして歳三は大爆笑していた。歳三は天神の夜も悪くないと年甲斐もなく感傷に浸っていた。星は見えないが降り続く雨の音が心地よく歳三は癒される気分だった。

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