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【小説】水上リフレクション1

《女子ボートレーサーと奇妙なおじさん達との物語。中原千晶をトップレーサーにする!その夢を追いかけて、いつも暇だったおじさん達は生きがいを見つけ奮闘する。しかし中原千晶はボートレーサーとしては致命的な不運を抱えていた。そして1つの出会いや様々な思惑が交差し、運命の歯車は掛け違いをおこし破滅へと向かおうとしていた・・・。》

第0章【救命胴衣とスローモーション】

中原千晶は真冬の水中にいた。

職業柄それには慣れているはずだった。しかしこんなに暗い水底を視界が捉えたのは初ての経験だった。

十二月の水中は、肌に突き刺さるほど凍てつく空間だ。しかし千晶にはそれを感じ取る程の痛覚は残されていなかった。
 
しばらくして、うつ伏せになっていた体が、仰向けになるのが分かった。レース用の救命胴衣のおかげだ。

今度はキラキラ光る水面が眼前に迫ってきた。夕日が水中に差し込み艇底の影を綺麗に映し出している。

そして視界が捉えたのは、辺り一面インクを撒き散らしたように、赤く染まった世界だった。不思議と痛みは感じなかった。

しかし、まったく動かすことのできない体は、今までに感じたことのない速度で千晶に異常を知らせていた。

そのまま水の流れに体を委ね、スローモーションのように時が流れる中、千晶は冷静に混乱を整理しようとした。

だが千晶の脳はそれを拒否した。睡魔にも似た不思議な感覚がすべてを支配していたからだ。その感覚が千晶の思考をストップさせた。

瞬間的に自分の未来を受け入れたつもりだったが、諦めの悪いもう一人の自分はそれを拒み抗い続けようとしていた。

千晶の必死な願望の先には父親の影があった。必ずお父さんが助けてくれる。父にその希望を託し千晶は意識を失っていった。   

第一章【アトリエと明太サラダ】
 
 先頭で2号艇ゴールイン、続いて5号艇ゴールイン、3号艇、6号艇、4号艇ゴールイン、最後尾1号艇ゴールイン。以上、全艇ゴールインしました。

 中原千晶は罵声と怒号の中、夕暮れの水上をピットへと戻って行った。
ピットへと戻った中原千晶に黒木美鈴が駆け寄ってきた。
「千晶、元気出しなよ」
「美鈴はいいよね。運動神経抜群で女子レーサーのトップだし。私なんていつも負けてばっかりで、食べてくのがやっとだよ」
 黒木美鈴は中原千晶のボートからエンジンを取り外していた。
「何言ってんのよ。あんたは人気ランキングで常に上位の美人レーサーやん」
 千晶は(ありがとう)と一瞬、言いかけたが止めた。人気よりも実力が欲しかったからだ。うつむき加減の千晶が笑顔の美鈴を見て問いた出した。
「それ褒めてるの。私は芸能人じゃないんだよ」
「まぁそう怒らないの。今日は最終日だし、あたしが焼肉を奢っちゃるけん」
 美鈴は綺麗な茶髪の髪を後ろで結び直しながら、笑顔ではぐらかした。
「いつもそうやって誤魔化すんだから」
 剥れる千晶をよそに美鈴はレース後の後片づけに走っていった。
                                  
「千晶、ここにしよ」
「いつもの居酒屋じゃん。今日は違うとこにしようよ」
二人のご贔屓の居酒屋〈Atelier〉である。お酒の好きな美鈴はこの店が大好きだった。お気に入りの理由は、ここはお客が自由な発想でお酒をミックスすることができ、オリジナルのカクテルが作れる。そういう意味をこめてお店の名前がお酒の【アトリエ】らしい。
千晶はお酒はたしなむ程度だが、ここではいつもマンゴーラッシーにリキュールを混ぜたカクテルを作って飲んでいた。美鈴に言わせると甘ったるくてお酒じゃないと言われるが、千晶は大好きだった。二人は地元福岡に帰るとレース後、反省会も含めよくここで食事をした。
 この居酒屋に行きたい美鈴が反論した。
「だって今日はここの明太サラダが食べたいんやもん」
「好きなのは知ってるけど、毎回ここじゃん」
二人は居酒屋の看板の前で楽しげに揉めていた。
「美鈴さぁ今日は焼肉を奢ってくれるって言ったよね」
「いつ?」
「さっき私のレースが終わった後」
千晶は河豚のような顔で美鈴を睨んだ。
「そうやったけ?忘れた」
「またそうやって誤魔化すんだから。いくら私が能天気だからっていつも優しい顔してないよ。ちゃんと約束は守ってよね」
美鈴お得意のおちゃらけ戦術に翻弄される千晶だった。しかし、いつものこの会話が成績不振に終わったレース後の、沈んだ気持ちを癒してしてくれる唯一の方法だった。
「とにかく今日は焼肉ね」
 そう言うと千晶は居酒屋の看板に背を向け、反対方向に歩き出した。美鈴はそんな千晶の腕を引っ張り、ゴリ押し戦術を始めた。
「今日はあたしが奢るんやけん、決定権はあたしにありますぅ」
そう言うと美鈴は力ずくで千晶を振り返らせた。そしていつものように、千晶のBカップを鷲づかみにした。
「人前で何すんの!」
「いいやん、女同士やけん誰も不審がらんって」
「いや、そういう問題じゃなくて」
いつもの二人のやりとり。そしていつもの結末を向かえる。
「分かったよ。ここにしよ。この居酒屋でいいよ。早く入ろ」
「その言い方じゃこの店が嫌みたいに聞こえるんやけど」
「この店がいいです。明太サラダが食べたいです。これでいい」
「よし、そこまで言うなら仕方ない。奢っちゃろうかね」
「はいはい」
 千晶は美鈴の手を引っ張って居酒屋の暖簾をくぐった。

 今日は日曜日ということもあって居酒屋の店内はかなり混雑していた。                     
「ねぇ美鈴、今日はお客さん多いから、やっぱ違う店にしようよ」
「大丈夫。すぐに空くから黙って待っとけばいいと」
美鈴は千晶を子ども扱いするように嗜めた。程なくして店員が二人を案内してくれた。店員に案内されながら千晶はふっと思った。
(こんなにお客さん多いのに早く席が空いたなぁ。でも私たち次だったけ?)
席に案内されると美鈴は部屋に上がり千晶に催促する様に言った。
「何、ボッとしてんの千晶。早く座れば。とりあえずいつものでいい?」
「あっ、うん」
この居酒屋は個室風の作りになっており、靴を脱いで敷居を上がると掘りごたつのようなモダンなテーブルがある。居酒屋といっても洋風のたたずまいで装飾品や食器なども、かなり凝っている。
そして居酒屋には珍しくバリアフリーにもかなり気を使っていた。通路は広く、手すりも多く設置されていた。トイレも複数あり工夫がなされていた。
 そういった配慮も、好感が持てる人気のひとつなのかもしれない。敷居側は料理提供や客の出入りをするスペースとなっており、その他は壁でしきられている。そして各部屋には名前がついていた。
千晶たちが案内された席は店の一番奥の席『フェリチタ』だった。
通路を挟んで左隣の部屋は見えるのだが『ボヌール』には、まだ誰も座っていなかった。

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