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『バナナと言ったら宇宙』と言う人

ひさしぶりにスマホのメモで文を書いてみる。懐かしい。ライターを始めたばかりの時はPCを持っていなかったので、マジで全部の原稿を親指だけでこしらえていた。時々、散文みたいなものを書くのも思考の整理になって良いような気がするわけです。

書くことは排便と似ていると言われる。あまり綺麗な表現ではないが、たくさんのものを食べて、噛んで、消化吸収をして、そして出す。かなりシンプルな例えである。

じゃあ読者はうんこを見ているのか?という話にもなるわけだが、そうかもしれない。うんこを読んで楽しんでいるのだ。なので執筆者が文章を読まれることに対して恥ずかしく感じることは至って正しい反応なのだ。もし読まれることに喜びを感じているとすればなかなかの変態なのかもしれない。しかしさくらももこのエッセイの中で、ものすごいデカいうんこが出て『これは誰かに見てもらいたい!』と友達に見てもらうといった話があったと思うが、時々は恥も外聞もなく見てもらいたくなったりもするかもしれない。

さてさて最近で言いますと、ぶんしょう舎というライター講座を始めました。初回は田中泰延さんに講師としてきてもらい『会話』について講義をしてもらった。

田中泰延さん、以下ヒロノブさんと書かせてもらうが、もう付き合いは4年くらいになるだろうか、本当に、非常に面白いお方なので世界に知ってもらいたいと常々思っているのだが、僕がちょうどライターを始めたの時くらいに初めてお会いした。世の中には面白いおっさんがいるのか!と驚愕したのだが、『驚愕』なんて書くと大袈裟でわざとらしい感じがする。しかしリアルガチで僕は驚愕した。僕の脳内辞書の『驚愕』の項目には『田中泰延』の名が記されている。なので決して大袈裟ではないと強調しておきたい。

散文は続く。

講義はヒロノブさんと対話形式で進めたのだが、もう対話するのを諦めたくなるくらいにヒロノブさんの話には勢いがあり、大変に面白かった。圧倒的に面白い人の前だと喋ることが畏れ多くなるものだが、まさにそれ。そういう状況で無理に前に出ようとするとスベることも知っている。アメトークなどで若手が爪痕を残そうと思って前に出ると大体スベる。そういうこと。なのでヒロノブさんが出来るだけ気持ち良く話せるように、面白さがより倍増するように、ゲラに徹した。ちなみに楽しんで笑って聞くのも会話ではすごく重要だと僕は考える。ゲラになろうがならまいが、ヒロノブさんの話は面白いので素直に心から笑える。ヒロノブさんは「ボケることこそが至上」と言うのだが、それを体現し続けている。とにかくボケる、ボケ続ける。重ねてボケる。
実はヒロノブさんの『ボケ至上主義』については去年のぶんしょう舎でも話されていて、この一年ずっと考えていた。

僕はついついツッコミをしてしまう。司会や、イベントのファシリテーター、または飲み会などでも場を回す(自分で言ってしまうが喋りの中心に居がち)のでなんとなく役割を果たすみたいな感じでツッコミをしていた人生だった。

しかし『ツッコミはコミュニケーションの下の下』とヒロノブさんは言う。僕は今までの人生38年間のコミュニケーションを振り返ったのだった。

『ボケる』ってなんだろう。

そのことは実は田中泰延さん著書の『会って、話すこと』にも書かれているのだが、感じ方はわりかし読者に委ねられている気がするので、この一年間考えて続けてきたこと、そして『会って、話すこと』を読み、今回ヒロノブさんとお話をして感じたことをまとめて僕の中でのなんとなくの答えを出したいと思う。

まずこの一年考え続けてきた、『ボケってなんだろう?』と真剣に考える姿勢こそが最もボケから遠い場所にいるということである。そんなことを考えている時間があるのなら、銀河英雄伝説を繰り返し観たり、美味しんぼ全巻を読破した後にアニメの方を観たり、はたまたゴルゴ13が世界の紛争とどう関わってきたかについて読み込んだ方が遥かによいということだ。知識や教養が会話のベースとなり、会話の広がりを生み出す。そう言われてみれば『そりゃそうだ』って話になるけど、例えば夫婦喧嘩や社内での派閥争い、仕事のトラブル、はたまたツイッターで巻き起こる炎上問題が話の議題に上がったとする。その一つひとつをよく見てみると旧ソビエト連邦と諸外国の問題と酷似していたり、美味しんぼの海原雄山がその状況を説明する言葉を放っていたり、ヤン・ウェンリーがイゼルローン要塞を陥落した時の状況が一緒だったりするかもしれないのだ。日常生活の中で起こる会話や事象、問題などをその場に留めずに知識やカルチャー、偉人たちが残した思想や哲学と繋げるのである。

それを『ボケる』ことについて、繋げるとやや強引なのだが、飛躍させることや時空を飛び越えさせたり、スケールが大きくすることによって、面白さが広がるということはよくある。

会話はマジカルバナナだと僕は常々思っているのだが、もしも「バナナと言ったら宇宙」いう人がいたとして、その人が宇宙に対して一家言ある人ならば僕はそのバナナと宇宙の関係性について是非とも話を聞いてみたくなるし、多分その話は面白いと思う。

散文は続く。思考とはこのように進む。

さてボケとヒロノブさんに話を戻す。
ヒロノブさんはとにかくボケる。かと言って決して馬鹿なわけではない。むしろ狂人とも呼べるくらいの知識量を持っている。読んできた本や調べてきた時間と量、会ってきた人の数が圧倒的に違うのだ。それは少し話せば良くわかる。

ヒロノブさんを『ボケ』の人だとしよう。だとすするとボケ続けるためには、膨大な量のインプットが必須となってくる。

話は変わる。

ユーモアの話をする。

僕はかつてツイッターでバズりまくり、とにかくウケ続けた時期があった。なのでツイートの講師として登壇することがある。その講義の中で受講生のツイートの質問を受けたり、添削をするのだが、140字を面白く伝えるためにはやはり起こった出来事や見たものをそのまま伝えるのではなく、自分の解釈や表現に一手間加える必要がある。そのプラスαこそがユーモアなのだと思う。

例えばそこにナスがあったとする。それに対して『そこにナスがある』と言ってしまう人が多過ぎる、ということをよく講義で話す。

ナスから繋がる話をどれだけ持っているかでその人のユーモアの引き出しの数が決まってくるのだ。

・ナスビの語源は『夏美』から来ている説があるので夏美さんという人に出会うとついナスを思い出してしまう
・ナスは一株で本当に死ぬほど実るので家庭菜園ではオススメの野菜である。苗は5月の始めに出始めるのでゴールデンウィークに植えると良い。ちなみにその時期に朝顔も植えると夏に風流を楽しめる。
・鹿児島には白いナス『白ナス』があるが刺身で食べても美味い
・芸人のナスビはエベレストに四度目の挑戦で登頂したのだが、今エベレストでは格安ツアーの参入でシーズンになると頂上付近で登山客の渋滞が起こっている。また山岳漫画『岳』で三歩はエベレストで死んだのか、生還したのか議論したい

などなどナスから始まるマジカルバナナである。
これをどう繋げるとわざとらしくなく、そして自然な文章が出来るのかについては少し頭を捻る必要があるが、こういうことを知っていると面白い文章を作れるのではないかと考える。

ユーモアについての方法はもちろん知識だけではなく他にも手法はあるが、引き出しをたくさん持つことは重要だと言えるはずだ。

散文は続く。

ヒロノブさんは講義の中で資本主義について少しだけ話をされていた。資本主義、共産主義について講義事前の2人の打ち合わせで少し盛り上がったので、受講生はやや唐突だったとも思うのだが、思想、宗教、哲学、イデオロギーなんかもとても面白い話題である。

『人間はどこから来て、何をして、そしてどこに行くのか』

このことを人類はず〜っと長いこと考えている。

ヒロノブさんは、日本の資本主義は緩やかに終わる、そもそも日本の現行の社会制度は社会主義に似ているところがある。という旨のお話をされていました。はっきり言ってこの話をもっと聞きたかったんですけど、事前の打ち合わせで話した僕らのテンションがあるので受講生を置いてけぼりにするのも気が引けたので聞かなかったけどね。
あーーー!ヒロノブさんともっと話したかった!やはり人は考えるのが好きな生き物だと思うんですよね。そういう『どっからきて、何して、死ぬ』の話って話しても尽きない永遠の話題なのだ。そこにも繋がっていると思うのですが、『人はどうせ死ぬんだから』と話すヒロノブさんを見て、これマジでそう思ってるんだろうなと素直に感じて、死生観に触れた気持ちになった。

散文は続く。

僕がインドで旅していた時に陽気な旅人が『人生は長い暇つぶしだ』と、のたまっておりました。僕はそれを聞いて『な〜にスカしたこと言ってんだよ』と思っていた。暇つぶしだと言う旅人にどことなく言い訳じみたものを感じていたし、僕は人生に意味があるとも思っていた。今振り返って客観的にみるとどちらも青臭い若者の生悟りだと思うのだが、そのインドから10年後にヒロノブさんに出会う。

『人生に意味はなく、みんな死ぬ』

この言葉を38歳になった僕はどう受け止めるべきなのかを今考えているわけです。インドの陽気な旅人の言葉を受け入れることは出来なかったが、ヒロノブさんの言葉にはとても説得力がある。もしかした人生には意味なんてものは何もないような気がしてくるし、やがて人は死ぬし。

話はボケに戻します。

そして今まで語ったことをゼロにして考えることにして、ポンっと頭に浮かんだ言葉を綴りながら、それを繋げる作業をしていこうと思う。

・もしかしたら、というよりきっとそうなのだが『他人は自分に興味がない』という事実をまず受け止める。

・ボケるなんて素人がやるのは無理

・コスパ主義、スピード重視、効率的思考になっていないか

・どう見られるかを気にし過ぎているのではないか

・銀河英雄伝を繰り返しみることがやはり大切なのではないだろうか




散文は続く。



こうやって脳内思考の整理整頓を読者に付き合ってもらっているわけだが、普段はここら辺のことはしっかりと事前に整えた上でライティングをしていく。しかし会話や対話の中でまとまることも多くあるので一人語りの文章ではあるが、ふむふむと頷く仮想読者を思い浮かべながら尚も書く。これも一つの会話であり。対話である。

さてポンポンと頭に浮かび上がった言葉を箇条書きにしてみたが、これは会話のマジカルバナナ『バナナと言ったら宇宙』のバナナが宇宙までに繋がるまでの話になるのかもしれない。

宇宙に辿り着けるのかわからないが続けよう。

人は他人には興味がない。

これを前提に話を進めるが、何故興味がないのか?考えてみる。

それは他人と言うよりもとにかく自分に対して一番興味があると言うことなのだと思う。みんな自分のことを考えている。自分が気持ちいいのか、楽しいの、利益があるのか、それぞれに考え行動している。だとすれば僕が他人のことをどうこうしようとするとき、実はそこには必ずなんらかの利害関係を見出していることになる。人を利用しなくてはならないということだ。文章にすると恐ろしくドライな感じになっているが、それを意識せずに言葉を発すると無自覚な発言になるような気もする。例えば『ボランティアは偽善』というお決まりのフレーズがあるが、この言葉に対して『自分が気持ち良いからやっています』と言っている人はどことなく信頼が出来る。どんな善行やサービス精神、利他的に見える行動も全ては自分のためなのである。そこに意識的になれるのかが大切な気がする。人の気持ちはわからない、むしろ興味もない。それが理解した上で、自分がしたいようにする。

語りがやや単調になってきたが、続ける。

『ボケる』に関して、「自分でもボケてウケを取りたい!」と思うのはTVに出ている芸人やタレントを侮っている思考とも言える。

ヒロノブさんはこう語った。

「プロ野球を観て、プロを目指す大人はいないのに、何故芸人を見て『よっしょ自分もボケてウケてみよう!』と気軽に思うのか?野球も笑いも素人には難しいのに、笑いの方だけ自分が出来ると思うこと自体がおかしい」

この言葉だけで十分な気がする。

僕がこの一年のYouTubeですべらない話の千原ジュニアさんや小籔さんの話をとにかく聞きまくるという行為はそもそも間違っていたのだ。彼らはプロ野球であり、それもひりついた打席に立ち続けてきた猛者なのだ。

物事をまず客観視することが大切である。無自覚な人は馬鹿にされるが、果たして自分は自覚できているのだろうか。そもそも自分に対して『自分はこの世に対してすごく重要な役目を果たしているのではないだろうか?必要とされているのではないだろうか?』と思うことや、目指すこと自体が頓珍漢な行動なのかもしれない。自分に対する過大評価、幻想を追い求める行為は時に、人を間違った方向に頑張らせてしまったりする。それが僕の一年間の千原ジュニアさんと小籔さんの話を死ぬほど聞く行為だった。あとはやりがちなのがビジネス書を読み漁る行為、長財布を持つと金持ちになれるという新書を信じて財布を買い換える行為だったりするのかもしれない。

コスパ主義、スピード重視、効率的思考に陥るのは、なるべく手っ取り早くそうなりたいというまさに無自覚な行動なのかもしれない。千原ジュニアさんや小籔さんは小学校の時から物事を斜めから見続けていた、その時々の状況に対して違和感を感じ、瞬きをしながらシャッターを押し続けていた。それを言葉にして笑いを取る練習もずーっとしてきたはずだ。

彼らのすべらない話という結果と成果の発表の場だけを観て、なぜ僕は面白くなれると思ったのだろうか、これこそがコスパ主義、スピード重視、効率的思考に冒されてしまっていたのではないだろうか。あとお金持ちは長財布を持ってるからお金持ちになったのではなく、お金持ちになったあとに良い長財布を購入したと気付かなかったのだろうか?お金がないのにも関わらず長財布を買ったあの頃の僕の単純さが恥ずかしい。

先程から無自覚の話になっているが、僕は常に今現在、人生をわかった気持ちでいる。全然わかってないのにも関わらずだ。もしかしたらアホなのかもしれない。

人から賢く見られたいと思う人間の気持ちというものがあるが、僕に限って言えばこうやって書き綴っていくうちに、どうやらアホだということがわかってきた。よしよしこの調子である。あと一息と言ったところか。ソクラテスが『無知の知』と言い残したが、知らないということを知るのが大切なのである。とはいえ僕も人から良く見られたいという気持ちがやっぱりある。そのつまらない虚栄心こそが自分の思考のその先に進むのを邪魔しているだろう。そういって意味では『人からどう見られているか?』という気持ちを一回すべて捨てる必要がある。そんなことはどうでもいいのである。人は素直が一番というがここに繋がってくるのかもしれない。素直は大事。僕も素直に生きていきたい。わかったフリもせず、カッコつけず、好きなものを好きと言い、嫌いなものには近付かずに、人の顔色を窺わず、卑屈にもならず、嫉妬も、否定もしないで生きていくのが良いと思う。

自分にしか興味がない。ということを自覚して実践して生きていくことは、他人に干渉しないで、自分を生きることに繋がるのではないだろうか。人生の悩みのほとんどが対人関係だと言うが、むしろ『自分にしか興味がない』というスタンスをみんなが自覚して実践をすれば、極端な話、この世の中から悩みが消えることになる。これはすごい発見かもしれない。

散文もそろそも終わる。

僕は一昨日講義が終わったあとに飲み屋でヒロノブさんと銀河英雄伝説の話をしたのだが、ものすごい楽しい気持ちになった。銀英伝は僕の人生の話ではない。遠い未来に宇宙で起こった150年間の話である。色々話をしたのだが、一番楽しいのは銀英伝なのである。

そのことを考えると僕が今すべきことは、もう一度銀英伝を最初から観て、小説も読み、300人以上出てくると言われている登場人物がどのような気持ちで戦場で散っていったのか、考察を深めていくことではないかと思えてくる。会話とは常に自分の外側にあり、その接点を見つける行為である。銀英伝は恐ろしく長いアニメで数多くの登場人物が様々な思惑で動く。めちゃくちゃ気のいいヤツ、本当に死んで欲しくない魅力的な人物が呆気なく死ぬし、早く酷い死に方をしてくれと視聴者全員が願うキャラがなかなか死ななかったりする。そこも含めて面白い。

僕のことはもういいのだ。とにかく銀英伝について語ることが、この人生で最も有意義な時間のような気がしてきた。まだ銀英伝について知らないことがたくさんある。ヒロノブさんとは別れ際に、同じく銀英伝好きのおくりバント社長の高山さんと一緒に銀英伝について語るイベントをやろうという話になった。多分3時間くらいのイベントになると思う。3時間でも短いくらいだ。

散文も終わりの時間がやってきた。

取り留めもなく書いてきたが、結論みたいなものが出た。

『銀英伝を観ること』

これが今のところ僕の人生でやるべきことだと思う。人生の答えはいつもシンプルなのだ。バナナから宇宙に上手く繋がったのかはわからないが、ここに散文を締めくくる。

銀河の歴史がまた1ページ...



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