見出し画像

ドサクサ日記 5/23-29 2022

23日。
飲食店の行列に並ぶべきか、否か。とても悩ましいことだと思う。人間の堪え性はその対象物によって増減するように感じているが、飲食店に並ぶとき、俺の堪え性はほとんど減滅する。引き返せないほどの決意を持って出かけた場合や、やむ終えずの状況では仕方ないが、並んでまで食べたいという他人の欲求に打ち負かされるような感覚がある。他人の欲望の前で、みるみると意欲が萎んでしまう。

24日。
関節の柔らかい人が羨ましい。年中身体がボキボキで、とにかく放っておくとそこらじゅうが痛くなる。長年の身体への研究と対話によって、股関節の不具合から体調不良が始まることが多いと感じている。ならば、ひたすらに柔軟体操やストレッチをするに限る。しかし、元来身体が硬いので、しんどいな、めんどいな、みたいな気持ちが勝ってしまって、結局、ボキボキのまま困り果てることになる。

25日。
自分の中に原理主義的な執着を発見したときの変な気持ち。例えば、才能溢れる人間のどんなに素晴らしいライブでも、本人の声のダブル成分やハーモニーがコンピューターで再現されているとき、俺は人力演奏原理主義者として、コンサートの現場や画面の前で立ち尽くしてしまう。あるいは、人的揺らぎ原理主義者なのかもしれない。悲しいことだ。でも、その点については、人力のほうが美しいと信じてしまっている。もう自分の力では解消しようがないくらいに盲信してしまっていて、そうした考えが身体化というより人生化してしまっている。改宗できない場合にはどうすればいいのだろう。自分はそう信じているがそう思わない人のことも認める、それしかない。自分なりの美しさや正しさが、誰かの美しさや正しさであるとは限らない。だから、みな、それぞれに何かを信じていいのだと思う。

26日。
『プラネットフォークス』から、「De Arriba」のビデオが公開になった。曲ができたときに、真っ暗な部屋が少しずつ明るくなっていくイメージが湧いた。そのことを北山監督に伝えて、ビデオの案を練ってもらった。「後ろめたさを抱えて 貧しさを乗り越えて」はとても気に入っているラインだ。無謬ではない私たちの、少しの希望についての歌。温もりを感じるために、冷たさを取り戻すこと。

27日。
三郷で本番さながらの通しリハーサル。思い起こせば、下北沢シェルターに20人の観客を集めることすら難しい時代があった。知ってもらうことすら難しく、どうしたら自分たちの音楽を聴く人が増えるのだろうかと真剣に悩んだ時代だった。今では、ホールが満員にならなかったらどうしようかと心配している。もう十分に知ってもらっているというのに。強欲だなと思う。はっきり言えば、ツアーをできるだけでありがたい。全国のホールで、自分たちなりに工夫したステージセットを組み、コンセプチュアルなコンサートを行える喜び。それをただ、来場する観客たちと膨らませて行けばいいだけのことだ。下北沢や渋谷の街や横浜のスタジオで苦悩していた自分たちから見れば、成功以外の何ものでもない。あとはこれまで通り、ステージのうえで、精一杯に演奏する。何かに捧げるように。

28日。
YouTubeでいわゆるレジェンドたちの動画を見ると気分が盛り上がる。ほとんど爆笑してしまうような振る舞い、演奏、インタビューなど、そのどれもがユニークで、爆笑しつつも圧倒されてしまう。上手くやることは案外難しくない。上手いとか下手とかを通り越して、存在そのものが特別みたいな人には簡単にはなれない。そういう人は、即時的な「ウケた/ウケない」みたいな物差しの埒外にいる。

29日。
ART-SCHOOLの木下理樹がいかに素晴らしいかを楽屋で話す。こんなに危なっかしい才能を、俺たちが青春時代を過ごしたある一定のシーンはちゃんと見つけたんだということに、今更ながら感心する。情報で埋め尽くされた時代にあっては、かつての理樹のような新しい才能にひかりが当たらないのかもしれないと思うと悲しい。でも、目を凝らす努力をしたい。大人がすべき、大事な仕事だと思う。