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心のフィラメントを切る

トイレの電球が一瞬強く光ってそのまま切れた。

鼻が詰まった時に息をしていたことに気づいたり、喉が乾いた時に水を飲んでいなかったことに気づいたりするみたいに、当然なんだけど「あ、そうか。電球って切れるんだった。」と思った。

電球なんてなかなか切れるものでもないので、接触が悪いのではないかと何度か確認してしまった。

いろんなことが日常に溶け込んでいく中で、当たり前は、当たり前でありイレギュラーなのである。

そんな当たり前の中のイレギュラーに「気づき」と言うものがかくれている。そういうものを見つけるととても楽しい気持ちになる。

くだらないことから、真面目なことまで、その時々に様々な感情もプラスされるけれど、たとえ悲しみのどん底だったとしても同時に「楽しい」がついてくる。

ドラゴンボールで悟空が大ピンチなのに「オラ、ワクワクしてきたぞ!」と言う感じに似ているのかもしれない。


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電球って切れる時に一瞬強く光るんだ。と思った。今までも何回も見てきているはずなんだけど、言われてみればそんな気もする、ぐらいだった。

そんな輝きを見ていて、解散ライブをするバンドみたいだなあ。と思った。

切れかけの電球がたまにつかなくなったり、なんだか薄暗くなってきている気がするように、バンドが解散するかしないかの時は、やはり停滞した空気がある。

だけどいざ解散を決めて、発表してから今まで失っていた輝きを取り戻したかのように、いや、今までで一番強い光を放つようにきらめきに満ちた時間を残していく。

解散ライブを見ていると、なんでこんないいバンドが辞めちゃうんだと思うぐらいのエネルギーを放出していたりする。

感じること、やろうとすること、そういうエネルギーはいつでも存在するのだけど、やがて感受性や、前に進もうと言う気持ちが麻痺してしまう。

そうしているうちに心のフィラメント(電流が流れると光る金属の線)が弱って切れる。切れてしまう時に、大量の電流が一気に流れ込んで強い光を放つ。

もう、感動なんてないんだと思ってしまっても、自分が麻痺していただけなんだとその瞬間わかる。

何もなくなってしまうような気がしても、いつでも世界は感動に溢れているのだ。


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バンドに限らずそうやって心の電球が薄暗くなってしまう場面がある。そんな時に中途半端にせずにちゃんと心のフィラメントを切ることが大事なのではないだろうか。

最後の強い光を感じることで、自分にはまだこんな熱い気持ちがあったんだと気づけるし、なんとか光を持続させようとしてつかっていた力を他に回せる。

僕らの中にはいくつも電球のような情熱があって、どれかが切れても、一生真っ暗になったりはしない。

薄暗くぼんやり光り続けるよりも、いっそどれかひとつ切ってしまうぐらい本気でやって、最後の輝きを持ってまた次に進んでいく毎日の方がいいなと思う。

やめなければいけないと思っていることでも、無駄にぼんやり光らせ続けているフィラメントを切ってしまえば、それを続けていくための光が点るかもしれない。

切れた電球を見て、そんな話が思い浮かんだ。


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