見出し画像

【コーチング】【書籍紹介】「夜と霧」生きる意味とは何か

 本書はコーチング学習の中で、アカウンタビリティや主体性の説明として、しばしば取り上げられますが、単にコーチングの参考書籍として紹介するには、あまりにも偉大な作品です。

  ナチスの強制収容所から奇跡の生還を遂げた著者が、極限状態で現れる人間の心理や行動を通じて、人間とは何か、生きる意味とは何かを、誰にでもわかる平易な言葉で描き出しました。”言語を絶する感動”と評される不朽の名作です。

著者:ヴィクトール・E・フランクル

1905年、ウィーンに生まれる、ウィーン大学卒業。在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を、戦後まもなく「夜と霧」に記す。1955年からウィーン大学教授。

「夜と霧」みすず書房

 オーストリアの精神科医、心理学者、脳外科医です。冒頭に心理学者として、強制収容所の体験を記すと述べられています。

強制収容所の環境

  • 被収容者は裸にされました。結婚指輪も、眼鏡も、靴も、全て取り上げられました。フランクルは学術書の原稿をとっておきたいと懇願しましたが、これもとっておくことことは叶いませんでした。みぐるみ剥がされ、これまでの人生をなかったことにされます

  • 収容所では収容されたとき、あるいは収容後に一定の時期に”選抜”されました。選抜は一瞬の判断で行われました。ちょっとした偶然や思い込みで選抜されるのです。選抜された被収容者はガス室送りとなります。

  • 収容所の周囲は高圧電流の流れている鉄条網で囲まれていました。

  • 管理者の些細な感情で、肉体的精神的懲罰を受けました。被収容者が作業中、顔にはねた糞尿を拭った(この行為が上品ぶっていると思われた)から殴られたり、熱を出したら殴られたりしました。毎日毎日愚弄をうけながら、殴られることが、耐え難い精神的苦痛となりました

  • 居住スペースは極めて狭く、簡素でした。幅2.5メートル、縦2メートルのむき出しの板敷がベッドであり、9人が横になりました。与えられた毛布は2枚でしたので、びっしりと体を押し付けあって寝なければなりませんでした。

  • 一度も歯を磨かず、半年間に1枚のシャツを着て過ごしました。

  • 日に1回しか与えられない、水のようなスープと人をばかにしたような小さなパンと、おまけ(20グラムのマーガリンや、ソーセージ一切れ、チーズのかけら、代用蜂蜜、薄いジャムなど)。時には4日間で1枚のパンしか与えられないこともありました。

構成

3つの時期に分けています

第一段階 収容

 収容所に入所し、初期にショックを受けます。”収容ショック”の状態です。自殺を考えるものが現れますが、実際に実行する人はいませんが、ショック状態の人は自殺を恐れません。
 丸裸にされ、ひとつずつ現実を知っていくに連れ、もしかしたらと抱いていた幻想がひとつずつ消えていきます。やけくそのユーモアや、傍観的な態度、好奇心が現れます。

「特定のことに直面しても分別を失わない者は、そもそも失うべき分別をもっていないのだ」異常な状況では異常な反応を示すのが正常なのだ。

「夜と霧」みすず書房

第2段階 収容生活

 感情の消失、露骨に生命の維持に集中せざるを得なくなることによる、精神の幼児化が起きます。
 飢えとの闘い、食事の妄想、やせ衰えていく身体と向き合います。
極限状態に近づき、自己実現の道が閉ざされ、もはや苦痛以外に何も残っていない、という状態になったとき、内面への逃避に向かいます。
 内面の逃避により、内面も未熟な状態に引きずられる人もいれば、内面が深まる人もいます。ある時隣を歩いていた人が、この姿を見たら女房がどうおもうだろうかと口にします。これにより、フランクルは妻の愛をありありと思い起こし、希望に満たされます。

 感情の消失により、ユーモアや、ちょっとした出来事に対して大げさに喜んでみる(例えばいつもより多くシラミがとれたとか)など、現実逃避が現れます。

 この章で、生きる意味とは何かについて、フランクルは考察を深めます。

第3段階 収容所からの解放

 極度の抑圧から解放されますが、すぐに現実には対応できません。すぐに喜びの感情を表すことはできず、もう一度学びなおさなければならないのです。
 世間や収容されなかった人々に怒りを表すこともあります。ほんのわずかな言葉のニュアンスに「自分たちにこんなことしか言えないのか」と憤りを感じてしまうのです。
 愛する人を失っていた人はさらなる苦難が待ち受けます。

生きる意味とは何か

精神の自由

 収容所のような極限の環境に長らく閉じ込められ、感情を消失したら、否応なく人間性は規定されてしまうのでしょうか。
 しかし、フランクルの経験から、そのような状況にあっても、なけなしのパンを譲ってあげる人、通りすがりに優しい言葉をかける人はしばしば見受けられたと言います。
 一握りのひとだったにせよ、たったひとつ、与えられた環境でどうふるまうかという人間の精神の自由は奪えないということを証明していると述べました。

 ドストエフスキー、カラマーゾフの兄弟から「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」という一文を引用します。
 収容所にいながら内なる自由を失わない人は、繰り返しこの言葉を噛みしめるでしょう。
 仕事に真価を発揮する行動的な生、安逸な生、芸術や自然をたっぷり味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではありません。収容所の環境の中で、生きることに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずです。
 苦しむこと無意味であって、抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのです。

 きわめて厳しい状況で、人生最期の瞬間においても生を意味深いものする可能性は豊かに開かれています。
 勇敢でプライドを保ち、無私の精神をもちつづけたか、あるいは熾烈を極めた保身のための闘いの中に人間性を忘れてしまったか。己の真価を発揮する機会を活かしたか、あるいは活かさなかったか。そして「苦悩」に値したか、しなかったか。このような問いを浮世離れしたものと考えないでほしいとフランクルは訴えます。少ないけれど、このような人々がいたということは、人間の内面は外的な運命より強靭であることを示しています。

生きる意味を問う

 収容所に入ると、未来が奪われます。抜け出すことに意味を見出すひとは、生きることになんの意味があるのか、徐々に希望を失っていきます。真っ先に崩れていくのはこういった人々です。
 「生きていることにもう何にも期待がもてない」
こんな言葉に対していったいどう応えるたらいいのでしょうか。

ここで必要なのは、生きる意味について180度方向転換することだ。私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろ、ひとすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ

「夜と霧」みすず書房

感想

 どう生きるかということを、深く考えました。
何者になるのか、ましてや、どれだけお金を稼げるかなんて、生きる意味ではないのです。今、この瞬間、苦悩しているか、人生からの問いに対して恥じることのない決断をしているかということが生きることの意味なんだと理解しました。

 コーチングとの関連においては、精神の自由、どんな状況にあっても、自分の精神の自由において決断するという部分が、アカウンタビリティの典型例として取り上げられます。精神の自由、アカウンタビリティを手にすることで、生きる意味は未来が与えてくれるものではなく、今、この瞬間、自分が人生に生きる意味を与えていくことができるのだと学びました。

 


名著を読んで刺激をうけたら コーチングで人生を豊かにしませんか


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?