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女性性はただあることで、男性性はそれを見つめること

先日参加したアートセラピーで、「女性性」について描くというテーマでわたしが描いたのは月とそれが映る海だった。

月は単体で光っているわけではない。
太陽の光に照らされて、光っているように見えている。
存在はすれど、太陽がないと認識されない。
さらに、その光を水に映す姿は移ろいやすいように見える。

これを描いたときにわたしが思い出していたのは以前SundariYogaで受けた男性性と女性性についての講義と、1について書いていた自分の記事だった。

0が女性性、ただあること、在るが儘、エネルギー。
1が男性性、0から離れて「ある」を認識する。見るひと。

見るひとがいないとき、あったとしてもそれはないと同じ。
だから、0というのは全ての可能性があるけれど、何もない。
そういうあやうさ、あやふやさを女性性に感じる。
だから、見ることは愛そのものだ。
男性性としては見ることが、女性性にとっては見られる、つまり受け入れることが愛だということになる。

そして、2は1と1が出会うこと、統合ということに続いていく。

この女性性、というのがわたしの中には圧倒的に不足している。
そうあらためて感じたのは、昨日のことだった。

久しぶりに、長女の保育園時代のママ友に会った。
別の小学校に進学したことやコロナということもあって、どうしても会える頻度が落ちる。

彼女とはいつも視点が違っていて、わたしは、どちらかというと彼女の夫に似ているらしい。

子どもたちが楽しそうに遊んでいる。
そのとき、彼女は「可愛いなぁ」とただひたすら思うらしい。
わたしは、というと「あ、絵を描くのが好きなんだ。クレヨンがいいのかな、それともペンがいいのかな。今度は絵のワークショップに行こうかな」とかひたすら考えている。

彼女の夫はわたしと全く同じことを言うらしい笑
いつも、彼女に「あ、それオットも言ってた」と言われる。
理系脳かと思っていたけれど、男性脳なのかもしれない。

わたしは、子育てという母性、つまり女性性が要求されるはずのシーンにおいてすら男性性を駆使して、それを実行している。
「抱っこ」とせがまれて娘たちを抱きしめている間、何分抱っこすればHPは満タンになるのだろうかと考えている。
ママ友の彼女なら、ただしあわせを噛み締めているだろうに。

けれど、家事という一般的に女性的とされる仕事こそ男性性が要求されると思ってきたし、それは母親業も同じだと思っていた。
それに、男性性を駆使することでわたしは今まで生きてきたのだ。
男性性に成功体験はあれど、女性性については失敗体験ばかりだ。

エネルギーの方はそういったわたしを心配して、エネルギーを送っているのだろうか。

わたしはいつもこのエネルギーのひとに、心配されているとなぜか感じる。
けれど、思い当たるフシがない。
泣きそうになって、いたたまれない気持ちになる。

ただ、味わう。

そんなひまないよ。
そんなことわたしには必要ないよ。

と、つい思う。
これが、「味わいきれていない」の本質だとわかっている。
最近のテーマはもうこれに尽きる。

休みたいときは休んでいい。
価値を提供できる自分にしか価値を感じられない。
…等々、脱出できた檻はある。
けれど、残っている。
甘えられない。(弱ってるときは、引きこもる。)
やってもらうと居心地悪い。(嬉しいより罪悪感が勝つ。)
合わせる。(いやだと言えない。断れない。それも後で引きずる。)
楽しむ、より周りが楽しんでいるかを気にしている。
頭のどこかに「わたしはどうせ誰からも愛されない」がこびりついている。

最近それが来ていたから、あのママ友に偶然会ったのだと思う。
いつも自然体の彼女は、わたしが弱い本音を見せられる数少ないひとだ。
そっか、それでいいんだ。
彼女を見ていると何が自然なのか気づかされる。
彼女は、たぶん泣いているわたしを見ても馬鹿にしないだろう。
(理性では別に他のひとにも馬鹿にされないことくらいわかっている。)

わたしには、愚かな女になりたくない、という強迫観念がある。

思い出すのは、子どものころのことだ。
母が寝ている。
ひとりで遊ぶのに飽きたわたしは、急にさみしくなって母の肩を揺する。
けれど、母は絶対に起きてくれない。
うるさいと言われ、うざがられ、嫌われる。

母が言うことを聞かない娘たちに「お母さんはいい子だったのよ」というたびに、心がざわっとする。
わたしはいい子ではなかった。
当時、母に褒められたことなんかなかった。
テストが満点だろうが、学級委員をしようが、私立の中学に受かろうが。
わたしはどこに存在していたのだろう。
誰もわたしを見てなどいなかった。


突然話は飛ぶのだけれど。
わたしの足の形は、丸っこくて子どもっぽい、というかまるで赤ちゃんだ。
最初に違和感を感じたのは、長女の足の形に気づいたときだった。
彼女の足は子どもの時から、大人っぽかった。
足首がくっきりとしていて、足の甲には筋がくっきりと浮き出ていて、指がすらりと長い。土踏まずは綺麗なアーチを描いている。
子どもっぽい足が少しずつ大人の足の形になっていくと思っていた。
けれど、違った。

この謎が解けたのは、BIPSで開催された前回のワークショップに参加したときのことだった。
「口唇期」という言葉を知る。
ざっくりいうと、子ども時代に子どもとして生きられなかったひとの特徴ので、甘えられないひとの話だ。

今週末、またBIPSのワークショップがあるので参加する。
口唇期とともに知った、「ポリヴェーガル理論」についてだ。
そこで学んだこともまたnoteで話したいと思っている。
でもその前に、また色々なひとに会えるのが楽しみ。


続きます。


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