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一番開けたくない箱の中身

先日参加したアートセラピーの講義で出てきた「女性性と男性性」を表すマークは、電源🔌のマークに似ていた。
上の画像のように、丸から棒が出ている、あるいは丸を棒が突き刺しているそれは、エネルギーの真実を知っているひとが考えたマークなんだろう、きっと。
スピリチュアルはこんな風に当たり前に日常に溶けこんでいるのに、そう思うと20年も抵抗して自分自身を否定していたことが馬鹿みたいに思えてくる。

この前のアートセラピーのことを書くのは、今回で最後かなと思う。


受け入れがたいもの、を絵と粘土で表現するワークは2日目にあった。
手放したいのに、手放せないもの。

こういうテーマでわたしがいつも向き合うものは決まっている。
男性的な性欲、のようなものへの嫌悪感と恐怖だ。

受け入れがたいもの

絵の中の左の闇のようなものは、言葉で表すなら「虚無」が近い。
痴漢とかをする男の人の瞳の奥の方、あるいは体の真ん中より少し下に真っ黒な何かが渦巻いているように、わたしには見える。
どんよりと重いのに、なぜか忙しない。

右側の赤い炎は、獣の舌だ。
触れると焦げつくようにチリチリと熱く、接する肌はガリっと削られる。
その傷口はいつまでもじゅくじゅくと治らないまま、風が吹くたびにヒリヒリと痛く、傷があることを忘れさせてくれない。

下の方に左から右に伸びている線はわたしと外の境界線。
いいものは取り入れたいけれど、いやなものを入れたくない、といつも思う。

なぜ、こんなに怖いんだろう。
なんどもなんども向き合って、だいじょうぶだと思っても恐怖はぶり返す。

「あなたは諦めているのよ」
そう先生に言われて、そういえばそうだったなと思った。
どこまでも土に潜っていくような自分を、なんとか地上に引きずり出してやってきた。わたしは、いつもわたしから出て行ってしまう。
何にも参加せずに、すべてを遠くから眺めている。
…今も?今もそうなんだろうか。

「絶対に勝てない」
そんな言葉が頭に響いて、涙が止まらなくなった。
そうだ、わたしは、これに絶対に勝てないと思っている。
敵わない。
だから、そういうものが見えた瞬間にわたしの思考は停止し、身体は硬直して動かなくなってしまう。
絶対的な暴力。圧倒的な力の差。

そういうものを、日々感じる瞬間がある。
今、わたしの周りにいる男性はみんな優しい。
けれど、わたしは知っている。
彼らはその力を持って、わたしを征服することができる。
行使するかどうかの選択権は彼らにある。

それを押しとどめている何割かの力は、社会性だ。
暴走すれば社会的な制裁を受ける、その恐怖が何割かのその力の暴走を防いでいる。
わたしはその社会性に助けられながら、一方でその社会性に抑圧されている。

女性の管理職比率や生涯賃金が低いとか、そんなわかりやすいことだけではない。
女性の性が売り物にされるのが当たり前の社会で、もう感覚が麻痺して、何に怒ればいいのかすらよくわからないでいる。

そう、敵わない。
男性に、社会に、わたしは敵わない。
わたしのどこかにそういう気持ちが潜んでいて、気づかぬ間に息を殺して生きているのだ。



受け入れ難いもの(UPするとなぜか画像が回転してしまうけど左が上)

↑は舞茸じゃない。
受け入れ難いもの、である。

一番上の団扇みたいなところに歪んだ顔がある。
左の下の方にあるのは悪魔の手のイメージ。(安易すぎる…笑)
真ん中の棒は首で、捻れていて、穴が下の方に続いている。
粘土板との接点は溶けてわからなくなっていく感じを表現したかったけれど、海に持っていくときにベリベリ容赦無く剥がした。

土でできた粘土の↑を海に還すワーク。
わたしは、この禍々しいやつを手に、海へ入った。
少しだけ肌寒かった、けれど海の水は温く、心地いい。
穏やかな波に揺られる。
海と感情はリンクしているかのようで、いやなことが頭に浮かぶとなぜか急に大きな波が押し寄せてきて、呑みこまれる。

手に持ったその禍々しいやつは、海の水でぬるりとした感触に変わった。
わたしの手は、お腹にのせられたそいつと格闘をはじめた。
ずぶり、とわたしの人差し指がその体にめり込んでいく。
そのぬるりとした感触は滑らかで、艶めかしい。
掌が、指の間が、指先が気持ちいい。
一番禍々しいと感じていた、手のような触覚のような部分がアッサリと取れて、波にのまれていなくなった。

嫌いと好きがくるりと裏返る。

わたしは、その瞬間、その禍々しいそれを愛おしく感じていた。
手を包み込む、手が包み込む、それは少し冷たく滑らかでわたしにピタリとくっついている。
艶めかしい、というかエロい。
いつまでも触っていたい。
わたしは、これを手放したくなくなってしまった。

そうだな、わたしエロ好きだわー。
こんなわたし正直知りたくなかったけど、しょうがないなぁ、と諦めた。
自分というのは、こんなにも自分の期待をあっけなく裏切るものだ。

そして、ようやく気が済んだわたしは手からその子を離した。
もうただの塊になっていたその子が海に沈んでゆらり波に揺られる。
もういいや、と思った。

浅瀬の海に立ち上がって、ずっとわたしを見守ってくれていたペアになった女の子を振り返った。
お腹に巻かれていた例の布が消えていることに気づいたのは、実はこのときだった。(「女性史を描く」アートセラピーに書いたハプニングの件)

わたしが恐れていたのは、外にある男性的な性欲ではなくて、自分の内側にある性欲だったのだ。
自分の中にあるのに、自分ではコントロールできないもの。
業、という言葉が思い浮かぶ。
わたしだけがあんな目に、ではなく、わたしだからあんな体験をするのだ。
そう思うとき、悲しいとか悔しいとかより、やっぱり諦めを感じる。

触られるのはいやなのに、でも求められたいと思うし、求められると満たされる。
そう、参加者の女性が言っていたことが今も脳裏に蘇る。
コンシャス・タッチ のときも、そういえば同じようなことを思ったのだ。


翌日も、砂浜でストーンサークルを創るワークがあった。
最初の電源のような男性性と女性性のマークは、そのストーンサークルの話だった。

ストーンサークル。影がうまい具合に表現したかった形を織り成す奇跡。

丸い枠は内側と外側の境界線。
わたしのはわりと隙間なくきっちりと境界線が引かれている。
綺麗な石、ではなくて頑丈で強固な石を選んだ。石は意志。
それと、わたしは内側の砂に極力触らないようにしていて、外側は逆に踏み荒らすように歩いた。外側も含めて、わたしの作品。
外に嵐が吹き荒れようと、外の海が暴れていようと、内側はいつも凪のように静かなのがわたしの理想。

真ん中の棒は、男性性を表していて、自分が社会に貢献したいことをイメージする。
わたしは「そそり立つ」という言葉をイメージして探した理想の棒を真ん中にぶっ立てたのだけれど、わたしのやつが一番強かったかもしれない笑

内側に、自分の受け入れがたいものや価値、リソースを入れていく。
丸くて滑らかな石とか薄く今にも割れてしまいそうな華奢な貝殻とか、女性らしさの色々なものの象徴を入れた。
けれど、他のひとより少ないというか寂しいように後から思った。
わたしが自分を空っぽだと感じていることと関係しているのかもしれない。

そして本当は、土偶もいたのだけれど、写真に収めるのを忘れてしまった。
おっぱいとお尻がぼいんとでっかくて横たわっている女神ちゃん。

実は、わたしはこのワークにあまり感じるところがなくて、最初アッサリと終わってしまった。
残りの40分を持て余したわたしは、波打ち際を散歩していた。
参加者のひとりが、しゃがんでそのサークルと向き合っているのが見えた。
彼女は若くて可愛くていつも一生懸命で、ひたむきでいじらしい。
その姿に、胸を衝かれて、何かが込み上がってきた。
「こなしちゃダメだ」
そう思ったわたしは自分のサークルにもう一度戻ろうと歩き出した。

すると足元に、小さな死体みたいな流木が落ちているのに気づく。
なぜか、これがわたしだ、とピンときた。
さらに30歩くらい歩くと、そこに黄色い月のかけらのような陶器?が落ちていて、それも拾った。
その瞬間、「完成した」と思った。
答えは、こんなにもあっさりと目の前に姿を現す。さっきまでは影も形もなかったのに。
ストーンサークルに向かって小走りした。

真ん中の棒の少し右側に、小さな流木と陶器のかけらを置く。
わたしの死体には常に月のナイフが突きつけられているのだけれど、突きつけているのも自分なのだ。

わたしが逃げ出したかったのは、自分自身だった。
わたしは、わたしをどうしても受け入れられなかった。
自分以外のものになりたくてなりたくて、焦がれて捩れた。
だからといって、なりたい誰かがいるわけでもない。
わたしから見える誰もがどこか不自由そうだからだ。

わたしはわたしに降伏する。
どこかからきた、与えられたわたしに。

3日間かけてたどり着いたのはここだった。

自分自身を掘り下げていくと、マトリョーシカみたいな箱を開けている気分になる。
箱の中にまた箱があり、その中にはまた箱がある。
その中に、一番見たくない、けれど一番大事な何かが入っているのだ。

アートを通じて、どっぷりと自分の中を旅する3日間が終わった。

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