無音ヘッダ

『無音の海』試し読みページ

電子書籍『無音の海』の試し読みを用意しました。
気になってる方、ぜひぜひこちらでチェックしていただけると嬉しいです。

無音の海
著者 館山緑
表紙イラスト 二上ネイト
kindleにて販売開始、kobo、BOOK☆WALKERにて販売
定価400円


楽天kobo

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あらすじ
妖怪伝承の残る夜待島に住む少年、旋(せん)は他島の学校に通う中学生。流れてくる声に惹きつけられ、波止場で出逢った『あの人』にほのかな思いを寄せた。しかし彼女と出逢うたび衰弱していく。旋がヨブコ除けの刺青を彫られた後、彼女の声も姿も思い起こすことができなくなった。
しかし島々は穢れで満たされ、ついには身近な存在にまで惨劇が起こってしまう。
旋の出逢った『あの人』は本当にヨブコなのか。自分は何を彼女に問おうとしているのか。
ずっと聞こえていた声が導く初恋惨劇。


序   聞こえない歌声
 
 今日はとてもいい日だった。
 幼い少女にとって初めての夏休み、父親におねだりして本土の映画館まで大好きなアニメの映画を見に行ったのだ。
 誕生日プレゼントにヒロインの人形を抱いて寝るほどお気に入りだったこともあり、港に着くまで延々と映画の話をまくし立てて父親に閉口されていた。
 夜待島に停船するフェリーは大きなエンジン音を響かせながら航行する。映画の楽しい感覚を引きずったまま、退屈そうに雑誌を読み始めた父を置いて少女はデッキへと出ていった。
 わざわざ本土に出て映画を見たのも生まれて初めて。わくわくするストーリーの断片や可愛らしいヒロインや楽しい世界を思い出しては含み笑いを漏らしていた。
 アニメ映画の世界からふと引き戻されたのは、前から歩いてくる女性の姿を見た時だった。
 その人のことを見たのはしばらくぶりだった。
 最後に見た時から一年以上経っていたが、まだ一年間という長さを把握できる年頃ではなかったので、久しぶりに見た程度の認識しかなかった。
 よく見知っていた頃の彼女はセーラー服姿で髪を結んでいたが、今日の彼女は島ではあまり見ない、綺麗なシルエットのワンピースで、髪も結んではいない。
 テレビで見た女優に少し似ている気がした。
 少女が手を振るとかすかに微笑んで手を振り返してくれるが、その笑顔はほどなく消えてしまい、視線を憂鬱そうな様子で海へと向ける。
 風が吹き、髪がなびくのが美しかった。
 見知った女性が暗い表情をしているのが気の毒で、客席に戻ろうとしていた少女は再びきびすを返す。
 今日見た楽しい映画の話をすれば、彼女もきっと楽しくなる。
「おねぇ……」
 呼びかけようとした時、彼女が奇妙な表情を浮かべた。
「──歌」
 歌などどこからも聞こえない。
 しかし、その疑問を口にすることはできなかった。
 突然、耳を打つ轟音が響いた。そのショックのせいで少女はぺたりと尻餅をついてしまう。
 だからこそ見えてしまったのだ。
 有り得ないほど高く、柱のようにすら見えた波の中に男の顔があった。
 いきなり生じた高波のせいで船がひどく揺れた時にはもう女性の姿はなかった。
 最初から存在しなかったかのように、彼女の姿は消えている。
 泣きわめく女児が高波の中に男の姿があったことを主張しても、誰も信じてはくれなかった。

     第一章 声の断片
 
 成本 なりもと せんの住む夜待島から中学校のある大栢島まで、定期船で十分強。
 定期船は本土からいくつかの島を経由して大栢島まで向かう。
 夜待港で船に乗った旋がいつものように船内へ足を踏み入れると、ネイビーブルーのセーラー襟と生成り色のトップスが眼に入った。窓際の席に座っている一歳上の従姉、岸上 きしがみ千佳 ちかの姿を見つける。
「おはよう、旋。ちょっと相談に乗ってよ」
 千佳は夜待島 よまちじまの隣にある巳子島 みのこじまに住んでおり、同じ中学に通っている。毎日登校する時にこうして顔を合わせるのだ。
 夜待島から通う生徒は旋一人だ。一年生だった時には二学年上の男子が同じ船で通っていたが、今は本土にある水産高校に通うために下宿しているので、この定期船で顔を見ることはない。
 千佳の方も大同小異で、巳子島から通っているのは千佳一人だ。
「ちー姉? 何かあったの?」
 隣の座席に座りながら問いかけると、千佳はぶんぶんとうなずいた。ショートカットの髪がさらさらと揺れる。大仰な身振りだが苛立ったり不安だったりという様子には見えなかった。
「まきぽんが心霊話の動画作りたいって話してて、みんなに怖い話持ってこいって言ってるんだ。でも、それっぽい話があんまりなくって、ひとつしか思いつかなくて」
 まきぽんというのは千佳のクラスメートの、大栢島おおがやじまに住む仲のよい少女のニックネームだ。顔の見分けはつくが本名は知らなかった。
「どんな話?」
「巳子島の港の側にかき氷の出てくる方の食堂があるの、憶えてる? あそこのおじいさんって婿養子で、昔は巳子島の小さな会社に勤めてたんだよね」
 小学校二年の夏休みに両親が離婚して、母が夜待島から去ったこともあり、父の妹である多恵子たえこ叔母はよく旋を巳子島の家に招いてくれた。その店にも千佳の家に泊まりに行った時に、二回ほど入ったことがあるのを思い出した。
 叔母は夜待島を嫌っているので、千佳が旋の家に泊まりに来たことはない。それどころか千佳に夜待港へと足を踏み入れることすら禁じていたほどだ。遊んだり泊まったりしたのは全て巳子島だ。
「巳子島に来る前には菊坂きくざか市に住んでたんだけど、子供の頃に隣に住んでたお兄さんが海に落ちて死んだんだって」
「それ本土の話?」
「うん」
 菊坂市はこの桧扇市の北にある、海沿いの市だ。海難事故で死亡する人間はそれなりにいる。珍しい話ではないだろう。
「で、中学卒業してから巳子島の会社に働きに出たんだけど、社員寮に帰る時にその、死んだお兄さんを見たんだって」
「巳子島で?」
「うん、死んだ頃と全然変わらない姿だったって。声をかけたけど自分に気付いてくれなくて、そのまま行っちゃって、それきり」
 千佳の表情も淡々としたものだ。むしろ怖さが足りずに困惑しているようにしか見えなかった。
 旋はしばらく真面目にそのエピソードを頭に浮かべていたが、やがて首を振る。
「……全然怖くないんだけど」
「そうなんだよね。でもこのくらいしか話を用意できなくて、旋がもっと怖い話を知ってたら差し替えようかな、と。何かある?」
 そう問われるとますます返事に困る。
 そもそも怖い話が好きな訳でもなく、特に怖がりでもないのだ。
「ごめん。俺もそういう話の持ちネタはないんだけど、確か本土の高校で幽霊が出るとかそういう話は聞いたことあったような」
「もうその話、やっつんが先に出しちゃった」
 やっつんというのは千佳からよく聞くクラスメートの名前だが、顔は個別認識していない相手だ。男か女かも知らない。
「うーん、たっくんに相談したら何か出してくれるかなぁ」
「くれるといいね」
 たっくんというのは千佳と同じく三年生、千佳の恋人である延原のぶはら拓洋たくひろのニックネームだ。長身で筋肉質、迫力のあるタイプの拓洋を気軽に『たっくん』と呼べるのは千佳くらいのものだった。
 千佳と一緒にいる時に挨拶くらいはしたことがある。向こうも憶えているだろう。
 そんな会話をしているうちに、船内にアナウンスが流れる。そろそろ中学校のある大栢島に到着するようだ。
 大栢島はこの近隣で一番人口の多い島で、ある程度の用事なら本土に出なくてもここで事足りる。学校も小学校までは夜待島や巳子島にもあるが、中学校からは大栢島にある大栢中学校に通うのだ。
 船は大栢港へと近付いていた。
 旋も千佳も鞄を持ち、降りる準備を始めた。船は大栢島が終着なのでここで全員が降りる。人が降りていくのを待っている旋を尻目に、千佳がちょこちょこと手を振って歩いていってしまう。
 千佳はややせっかちな性格なので、これもいつものことだ。
 船内から人が減ってから、甲板の方へ向かう。
(目新しい怖い話なんてないよな)
 島々にはいかにもみんなが喜びそうな怪談らしい話がほとんどない。
 もっと古臭い話には事欠かないが、そんなものはみんな聞き飽きている。千佳のクラスメートが求める『怖い話』も、学校怪談や心霊体験みたいな話題が欲しいのだろう。
 怪談には興味のない旋が知っているのは、せいぜいこの近隣の島々に伝わる、海に現れる妖怪の伝説くらいのものだ。
 ギャングウェイを降りて道の方へと歩き出した時、どこからか声が聞こえたような気がした。
 透き通った印象の女声。歌の断片だろうか。
 すぐ側には誰もいない。
 風に乗って誰かの歌声が流れてきたのだろうか。かすかな風の流れを辿り、風上を見たが誰もいなかった。既に降りた人間は港からほとんどいなくなっており、近くにいるのは新たに船へ乗り込もうという面々だ。
 もしかしたら誰かのスマートフォンからそれらしい音声でも流れてきたのだろうか。
 そんなことを考えながら、旋は船から遠ざかる。
 中学校まで一応バスが通っているが、この時間にはそもそもバスが走っていない。今日は晴れていて荷物も多くはない。既に千佳は学校へ向かっているのだろう。無人のバス停の横を通り抜け、いつも通りの道を歩いていく。
 その間に一瞬だけ聞こえた歌の断片が耳からすり抜けていった気がしたが、それらしい声の主はどこにも見当たらないままだった。
(またか)
 こんな風に、忘れた頃に歌が聞こえることがたまにあった。
 千佳に話してやれば話題提供になっただろうか。そう思ったがすぐに否定する。食堂の主の見た、死んだはずの知人が歩いていた話の方がまだしも怖いくらいだ。歌が聞こえるだけでは怖さの欠片もありはしない。
 千佳本人が探しているなら多少気に掛けはしただろうが、その友人のために探してやる必要は感じなかった。
 あまりのんびり歩いていると始業の時間に間に合わない。旋は足を速める。
 かすかに笑い、そのまま歌のことは忘れていた。
 
 放課後。授業が終わって早々に徒歩四分程度の港まで戻ってきた。
 本土方面に向かう船が来るのを待っている間、旋は波止場で写真を撮ることにした。スマートフォンを取り出し、何枚か写真を撮影する。後で一番いい写真を選んでSNSにアップロードするつもりだった。
 クラスメートとはSNSのアカウントを交換していない。
 メッセンジャーアプリには千佳のアカウントを登録しているが、学校関係者の面々は誰も登録していなかった。後は広島で一人働いている父と、離婚した母のアカウントをそれぞれ登録してあるだけだ。ただ一人同居している祖母も一応スマートフォンを持ってはいるが、機械に疎くてメールすら送りたがらないので登録してはいない。
 アプリを起動させSNSを覗いてみる。
 コンクリートの塀から見える植え込みの樹を撮った写真にテキストが添えてある書き込み。
 
     き 昨日見たかたつむりはいない
 
 昨日の写真とおとといの写真は同じ場所で撮っている。おとといかたつむりがいた場所で撮影したのだ。最初の『き』は普段五十音順に頭文字をローテーションしている。この前の写真は『か』が頭文字だ。
 大したことのない写真だが、ちょっとした日記代わりだ。
 自分の投稿の下に返信メッセージがひとつ書かれていた。アカウント名を見て旋はかすかに笑う。
(左前右さんだ)
 SNSには写真を投稿するだけで、特に交流を意図していなかったが、それでも旋の写真を気に入ってくれる人が何人かいて、時々やりとりをすることもあった。左前右もその一人だ。『左前右』というのが実際にはどう読むのかは知らないが、特に困ることもない。
 
     また出てきたら写真に登場させてやってください。
 
     同じのかわかりませんけど、見たらアップしますね
 
 返信だけ書き込んだところで、ちょうど定期船が港に入ってくる。
 旋はスマートフォンをしまうと発着場へと向かう。発着場には既に千佳も来ているようだ。この時間には船も多めに来ているので帰る船はかち合わない時もよくあったが、今日は同じ船で帰るらしい。
 かすかに吹く風がほの甘く感じられる。
 その風に髪を撫でられながら、旋は歩き出した。
 
 帰りの船では千佳から朝の怪談についての顛末を聞くことになった。
 予想通り「全然怖くない」と不評だったらしく「あれより怖い話なんて聞けるかなあ」としょげていた。
「旋も何か思いついてよ。全然浮かばなくってさ」
「そんな目に遭ってたら、とっくにちー姉に話してるよ。後はばあちゃんからヨブコの話でも聞いてくるくらいしかないから」
 ヨブコというのはこの近隣に伝わる伝承に登場する、海に出没する妖怪の名前だ。見馴れぬ美男美女が自分に逢いに来るが、それは人ではなくヨブコで、護符を身につけると近寄れないが、その護符を剥がされヨブコに攫われ、殺されてしまうという定番の話だった。旋も聞いた当時に耳なし芳一や牡丹灯籠とさほど変わらぬ月並みな昔話だと思ったものだ。
「そんな話みんな知ってるよ。それにまきぽんが期待してるのは実録怪談で妖怪アニメじゃないんだってば」
 大栢島、夜待島、巳子島の三島は距離も近いので、ほぼ同じ文化圏に属している。同じ市内でも本土まで出ればコミュニティも違っているが、三島の住民は交流があり、ある程度知り合いも多い。漁業なども盛んだった昔に較べて人口も減っている分尚更だ。
「実録怪談になりそうな話なんてそんなに転がってないよね。学校の怪談とか事故物件となんて聞いたこともないもんね」
「そういうのはもっと都会に行かないとないと思うよ」
 旋が聞いたことがある怪談話は、朝方出した本土の高校で幽霊が出るらしいという話で種切れだ。探せばなくもないだろうが、そういう話が広まるのは外部から入ってきた人間からだ。ずっと変わり映えのしない面々が住んでいる場所では、案外そういう話題は広まらない。
 広まるのは所詮「人に話せる程度の怪異」だけなのだろう。
 
 夜待島で千佳と別れて下船する。
 夕陽で濃い桃色に染められた夜待港はぺったりと平面的に見えた。まるで絵の中を歩いていくような気分で発着場から移動していった。
 敷地内には鶚の姿を彫った小さな石碑が建っている。
 島内唯一の神社である夜待神社が建てたものだ。ヨブコと呼ばれる妖怪の伝説と結びついた話があるらしく、島の神社では今もヨブコ除けのお守りを授与している。子供の頃にも祖母がよく買ってきて旋のキーホルダーに付けさせられていたものだった。
 石碑には夜待様と呼ばれる祭神を象徴する、ヨブコを追い払う力を持った鶚を彫ってあるのだという。
 近隣の海に現れるヨブコを退治した神様だという話は聞いたことがあるが、はっきり憶えている訳ではなかった。所詮みんなが楽しく語る怪談の中にすら入れてもらえない昔話の世界でしかない。
 旋は石碑の側を通り抜けて港から出ると、小さな店が数軒建っている場所を抜けていく。
 振り返り、夕空の写真を一枚撮った。
 その後数枚の写真を撮りながら自宅へと向かう。旋の家まではそこから五分強。本腰入れて写真を撮りたい時には少し遠回りするが、今日は大栢島でも何枚か撮ったのでこのくらいでいいだろう。
 細い道沿いの、とりたてて特徴のない古い家。予定外の外出がないなら、祖母がいるはずだ。多分夕食を用意して待っていてくれるだろう。
 成本家は祖母と旋の二人暮らしだ。
 母が離婚して島を去る前にも、父は広島に出稼ぎに行っていたので、その時期にはまだ生きていた祖父、祖母、母と四人暮らしだった。母が去り、祖父が旋の小学五年生の頃に死に、今は祖母と二人だ。父は時々島に帰ってくるが、島内に仕事がないので広島で一人暮らしをしている。
 一応大栢島にも高校はあるが、進路も限定される。本土の高校は始発便に乗っても最寄りの高校に間に合わない。できれば下宿するか父の暮らす広島へ引っ越すかどちらかにしたいと思ってはいる。
 ただ、今はそんなにはっきりと将来について考えられてはいなかった。
「ただいま」
 庭を横切り、扉を開けて中に入る。
「お帰り」
 台所の方から祖母の声が聞こえる。旋は荷物を持ったまま廊下を歩き、鰯の梅煮の匂いが漂う台所を覗いた。孫の顔を見て祖母が笑う。
「もうすぐごはんができるから、また後で呼ぶよ」
「うん」
 祖母、成本説子せつこは時々農家の手伝いに行っているが、息子である旋の父、宏太こうたから仕送りを受けて自宅で家事をしたり、大栢島に買い物に行ったりして暮らしている。何か用事があって本土へ出た日には夕食時に家を空けていることもあるが、今日は外出しなかったらしい。
 そのまま奥にある自分の部屋まで移動し、部屋に入った。
 夕食前に撮った写真を選んでおこう。
 鞄を置いて、ベッドに腰掛けるとスマートフォンを取り出す。次の行頭の文字は『く』だ。今日は何枚かあるので、ちょうどそれらしい一文をでっち上げられそうなものを選べるだろう。
 五十音順に文章を併記して写真をアップロードするのは、これで二巡目だった。前回はいい感じの文章が浮かばず何回も四苦八苦したものだ。別に義務でも何でもないのだが、日記代わりなのでやらないと落ち着かない。
 スマートフォンのフォルダを開いて写真のサムネイルに眼を通す。
 全部で八枚の写真のうち、五枚は大栢港で、三枚は夜待島で撮影している。見知った場所なので大体どんな風に写っているのかは把握していた──はずだった。
 全く憶えのないものが写真の中にいた。
 大栢島の波止場で撮影した五枚のうち二枚に、あの時にはいなかったはずの人物が写り込んでいたのだ。
 本来この写真には無人の波止場と海が写っていたはずだ。
 なのに画像データには、彩度の低い夾竹桃のピンクに似た色のワンピースを着た女性がいる。旋よりは年齢が上だろう。二十歳前後だろうか。彼女は何をするでもなく海の方を向いており、こちらに気付いてはいないようだった。
(人は、絶対いなかったはずなのに)
 二枚とも彼女は同じ場所に立っている。残りの三枚にはその位置が入っていないだけだ。
 波止場で撮影した時のことを思い出してみるが、確実に無人だった。
 そもそも旋は基本的に人物を撮影しない。人がいるような場所で撮る時には、ちゃんと人物が入らないようにしているのだ。
 その女性に見憶えはない。大栢島はそれなりに便利で宿泊施設もあり、時折観光客が訪れる。彼女も観光客だったのかもしれない。そうだとしても「無人の場所で写真を撮ったら見たこともない人間が写っていた」ことが変わる訳でもない。
(この話、ちー姉にしたら怪談だって喜ぶかな)
 自分が千佳の立場なら純粋に喜べそうだが、現実にこうして『ちょっとした怪異』と対峙すると奇妙な気分だった。人数を数え間違えるのと、隠れようのない場所にいる人間を見落とすのは訳が違う。かといって自分が心霊写真を撮ったとはあまり考えたくない。
 光の加減やミスで変なものが写り込んでしまったにしては、姿がはっきりとしすぎているのだ。自分が写したのでなければ、普通の人物写真だと思ったに違いない。
 写真の中にいる女性はこちらを向いてはいなかったが、わずかに横顔が見えている。どことなく寂しげな印象のある彼女は、この時どんな表情を浮かべていたのだろう。
「旋、夕食できたよ」
 台所から祖母の呼ぶ声が響く。
 スマートフォンをデスクに置いて部屋を出る。空腹だったこともあり、写っていた女性のことは頭から消えてしまう。
 勉強を済ませてベッドに潜り込む頃にはもう、ただの奇妙なエピソードとして記憶の片隅に放り込まれてしまっていた。
 
     ◇ ◆ ◇
 
 波の音を聴く夢を見ていた。
 どこでなのかは解らない。
 波音だけしか感じ取れないまま、ぼんやりとどこかにいるようだ。それが夢なのだと理解したまま、ただ聴き続けている。
 遠くからかすかに声が響く。
 耳をそばだて、どんな声なのか聞き取ろうとするが、それは波の音に打ち消されてしまう。
(どこから聞こえてくるんだ?)
 何となくこの状況に憶えがあるような気がするが、何に対してそう思っているかは思い出せない。
 しばらく考えてみたが、答えが出ないまま波の音も薄れていき、徐々にシーツの感触に置き換わる。
 
 そして唐突に夢は終わった。
 
     ◇ ◆ ◇
 
 翌日。朝食を済ませて港へと向かいながら、旋は考えていた。
 ゆるやかな坂を下りていきながら、刻々と消えていきつつある夢の残滓ざんしをかき集めていく。
(前にあの声を聞いたの、いつだろう)
 はっきりとは憶えていないが、何度かは聞いたことがある。
 言葉が聞き取れる訳でもない。歌の断片に聞こえる時にも知っている曲のような気はしなかった。
 あの声を聞くたびに、いつも軽い戸惑いと何となく寂しいような気分を味わうが、その後声について詳しい情報を思い出すこともなく、何となく忘れてしまう。その繰り返しだった。
 ただ、今回は状況が違っている。
 自分の撮った写真の中にたたずむ女性の姿。絶対に見落とすはずもない場所に立っていた彼女のことを、どうしても切り離せずにいた。
 声の主は、あの人なのだろうか。
 もし本人に逢えたら話しかけて、声だけでも確認したい。
 気が付くと、足を止めていた。
 乗船に間に合わない時間ではないが、小走りで走り出す。
 自分の中にわだかまるむず痒いような思いから眼をそらし、夜待港へと向かった。
 
 船内で千佳のいる座席まで移動すると、ちょうど英語のノートに眼を通しているところだった。普段それほど勉強熱心でもないので珍しい。
「わ、勉強してるんだ」
「今日小テストで出る範囲。昨日まきぽんと通話してたら勉強の時間なくなっちゃってさ」
 まだ千佳はまきぽんから怪談話を求められているのだろうか。
「怖い話、集まってないんだ?」
「そっちは何とかなったっぽいよ。何だか本土の友達がめちゃくちゃ怖い話を教えてくれたみたいで。でもその話聞いたら怖くなっちゃって一人で作業するのが嫌とか言ってしばらく話してた」
「それじゃ、ちー姉が無理に怖い話を集めてこなくてよくなったんだ」
「うん。ほっとした。手持ちがなさすぎるんだよね。後は船から降りる前にどれだけ憶えられるかで今日の人生が変わるよ」
 そう言うなり千佳はノートに真剣な視線を向け、口を閉じる。
 集中している従姉を邪魔するのも申し訳ない。やや拍子抜けした気分になりながら、旋も黙って窓の向こうの海を見ていることした。
(あの写真の話、しそびれたな)
 もしまだ千佳が怪談を探していたら、いつの間にか写り込んでいた女について話していたのだろうか。
 今からでもあの写真を見せれば千佳は驚いて、何かしらの反応を見せるだろう。そして、ちょっとした怪異の話題で盛り上がった後に「でも旋がそのへんの美人の写真をこっそり撮ってただけかもしれないし」などと混ぜっ返して終わるのだ。
 自分の中で処理しきれていない写真の謎を、そんな風に消費してしまうのは何となく違う気がした。
 多分、あの女性はただの観光客なのだ。きっと時々風に乗って聞こえてくるあの声とも違う。彼女と再会することがあったとしても、もう一度あの波止場で『ぼんやりしていて人がいたのに気付かず写真を撮った自分』を突きつけられ、馬鹿だなと笑って終わるのだ。
 大栢島への到着を知らせるアナウンスが流れる。そこまで集中してノートを見ていた千佳はがばっと顔を上げた。
「ギャー、終わらなかったよ」
「学校まで走っていって続きやるしかないんじゃないの?」
「もう最悪」
 ぼやきながらも手早くノートをしまい、下船のタイミングに備えている。
 旋は一度立ち上がり、千佳が通路側に出やすいように場所を譲ってやった。
 船が停まり、千佳が足早に移動していく。最初は小走りだったが、体が温まってスピードを出せるようになったのか全力で走り始めた。
 この船は大栢港で折り返し、本土の桧扇港へと向かうまでの間しばらく停泊する。旋は桧扇港行きの船に乗るため待っている人達が乗る前に船から下りた。
 もう既に千佳の姿は消えている。
 歩きながら、昨日写真を撮った波止場のあたりをちらりと見やった。
 やはり人はいない。
 今停泊している船に乗るなら既に移動しているだろうし、観光で滞在しているのならもっとゆったりと朝食を済ませた後にでも来るのではないだろうか。いなくても全く不思議はない。
 多分、大したことではないのだ。ちょうど怪談話と同じタイミングにちょっとした奇妙なことが起こったせいで、何となく気にしてしまっているのだ。
 旋はしばらくの間無人の波止場を少し残念な気持ちで見ていたが、やがて歩き出した。
 
 放課後。港まで到着した時、発着場に千佳の姿はなかった。
 必ず同じ船に乗り合わせる往路の始発船とは違い、夕方には本土行きの高速船も含めれば比較的多くの船が出ている。それほど珍しい訳ではない。千佳の恋人である延原拓洋の家は大栢島にあるので、寄って帰るのならもっと遅くなるだろう。
 自分が安堵の溜息を漏らしていることに気付き、わずかに戸惑った。
 あの写真のことを口にしなかったのは、言いそびれたせいではなく、言いたくなかったせいらしい。
 何故かは解らない。ただ、何となく言いたくなかった。自分で確認しないまま怪談として消費してしまうのが嫌だったのかもしれない。
 スマートフォンを取り出し、女性の写り込んだ写真を確認する。
 どこか夾竹桃のピンクに似た色のワンピース。長い髪。見えない顔立ち。気付いていたら絶対はっきりと憶えていたはずなのだ。
 未練がましく波止場の方へと向かい、数歩進んだところで足を止めた。
 かすかに流れてくる、昨日聞いたのと同じ声。
(どこからだ?)
 昨日と違って発着場の周囲にはほとんど人影がない。時間を見るとちょうど五分ほど前に船は出てしまっていた。昨日の朝なら誰かのスマートフォンから音が漏れ聞こえてきたのだろうと片付けることはできたが、今日は有り得ない。
 わずかにいる人々は知人同士らしく何事か語り合っている。男性しかいないので歌声の主でないことは間違いないし、スマートフォンやラジオなどを持ってもいなかった。
 何だか昨日からずっと知らない誰かの断片情報ばかりをちらつかされているようだ。
 間の悪い気分で発着場を通り過ぎ、何となくそのまま波止場へと足を向けた。
 昨日と違って誰かの姿が見える。
 遠目でも気付いた。あの写真の中で見たのと同じシルエット。
(ちゃんといたんだ)
 思わず早足になり、やがて小走りになっていた。
 わずかに揺れるスカート、髪の毛。
 数メートルほど近付いたところで、彼女が少し恥ずかしそうに口を閉じる。
 さっき風で流れてきた歌声は、やはり彼女のものらしい。同じ声だった。
「あのっ」
 旋はそこで初めて女性の顔をちゃんと確認した。
 整った容貌ではあるが、丸みを帯びた大きな眼と肉感的な唇が印象的な、どこか可愛らしい女性だ。長い髪は人によっては重たく見えそうな艶やかな黒髪だったが、わずかな風に揺れていると軽くてやわらかそうに見えた。
 間違いなく旋よりは年上の、十八、九歳くらいの女性は、千佳とそれほど変わらないくらいの身長だが、ローヒールの靴を履いているので少しだけ千佳より高く感じる。
「はい」
 聞こえていた歌と同じ、さらさらと心地よく澄んだ声で返事される。
 変わった声質という訳でもないが、一度聴いたら忘れない印象的なメゾソプラノだ。だからこそこうして確認しに来ることができたのだろう。
 大きな瞳に旋の顔が映るのが見えたような気がして、ひどくうろたえた。
 彼女の姿を見つけて咄嗟とっさに走ってきてしまったが、何と切り出せばいいのか全く考えていなかったのだ。
 パニックで頭が真っ白になりそうだった。しかし彼女からしてみれば、全速力で駆けてきた男子中学生を見て何事かと思ったに違いない。一秒でも早く説明すべきだ。
 そう思えば思うほど、気の利いた言葉が出てこない。
 彼女は静かに旋の言葉を待っている。
「すみません。俺、昨日ぼうっとしてる間にあなたの……写真を撮っちゃったみたいで。誰もいないかと思ったら写り込んじゃってて」
「写真?」
 旋は慌ててスマートフォンを取り出すと、フォルダの中にあった彼女の写真を見せた。まず表示されているサムネイル二枚を指さしてから、そのうちの一枚を表示する。
 この場所でたたずむ彼女の姿を表示されるのを、彼女は不思議そうに覗いていた。その視線を画面に受けながら、もう一枚も見せる。
「いたのに気付かなかったみたいで、写り込んじゃったみたいなんです。その、盗撮しようとか思った訳じゃなくて……すみません」
「私も気付いてなかった。気付けばお話くらいできたね」
 かすかに彼女が笑う。
 端から見る限りでは、勝手に写真を撮られたことへの怒りや嫌悪は感じられず、思わず息をついていた。
「大栢島で自分がこんな風に写ってるのを見ると何だか不思議」
 瞼を伏せ、ぽつりと漏らした。
 わずかにうつむいているせいで、瞼の形と睫毛の長さがより目立つ。そして陽灼けしていない肌がなめらかに見える。体育の授業で陽に灼ける生活を送っていないのだろう。島に住む人々は美白に気を遣っているタイプでなければ、ここまで陽に灼けない肌を保持できてはいない。
「観光で来てるんですか?」
 そう問いかけると、しばらく彼女は考え込んだ。
「観光、のつもりはなかったけど。最近はこのへんにいる。多分、しばらくは」
 大栢島はこの近隣の島々へのアクセスに便利な場所だ。民宿なども何軒かある。彼女は何らかの理由で大栢島に泊まり、あちこちを散策しているのかもしれない。
「君はこの島の子じゃないの?」
 そう問われ、旋は口籠もった。
 今はそれほどでもないが、夜待島の島民は近隣の島々で差別を受けていた。昔は夜待島のことをヨブコ島と蔑称する者もいたという。
 ヨブコ伝承と関係があるらしいが、さすがにこのご時世に妖怪にまつわる差別がそのまま残ってはいない。
 何となく昔から「そういうものだ」と思われている程度のことだが、夜待島に住んでいると話すと今でも少し戸惑う人達もいる。中学に入って多少仲よくなった友達を家に遊びに誘って、その時はよくても後で断られた経験は何度かあった。
 しかし、よそから来た人間がそんなことを知るはずもない。
「俺は──向こうの夜待島に住んでるんです。あの島」
 旋は夜待島のある方向を指さしてみせた。
 夜待島は大栢島から近いので、位置さえ知っていれば簡単に見ることができる。彼女は小さくうなずいてみせた。
「夜待島からもこの島は見える?」
「見えるけど、夜待港からだと見えないです。俺の家の方からも」
 夜待港から大栢島が見えればよかったのにと何となく寂しい気分になった。
 彼女はそのまま興味深そうに夜待島の方角を眺めている。近くに別の島が見えるのが物珍しいのだろうか。
「じゃ、船で帰るの」
「桧扇港行きの船が来たらそれで」
「……あの船?」
 先刻自分がしたように彼女が海を指さした。
 指先は自分も気付いていなかった小さな船影に向けられている。
 この時間に近付いてくる船だ。時間を逃すと帰れなくなってしまうので船の時間は体に刻み込まれている。間違いない。
 あと数分で船が到着する。そろそろ発着場に向かわなくてはならないだろう。
 そろそろ行きますと言いかけて、重要なことを訊いていないことを思い出す。
「写真、消した方がいい、ですか」
 そう問いかける声はおのずと弱々しいものになってしまう。
 消したい訳ではなかったが、ほとんどの女性にとって初対面の男子学生が自分の写真を持っている状況自体が不愉快だろう。
 しかし彼女は不思議そうに訊き返す。
「どうして?」
 表情は全く変わっていない。声の揺らぎもない。何かの意図を隠しているのではなく、ごくシンプルに疑問を投げただけらしい。
 そう問われて、言葉に詰まった。どう返答してよいものか迷っているうちに、見えるか見えないかの大きさだった船がもうかなり近付いてきている。
 何か言わなくてはいけない。
 しかし大きくなってくる船影と彼女の眼を交互に見ていると、旋の頭から言葉がどんどん消え失せていく。
 船の動力音すら大きく響くほど近くなった頃、やっと口を開いた。
「消さないです。すみません」
「うん」
 かすかに彼女が笑う。それほど気にしている様子はなかった。
 何歳も自分より年上の女性からしたら、顔もはっきりと見えていない写真を男子中学生が持っていようがどうでもいいのかもしれない。それはそれで素直に喜べないものがあるが、消してくれと言われるよりずっといい。
「そろそろ行きますね」
 ぺこりと頭を下げると彼女は小さくうなずく。
 その穏やかな表情を見ていると、じんわりとあたたかい気持ちになった。
 名残惜しい気分で彼女に背を向けて歩く旋を途中で定期船が追い抜いていく。
 いつの間にか発着場のあたりに乗客が集まっていた。千佳はいない。この後の最終便に乗るのか、前の船で帰ったのだろう。
 行列の後ろに並び、自分も船に乗り込む。
 いつもなら早々に座席を確保しに行くのだが、そんな気にはなれなかった。デッキに出て波止場の方に視線をやるが、場所が悪いせいで彼女の姿を確認はできなかった。もう少し近い場所へ行けば確認もできるだろうが、わざわざ顔を覗かせていたら薄気味悪く思われるかもしれない。それは嫌だった。
 仕方なく座席の方へと移動し、椅子のひとつに腰掛けた。
 しばらく待っていると出航時間を迎える。
 アナウンスと騒がしいエンジン音のせいだろうか。何となく混乱したまま思考がまとまらなかった。
(何話してたんだ俺)
 いくら初対面とはいえ挙動が不審すぎる。
 彼女にしてみれば、勝手に自分の写真を撮った相手に押しかけられただけで迷惑なはずだ。しかも全速力で走ってきたあげく、まともな会話もできていないのだ。彼女も困ったのではないかと思ったが、淡々とした表情を浮かべていたことを思い出し、わずかに溜息を漏らす。
 あれは「少し嫌がっている」のではなくて「旋のことなどどうでもいい」のではないだろうか。そう思うと真っ暗な気分になってきた。この時点でやっと、自分が彼女のことを過剰に意識していることに気が付いた。我に返ったのだ。
 今まで誰に対しても、もちろん女性相手であってもあんな間抜けな態度を取ったことはさすがにない。写真をアップロードしているSNSでもここまでみっともないやりとりをしたことはなかった。
 元々、それほど他人に興味があるタイプではない。未だに軽い差別が残っている地域に住んでいることもあり、あまり人によく思われなくても気にしないようになっていたのだ。
 だからこそ、こんなにも初対面の女性に何と思われたかを気にし続けている自分に戸惑っていた。
 あからさまに意識しすぎていた。
 逃避するためにスマートフォンを点灯すると、彼女の写真が現れた。フォルダを閉じていなかったので画面がそのままだったのだ。横顔しか写っていないので今日間近で見たあの端正な容貌は確認することができない。
 アップロードする写真はまだ撮影していなかったが、撮るものが何も浮かばない。
 今までアイディアが浮かばない時には、題材にこじつけて適当な写真を載せることはよくあった。しかし今日はそれと別の意味で悩んでしまっている。いつもならもう少しましなアイディアが浮かぶのに、彼女のことが頭から薄れていかない。
(今日は『く』だっけ)
 その文字だけで彼女の黒髪、唇があっという間に思い浮かぶ。
 今日の自分は馬鹿だ。だからこんな風に混乱しているのだ。そのせいで初対面の彼女に不快な思いをさせてしまったかもしれないと思うと、ものすごく嫌だった。
 思い悩んでいるうちに、夜待島への到着を知らせるアナウンスが聞こえ、ほどなく船が停止した。
 考えている時間を切り取られたように、いきなり夜待島に着いてしまった気がする。
 旋は急ぎ足で下船し、夜待港へ降り立った。
 乗船する人の邪魔にならないように場所を移動し、再び画面に視線を落とす。
 少なくとも大栢島で聞いた声は彼女のもので間違いないようだ。しかし、その前に何度か聞いたのも同じ声だったはずだ。
「……どういうことだ?」
 はっきりと憶えている訳ではないが、何度かあの声を耳にしている。
 彼女と逢ったのは今日が初めてだ。歌手などで似た声を知っている訳でもない。あの声を意識している一回ごとの時間がとても少なく、それらしい声の主を確認できることもなかったせいで、忘れるともなく忘れてしまっていたのだ。
(逢ったことは、ないよな)
 どれだけ記憶を掘り起こしてみても、テレビやネットで見かける芸能人などを含めても全く思い当たらない。
 聴き憶えがあるのによく解らないままだった声が、具体的な相手と結びついた時にどう考えたらいいのか全く解らないのだ。
 元々人の顔や声を憶えられないタイプならここまで気にしなかったが、旋は人の顔や声は忘れない方だ。だからこそ初めての状況に戸惑っているのかもしれない。
「何で──」
 今日はずっと混乱してばかりの日だ。
 彼女の歌声が流れてきた時からずっと、いつもと違いすぎている。
 とぼとぼと歩き出しながら、惰性で眼が被写体を探している。しかし、気もそぞろなので景色に集中できないでいた。しばらくするとすっかり面倒になってしまい、少し考えた後に下を向き、自分の靴の写真を撮って済ませることにした。
 
     く 靴でも撮るしかないくらい
 
(靴でも撮るしかないくらい──苦しい)
 もし、そんなことを書いた文面を彼女に見られたら何と説明したらいいのか解らない。そう思うと続ける勇気が出ず、そのままSNSに投稿してしまった。
 ネタ切れだと思って笑ってくれたらいい。これ以上思い悩む気力が出ず、溜息をつきながら自宅への道を歩くしかできなかった。

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