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個人ではなく社会の責任を問うために


前回の続きです。


「ひきこもり」とか「不登校」とか言う名詞を無批判に使うから、レッテル貼りになるのよね。

問題と人が一体化し、その結果、自己責任論の侵入を許してしまうのです。


だから、社会的孤立、社会不適応、学校不適応と呼ぶべき。そうすれば、主体と環境と目的が分離される。「誰が」という主体が立ち上がり、「何に」適応できないのか、という方向性が生まれる。適応できないのはなぜか?と社会を問う契機も得られます。

このような問題を論じる際に、かつては「社会的」という枕詞が必ずついた。ひきこもりは社会的不適応であり、その結果として社会的孤立の状態にある、というように。社会と人との関わり、社会のあり方を問う姿勢があった。

でも、ここ10~20年くらいの傾向だと思うけど、社会的な問題であるにもかかわらず、「社会的」な観点が抜け落ちていった。適応する/しないすら語られることはなく、「ひきこもり」も不登校も単なる個人の属性のように見なされるようになった。

もちろん、これらの用語を広めた専門家やメディアの影響は大きい。

ここ最近の「ひきこもり」の定義をめぐる議論を見てると、馬鹿々々しくてやりきれなくなる。外出する/しない、週に何回以上他人と話すか、男と女でどうのとか、主婦は統計に入れるのか、とか……。
「ひきこもり」などという名称が、混迷を生むのです。より包括的な「社会的孤立」の概念を使えば、どのような属性の人にも適用できるし、誤解を生むことはないのに。

ひきこもりの本質は家から出られないことではなく、

・頼れる相手がいないこと
・孤立していること


なのだから。

最近は、大手支援団体が大物政治家(不祥事のデパートみたいな人です)にせっせと働きかけて、「ひきこもり支援法」なるものを制定しようとしている。ひきこもりにも人権を認めよというのだけれど……。

ひきこもりは病気ではないから明確な診断基準はなく、よってエビデンスのある治療法(解決策)なんて確立しえない。先に述べたように、定義もきわめて曖昧。そんな状況で「人権宣言」なんてしていいのだろうか?トランス問題の二の舞にならないか?

ひきこもりにまつわるこの曖昧模糊とした感じ、曖昧なのに無理やり定義づけようとする強引さが、問題の解決を遠ざけているように思えてならない。本質に切り込む議論がされないことで自己責任論を呼び込んでしまい、当事者を社会からよりいっそう遠ざける。

それだけでなく、当事者以外の人間が「ひきこもり」の旗印によって、利益や権力を得る仕組みができかねない。当事者の声を「代弁」するという建前で、声を封じていくのです。 

このままでいいのですか?
わたしは当事者じゃない、ただのおせっかいだけど。

当事者みずから声をあげて、「社会に」訴えること。
それと同時に、説得力のある理論構築をしていくことが、必要ではないかと思う。当事者であることに寄りかからずに。


おせっかいな第三者からの提言です。


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