見出し画像

アインシュタインは見ている。

カウンセリングに通って6年目になる。
今年は事情があって、通っていたカウンセラーの先生を卒業し、
その先生のお師匠にあたる先生に、お世話になるようになった。

カウンセリングを継続すると決めたとき、自分の中でなんとなく決めていたことがある。
それは、この道程について、事前に余分な知識をつけないということ。
本やネットから最先端らしき情報を頭に入れて、
今、カウンセラーが何をしているのか、これから何をしようとしているのか、
今やっているコレに、なんの意味があるのか、
拙い知識で一丁前の耳年増になって、わかったような生意気な態度でその味わいを半減させてしまうのはあまりに勿体無い、と思ったのだ。

素っ裸で、自分と向き合ってみたかった。
メンタルの旅というのは、一生に一度きりだ。
もしかしたら、来世にも持ち越せない、魂の究極の体験。
一度わかってしまったことはもう、分からなかったあの頃に巻き戻すことは出来ない。
自分を知っていくということは、
今までこの人生で出会ってきたどんな名作、大好きな、尊敬して止まない大作にも敵わない作品に出会うのと同じ。
どんな有能なコンシェルジュにも秘書にも用意できない、私の望みや好奇心にぴったりと沿った、私専用の、究極の物語。
決して予測など立てられない、忖度の配役も、甘い脚本もない。
完璧な、それはまさに、神の御技を紐解いていくこと。


先日のカウンセリングで、
私が、それにしても6年やってまだ一つも自分のトラウマを見たことがない、と弱音を吐いたら、
ええっ!ちゃんと少しずつトラウマ解除、出来てますよ、とカウンセラーに驚かれた。
癒したいと思っている箇所が、それだけ深いんだねぇ、と言われた。
それでこっちが驚いた。

確かに事前の予備知識のない転校生のような状態でここまで来たけれど、私は何か、勘違いしていたのかもしれない、
と最近、新しい先生のセッションを受けるたびにびっくりする。

これだけは確かだとわかって来たことは、
人間のメンタルが氷山のような構造になっているということ。
私たちが普段感じている、「自分はわかっている」「自分は 自分で考えている」と思っている海の上にぴょこっと出ている表層意識は、意識全体のほんの数パーセントに過ぎない。境界となる海面は、岩盤のような蓋になって、海中に沈んだ表層意識の何倍もの大きさの深層意識を塞いでいる。

アインシュタインは、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクション」だなんて言ったが、
私たちは生まれ堕ちた瞬間から、時代時代に翻弄された大人たちに、家庭で学校で行きあう場所場所で、一般常識という名の観念を何層にも植えつけられる。
もう、子供の頃のものの考え方や自由さなど思い出せないレベルまで、自分の感情をコントロールして、我慢をする癖を身につけていく。
いい子になってお利口になって、時に我慢できなくなって反抗しながら社会に適応し、いつしか今度は自分が社会を形成する側に回っていく。
ムキになって、コレが正しいんだ、コレがこの子のためなんだって、次世代の意識に蓋を着けさせようとし始める。
そうやってとことん、自分というものを忘れてしまうのだ。


カウンセリングを始めて2年ぐらい経ったとき、私の意識の中で、ゴチャゴチャと散らばった枯葉や枯れ枝のようなゴミの下に、真っ白な固い床が見えた。
私はそれで、とうとう自分は、意識の一番下に到達してしまったのだろうかと思った。
まさか、と思いながら塵を払って良く見てみると、それは床ではなくて扉だった。
でも、ダンスフロアのように磨き上げられたその扉には、取手も入り口もない。
これはなんだろうと触ってみるうちに私は、二度と開かないよう、思い出さないよう、何度もパテで擦って鏡面仕上げにしたのが、かつての自分であることを思い出した。

それをツルハシで壊していく作業。自分を掘り下げるというのはまさに、埋蔵金探しだ。
それが壊れると、次第に下から、本当は感じていたのに無理やり押し込めた、過去からの怒りや恐怖が出てくる。
本当はこうしたかった、でも出来なかった。
なぜ、出来なかったのか。
そこに絡みついた、恐怖と怒り。
それを一つ一つやっつけていった先に、トラウマがある。

以前お世話になっていたカウンセラーの先生には、
「本当にそこにある感情が出てきたら、それはもうご両親なんて一瞬で吹っ飛ぶほどの怒りなんですよ」と言われた。
でも、私はここまで、それほどの辛さや怒りを感じたことがない。
頭や膝が痛すぎて身体的に苦しい、不快だ、と思うことはあっても、自分でも自分に驚いてしまうほどの激情には、まだあったことがない。
割と冷静に、ああそういうことだったのかって、出てきた感情を一つ一つ受け止めてきた。
むしろとんでもないことが分かってしまった怒りより苦しさより絶望より、
分からないままだったかつての苦しさから抜けられてスッキリして、
分かったことが嬉しくて、その後で見えてくる新しい見地に感動する気持ちの方が大きかった。

だからてっきり、こんなのは序の口で、トラウマなんて激しい感情が出てくるのは、まだまだまだまだずーっと先、
この雑多な恐怖や怒りをまずは取り払っていって、いつかまたあの真っ白の岩盤のような壁にたどり着いて、その壁を突破して始めてトラウマに行きあえるのだと思っていた。

自分はまだまだトラウマに到達できていない。
でも、そうじゃなくて少しずつ、怒りを出して恐怖を癒して、
腑に落ちて理解して、その度に、小さく小さくトラウマを解除していっている。
まだ、自分の心の中の構造について、掴みきれてない未知の部分がある。
でも、ちゃんと前には進めている。

それは、今年もまたいよいよ年の瀬が迫って来てしまったって焦ってばかりだった私にとって、とても勇気づけられる誤算だった。


先日、マドモワゼル愛先生のところで、座談会が開かれた。
今回のタイトルは「いよいよの時」
滅多に行われない有料のスペシャル配信で、それを私は毎回楽しみに視聴している。
3人の先生が登場しそれぞれのテーマでお話、その後3人での座談会となるので毎回なかなかのボリューム。ひと息には視聴しきれない。


今回、特に面白かったのは、「虚実」に関してのお話だ。
地の時代から風の時代に入ったと言われる昨今、では具体的に何が変わるのか、
わかっている人にはもう体感としてわかっていることだが、それをわからない人に説明せよと言われるとなかなかに難しい。

座談会でお話されたのは、例えば、について。
水や氷というのは私たちの目に見える、物質であり固体。
水というのは、今や世界の一大産業であり、次の戦争の引き金になるのではないかなんて言われる生命にとって必要不可欠な資源。
つまり、お金に換算できるものだ。

物質であるということは、掴める、触れる、目で見える、計量し、把握することができるということ。
しかし同時に水は、気体でもある。
空気であり、空間であり、目に見えないし、捕まえることも出来ない。

私たちが「そこにある」と思っている全ての物質とはそれと同様、実は常にその半分でしかないのだ。
私たちが物質やそのものの価値について判断するとき、判断の材料となるものは、
そのものを構成している素材の金銭的な価値でも、市場によって判断された価値でもない。
カッコいい、欲しい、価値がある、と私たちに思わせるものは、ただ一瞬のインスピレーション印象の方だ。
どんな一世風靡した芸能人も、高級ブランドも、
ひとたびその場に、だっさー…、という空気が流れてしまったらそれで終了、
一瞬にして錬金術が溶けてしまう。
つまり、”非物質と物質””虚と実”では、実は非物質、虚の方が力を持っているのだということ。
本当は、私たちの目の前にあるものは、経年劣化をしながらそこに存在しているのではなく、虚実の間を高速で点滅しているのではないか、という仮説。
誰かが作った価値のあるものが、ドンんとそこに存在するからみんながそれを認めるのではない。
私たちの意識こそが、物質を作り出している側だ。
ここを理解し、腑に落とし、そして思い出していく、そうして今までの価値観が反転していくのが、風の時代だ。

私たちが忘れ、とことんまで排斥して来てしまった「虚」の存在感が、戻ってくる。
大きな変革は多方面に及ぶだろうが、それはまずは、私たちの価値観、メンタルの変容に繋がる。

私は結婚しているが、プロポーズというものをされたことがない。
じゃあ、あなたがしたんですか、と言われるとそういうことでもなく、
ただなんとなくそんな雰囲気になって、そうなのかな、と思いながら学園祭みたいに慌ただしく準備して、それで現在に至る。
これそれをそろそろ準備しなければ、って私がいうと、
大抵、夫に「えー、自分にはよくわからないから」と言われた。
そうだろうな、と当時は思ったから結局、全部、私が一人で用意をした。
誰それさんにお祝いを頂いた、となった時に、
どこの店のどのくらいの価格のものをお返しするのが妥当なのか。
あるいは、誰々と会って挨拶する、となった時に、まさかスタバってわけにはいかないし、
じゃあどこならいいのか、って、どこかのレストランだろうが、じゃあどこならそれに相応しいのか。
まあ、あそこなら妥当だろう。これなら失礼に当たらないだろう。
そういう感覚が自然に身についているのは、単に私がたまたま東京の生まれ育ちで、親や友達とそういうことを日頃経験していたから知っていただけだ。
地方出身のまだうら若かった夫に、今ここでするりと最適解を出せ、というのは無理難題のように思えた。

だけど、準備に凡走すればするほど、説明することも解消することも出来ない、形容しようのない不満がふつふつと溜まっていく。
自分みたいな何もできない、何も持っていない、なんの価値もない人間と結婚したいと思ってくれるのだからもっと感謝しなくてはって、持てる怪力全てでその不満を押さえ込んで、私は一つ一つ課題をクリアしていった。
だけど、どうにもモヤつく。
これはどうしたらスッキリするのだろう。
それで、そうだきっと友達のようにちゃんとプロポーズされたり指輪をもらったりすればきっと自分はスッキリする、
ディズニーのプリンセスみたいな気分になれるんだ、と思いついた。
そこで、指輪はないんですか、と勇気を出して精一杯で言ってみた。
返事はいつものように、
「えー、だってどこで買えばいいのかとかよくわからないし」。

そうかそうだよなー…え?そうかな、そうなのか?
と思いつつ、いやいや、それはさすがに私にもわからないぞ、と思った。
それぐらい、フツー男が調べてなんとかするもんじゃないのか、と思ったけれど、どうしようもない。
とにかくこっちにとっては一生に一度の一大事だ。
どうにかして納得したい。
私はナシでいい派なんです、なんて振り切ってしまう潔さも持てなくて、
結局ネットで、自分の自尊心と遠慮のちょうどギリギリのラインを満たす指輪を探して来た。
値段は自分で決めた。
自分の人生に値段がつけられているみたいで、実に不愉快な制度だ、と思った。
なんだか本当に、泣きたかった。

それでもとにかく、見つけたものをプリントして、じゃあこれを買ってくださいと談判したら、
えー、こんなに高いの?って言われて、
アホか、こんなの友達の5分の1だよ!という言葉を飲み込んだ。
その瞬間、自分がどんな顔をしたのかは、全然覚えていない。
結局、嫌そうな顔をして買ってくれたのだけれど、
私の心は全く、なんにも満たされなかった。むしろ新たなモヤモヤが追加された。

あれはなんのためのダイヤだったんだろう。
本当に、アインシュタインも吹き出すほど、私の頭の中は余分な知識やいらない思い込み、バカみたいなことばっかりでいっぱいだったのだと思う。
なんであんなものが、当時はどうしても必要だ、と思い込んでしまったんだろう。
あんな高いものを買ってもらって、今となっては夫に申し訳なかったなと思う。

もう何年まえになるか、私が離婚したいと言っている、と聞きつけた両親が、家に乗り込んできたことがあった。
なんとか頭のおかしくなった娘を説得して、バカな選択をさせないように。
それで初めて、私が実はもう何年もカウンセリングを受けていること、今、自分のメンタルがどういう状況になっているのか
なんてことを初めて告白した。
それでも、両親の考えが変わるわけはないし、私のそこまで積み上げて来た現在地も変わらない。
話がいよいよ平行線になって煮詰まった時、母が興奮して泣きながら、
自分だって何度も離婚したいことなんてあった、でもその度に子供のためだと思って耐えてきたんだ。
そんな簡単に離婚だなんていうなら、私の人生はなんなのよ!
だったら私の人生、返してよ!と叫んだ。

今になると笑ってしまうけど、当時はまだカウンセリングも相半ばで、その場にいるだけで全身の骨がカタカタと鳴り出すほど怖かった。
「私の人生を返せ!」
それは、
「自分はこんな男と結婚して、こんな人生を送って、心底後悔している!」
って言っているのと同じだ。
それなのに、それを横で聞いている父は、「そうだそうだ、自分だってこんな女じゃイヤだった、わかるわかる」
みたいな顔して神妙に頷いている。
この人たちは、一体、何をやってるんだろう?
自分がやってみて、これは不幸な人生だと結論の出た人生をもう一度、愛する子供たちに無理やりなぞらせようとするのは、なぜなのか。

税金が高い。政治家が悪い。
そんな自分から遠く離れた不満は日々口にすることができても、
自分が自分の人生に不満を持っている、思い通りの人生を自分は生きることができていない、自分は不幸である、ということを、私たちは簡単には認められない。
それを自分で選んでしまった、ということを認めない。
それを認めたら、今こうして子供や孫に、
自分たちと同じような人生を生きることこそが正解なんだ、
そこから逸脱したらとんでもないことになるぞ、と
あれこれ「心配」「干渉」「サポート」し、なんなら常にはみ出し過ぎないよう「監視」している、
この甚大な作業こそが、美しい親の愛の証明だという彼らの信念に、盛大な矛盾が生じることになる。

自分の命を生きていない。
親が自分の寿命の先に、まるで絨毯を継ぎ足すようにして引いたその人生の上を、まんまと歩かされてしまっているということを、直視できない。
だから私たちは、不幸なのだ。
社会全体がそうだ。

ワクチンの時もそうだった。
あれに何が入っていて、何の何に対して効果が発揮されているのか。
どの物質がどこにどう対応しているのか。
特許を盾に中身を精査させない製薬会社によって守られている秘密なのだから、正確にはそれを、知っている人は誰もいない。
ただ、mRNAとかいう目新しい強そうな名前があり、専門家を名乗る人たちが出てきて、これには効果があります!と言い張っただけ。
あなたに親切な顔をして摂取を奨めてきたお医者さんだって、本当のところ自分が何を注射しているのかなんてちゃんと理解していない。

疑問がありながら、副反応が怖い怖いって言いながら、それでも謎の液体に向かって突き進んで、腕を差し出してしまうのは何故なのか。
動機は結局、突き詰めればただのお金だ。
自分の命よりも損得。尊厳よりも今目の前の生活を変化させないための、お金

ここまで自分は奴隷根性の従順さが染み付いて、
バカにされコケにされ、搾取されてむしりとられちゃっているのだ、ということを、認められるのかどうか。

日本では比較的緩やかな摂取に対する同調圧力も、海外では実際に職場を追い出されたり、スーパーに入れなかったり、
マスクをしていないと警官に押さえつけられて逮捕されたりした国もあった。
そのような強権的な圧力の中、それでも信念を貫抜くと宣言した人たちに、
陰謀論者は当時、SNSで惜しみない喝采を贈った。
アメリカのどこかの州の倫理学の大学教授が、摂取を拒否して大学を解雇された。最後に彼女が涙ながらに学生たちに渾身のメッセージを送った動画に、私も胸が熱くなって、思わずそれを、携帯に保存したなんてこともあった。
でもきっとこれから時代が変わって、価値観がひっくり返って、
そんな話も、もう、遠い昔話、
「え、嫌ならやめればよくね?逃げればよくね?笑」ってキョトンとされてしまう時代になる。
決して自分のためなんかじゃない、周囲のため、高齢者のため、お客様のためって歯を食いしばって摂取を選択した、崇高な精神を持っていたはずのあなたも、
「あなたは英雄だ!素晴らしい!」
なんて言われることは、もうない。
「え?なんでそんなことしたの?嫌だったんでしょ?大丈夫?」
って真剣に心配される時代になる。

梯子を外された時、あなたはどうするのだろうか。
それでも、打ったことに後悔はない、満足だ、というならそれでいい。
それはとても、幸運なことだ。
でも、せっかく打ったのに誰からも評価されない、褒められない、いい人だと認定されないことに少しでもモヤモヤするのなら、
その承認欲求と向き合わないといけない場面は、これからきっとやってくる。
どうして自分は、それを選択したのか、と。
どうして自分はそれを、すべきこと、正しいことだと思ったのか、と。

いつもいつも、進む方向が逆なのだ。
まだこれがある、まだ立ち直れる、まだ取り繕える、謝れば許してもらえる、って思っているうちは、
絶対に入り口は見つからない。
誰かに言われても、スーパー塾講師にマンツーマンで解説されても、この入り口は見つけられない。
見つけた私も、今から見つけたいんです、という人に説明しろと言われても不可能だ。
自分で自分の人生に絶望し、高慢な思い込みをへし折られること。
自分は今までこんなにもちっぽけで、こんなにコケにされているのも気づかないで、
ただ隣の奴隷よりもお豆を一粒多くもらったって威張っていっぱしの何某かになれたような気になって、調子に乗っていた。
そのことに気づいて、恥ずかしさに悶絶しながら地面に叩きつけられるしかない。
ここまでバカにされていた。
ここまで自分の人生を、無駄にさせられていた。

いやいやそうじゃない、自分こそが無駄にしていたんだって、
自分でその絶望の入り口に落っこちていくしかない。


マドモワゼル愛先生が座談会で、すごいことを言った。

希望のスロープは落ちる事しかできない。
まだこれがある、なんとかなる、とこだわっているうちは落ちている。最後まで落ちる。
希望のスロープは落ちることしかできない。
人間ができるのは、不安の柵を登る事だけ。
道がひらけないのは、まだ握りしめているものを、手放していないからだ。

そう、私はまだ怒っている。
握りしめている。
依存させられて、こだわって、抜けられないでいる。

先日、黒革の手帖という昔のドラマがたまたま目に留まって、興味を持った。
そういえばいろんな女優さんで繰り返しドラマ化されているらしいのに、一度も見たことがないし原作も読んだことがなかった。
この作品の、何がそんなに大衆を惹きつけるのだろう。
そんなことを思って見てみると、作品自体は結局私には退屈だったのだけれど、とにかく主演の山本陽子さんの美しい一挙手一投足にすっかり目を奪われてしまった。
しかし、姿形は確かに息をのむほど美しいが、どこかその作り上げられた所作には、お笑いじみたコミカルさがある。
彼女だけではない。周囲で熱演する登場人物の女性みんなが、そんな感じなのだ。
アハン、うふん、いやん、ンもう、みたいな脅しと駆け引き
それを受けて立ち回り暗躍する男優さんも然り。
こういうお転婆な困ったちゃんがきっと、お上品で可愛くて、妻を欺いても手に入れたくなる、男心を掻き立てる女性だったのだろうなって可笑しくなった。

そういえば、昭和の香り漂うこのわざとらしさや大仰さは、うちの母の姿に重なる。
こういうあり方がモテる女性のお手本だったし、かつては厳しい男性中心の社会を渡り歩くための当たり前の処世術だったのだろう。そんな女性が、野心を持って男社会に挑み見事にズッコけて散っていく刹那…多くの人の心を捉えるのはそんな姿なのだろうか。
しかし、現代にもしこんな女性がいたら、ただのやばいメンヘラだ。
でもこのやり方いっぺん通りで生きてきた人が突然、「うわぁ何こいつメンヘラ」とか言われてドン引きされても、
こんなに可愛くてちょっとこじらせててみんなが気になっちゃってついつい
手を貸したくなっちゃうそんな私が、どうしてキモ、なんて言われるの?
「ヤダン、もう、いじわるぅ」なんて反応以外、やり方もわからなくて、大混乱するだろう。
そんな風に想像すると、もう時代は変わってしまったのに、って気の毒になってくる。

マグロは泳ぎ続けないと死んでしまうなんていうけど、
こうやって時代に、変化に、価値観の変容に取り残されていくと言うことは、消滅を意味する。
だから私たちは消えてしまわないために、今に満足しないで変わり続けるしかない。
観念を振り払って、本当の顔を隠すためにかけまくっていたメガネを、一つ一つ覚悟して取り外していくしかない。
そして、自分に戻っていく。

パチンと自分に焦点があうたび、私たちは強くなって抜け殻を後にして先に進んでいける。なんだ、こんなことやってたんだ、ってそれまでの苦しんでいた自分を、笑って振り返ることができるようになる。
そのパチンと体験の素晴らしさは、やってみた人でないとわからない。
それを体験をした人でなければ、「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである」なんて言う境地には至れない。

そして多分、その推進力を持っていない人は、マグロ同様、風の時代についていかれない。

及川幸久✖️石田和靖対談。
多くが気づいていないけれど、すでに私たち日本人は国際社会のマイノリティだ。



カウンセラーの先生に、トラウマの解除はちゃんと進んでいる、とは言っていただいたけれど、私の気持ちは未だ、全くスッキリしていない。
そのことをカウンセラーに話したら、それはどんな感情ですか?と言われた。

親に絶縁すると言われたのが、今からちょうど1年前のこと。
私が、わかりました、今までお世話になりましたと返信してからこの1年、母は繰り返しその自分で始めた絶縁を撤回させて、なんとか私の悪いところを改めさせて関係を修復させようと、私を罵倒する気狂いじみた長い長いメールを繰り返し送って来た。
そして母からメールが来るたびに、私は眼球が陥没するような頭痛に苦しんで寝込んでしまう。

自分の頭の中で、自分を批判する声がうるさくなって耐えられなくなると、
母は私の悪いところをなんとか探してほじくり出して攻撃する。
誰かを攻撃している時、その人は、自分は絶対的な正しいポジションに立っていると言う安心感に浸ることが出来るからだ。
だから私はいつでも家族の中で、危なっかしくて、心配ばかりさせ、簡単に何かに洗脳されて自分たちと違う狂った道を選びそうになる困ったちゃんでいなければいけない。
そして母の言う通りの行動をとって、態度を改め、母の不安を解消してあげることで母のメンタルは落ち着きを取り戻す。
母の望み通りのいい子ちゃん以外の微かな兆しを見せようものなら、また同じことの繰り返しだ。
典型的な、機能不全家族の構造が、私には今、はっきりと見えている。


いつも、何か言うと黙ってしまって、思っていることを言わない、って言われてきた。
確かに、私はすぐ黙ってしまう。何をされても、言いたいことを我慢してしまう。
それで相手は、ああこれくらいなら別に怒ってないんだ、何も起きてないんだ、こんな感じの扱いでOKなんだ、
って、みんな私の身体の上を土足で踏みつけて通り過ぎて行く。
そしてもっともっとって、私の内側からエネルギーを搾取していく。
それでも私は、悲鳴もあげない。ますます口を真一文字にして黙ってしまう。
もうそれが、癖になっている。
だって何か言えばまたそこから言質を取られて、ほ〜らまたそこが頭がおかしい部分だ、洗脳されてる宗教だ、そこを直せ、あれを直せって
プライバシーもなく、部屋の中、SNSの中、頭の中まで踏み込まれるだけだ。
そして何時間も、心配してあげてるという名のお説教が続く。

大好きなものも、信頼した人も、尊敬した何かも、救いを求めた対象も、バレれば全て、悪口の限り罵倒されて取り上げられて来た。

今だって本当は、この匿名で書いたnoteも、以前私のSNSのハンドルネームを特定してストーカーしていたように、情報が遮断されてしまった今度は興信所でも使って探し出して、
「お前の頭の中を見てるぞ、全部知ってるぞ、お前の悪行を全て把握しているぞ」
って連絡が来そうで怖くなる。
娘はもうこの数年学校には通っていない。
フリースクールからの帰り道、今日、知らない人に写真を撮られたかもしれない、なんとなく嫌な感じがして顔を伏せて隠した、なんて話を聞くと、(母の頭の中はいま、孫娘ではなく孫息子のことでいっぱいなのだからそんなことはあり得ないのに)母がそれを嗅ぎつけて、興信所を使って私たちの日常を調査しているんじゃないか、ってそんなことが一瞬頭をよぎってしまって、吐きそうになる。

はたから見れば狂気の母だが、あちらは「娘が狂気になって自分を拒否している」と言うストーリーを手放すことはない。
娘の狂気を直させてあげてアドバイスしてあげて、真っ当な道に引き戻してあげる。普通の人ならとっくに諦めるこの大変な状況を、それでも自分は諦めない、
なぜならそれだけ自分が、特別に愛情深い人間だから、というストーリーから離れられない。
そしてその異常な状況に、父や兄が手を貸して助けてくれることはない。
だって私をスケープゴートにして、我が身を守ることで必死だから。


本当は、親子の情愛、母親の愛なんて、
私たち全員が挑み乗り越えるべき、呪いなんじゃないだろうか。
親だから、きっとそこには崇高な愛がある、無償の愛がある、って子供はそれを夢見て期待して信じようとする。
自分のお腹を痛めた子供だから、私はこの子をこんなに愛している、
自分のこの激情こそが真実の愛、子供が受けとめるべき、泣いて感謝すべき愛なんだって、親はそれを信じ込んでしまう。
それは、人類にかけられた、私たちが全力で解いていくべき呪詛なんじゃないか。

私にはもう分かっている。
本人は決して認めることはできないだろうが、母の「心配」の根底にあるものは、どうしても私に幸せになってほしくない私に自由になってほしくない、という思い。
つまりただの嫉妬だ。

そんなことはあり得ない。
自分はこんなにもいい人だから、一生懸命な母親だから、だからあなたを心配していってあげてるんでしょ?
どうしてこの深い深い子を思う真剣な愛情が、わからないんだ。
確かに酷いことは言ったけど、それはあなたのためを思って言ったんだ。
それなのにそんな酷い態度をとるなんて、一体、どこの宗教に引っかかったんだ、誰に洗脳されているんだ。

そうやって、自分の内側をごまかした時点で、
もうそれ以上、何をいっても通じない。
ああそうですか、そうなんですね、ってコミュニケーションの電線はぷっつりと途切れてしまう。
どうしてその、自分は誤魔化している、話をそらしている、って感じる、自己分析するためのアンテナが、みんな揃ってぶっ壊れているのか。
希望のスロープにしがみついて、なんとかそれを登ろうとする。

苦しい。
そばにいて欲しい。
あなたが私を分かって、あなたが私を好きになって、あなたが私を癒してほしい。
自分じゃ何とも出来ないから、する気もないから、だからあなたに助けてほしい。
あれこれ屁理屈をくっつけて、子供みたいなわがままを言っているだけ。
でもそれが屁理屈だと認めたら、私に助けを求める正当性を失ってしまう。
その苦しさとは、本当は親も子もない、ただ立ち止まって、自分自身で、たった一人で向き合わなくてはいけないものだったという現実がやって来る。
本当はシンプルなことなのだ。
だから認めない。親子なんだから、娘なんだから、彼氏なんだから、親友なんだから、嫁なんだから。だからあなたは自分にこんな態度をとるべき、自分の心配や不安を和らげるように私に対して気を使うべき、って変な観念を持ち出して正当化する。
そうやって、恐怖を与え、罪悪感を与え、相手をコントロールして脅迫して、気持ち悪い仲良しごっこ以外のコミュニケーションが出来なくなる。

だから私たちの社会には、高いブランド物をプレゼントされたら愛されてるとか、
お皿を洗ってあげたからいい旦那さんだとか、
お正月にみんなで集まったから仲良しだとか、
オムツを替えてあげたからイクメンだとか、
デッカいダイヤの指輪をもらったら幸せだとか、
そんな表層をなぞったような気持ち悪い仲良しごっこが、平気で蔓延っていくのだ。

自分には全然関係のないことであっても、
誰かの本音を聞くと、心が震えるのはなぜだろう。
私は誰かと本音で話したい。
素朴で素直な言葉で、ただ感情をやり取りしたい。
今、目の前のこの人と、気持ちがちゃんとつながっている。理解できる。
魂が震える瞬間って、そういうものじゃないのだろうか。

こうして不安に怯えながらnoteを更新するたびに、
分かれない自分の本音を一つ一つ言語化してみるたびに、
もうどうせ外に吐き出しちゃったんだからって開き直って、一つ一つ私は強くなる。
だって誰がなんと言おうと、変わらない。
母に文句を言われたって、警察が来たって、家族や社会から追い出されたって、ナイフで脅されたってもうどうしようもない。
それが私の、私だけの、たどり着いてしまった真実なのだから。


それは、どんな感情ですか?
カウンセラーに聞かれて私は自分の胸に手を当てて考える。
「怒りです。
でもその奥にあるのは、悲しみです」

カウンセラーの先生はは大きく一つ息を吐いていった。
「それは、カウンセリングどうのっていうより、テーマだね」と。

カンセリングで出来るのは、トラウマをなくして囚われ、苦しさのないゼロポイントに戻すところまで。
そこから先は何処に行くのか、囚われのなくなった、他人の人生を生きなくなった空っぽの自分とは、一体何者なのか。
それを、自分で探しに行くんです。
カウンセラーの厳しい言葉は、むしろ私を舞い上がるほど明るい気持ちにさせる。
どうしたら私は、この孤独や悲しみを感じなくなるのか。
私だけに用意されたこの旅には、まだまだまだまだ奥深い続きがある。


私に、絶望を味あわせてくれた人。
私に、感動を味あわせてくれた人。
大根役者は、一人もいなかった。
こんな程度で簡単に絶望してしまう私に、過剰な苦しみを与えないでくれた、今まで出会った人たち。
薬を飲まされたり、完全に自分を見失ってしまったりしないで、なんとか今ここにいる。
ちゃんとこの世界は、私にぴったりに出来ている。

2ヶ月おきに母から酷い内容の長い長いメールが来るたびに、毎回酷い頭痛になって寝込んでしまっていたけれど、つい数日前、少し短くなったメールが来ても、私の頭はもう痛くならなかった。
怒りはまだ内側にくすぶっているけれど、あんなに怖かった母の存在がここに来てだんだん、山本陽子に見えて来た。冗談みたいに古臭い、昭和のギャグみたいに見えて来た。
この調子で頑張れば、もしかしたら来年はいよいよ本丸の、父親という呪詛に取りかかれるんじゃないか。
そんな希望が湧いて来た。

ただ、これを経験してみたい、って思うことに向かって素直にまっすぐになっていけばいいだけだ。
私自身が、私は楽になった、自由になんでも選べるようになった、さあ出発しよう、と思えた時が、ようやくゼロ地点。自分探しのスタートだ。
白衣を着た研修医が、患者さんには言わないで、ずっと前から一人前ですみたいな顔をして医師としての初日をスタートする、みたいな感じだろうか。
楽しそうだ。


本音で話せると、それは私の魂を震えさせる。
全ては振動だ。
その人に私がどう思われるか、なんてどうでもいい。
ただ、私がその人を、どう思っているか。

私はあなたの顔が見れることが、あなたの声が聞けることが、うれしい。

私の声は、まだ出ない。
それでも2024年こそ、自分の言葉を話せるように。
周囲を私の声で、振動させられるように。
気持ち悪い音ばかりで構成されてしまっているこの社会で、それが当たり前になってしまったこの世界を、
私の音で1ミリずつ、1ミクロンずつ、変えていけたら。

そんな世界を、見てみたいなと思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?