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死ぬ前に感じること。をグリーフケアの視点で読んでみました

年末、緩和ケア医であり、腫瘍内科医でもある西智弘先生が、こちらの note をアップされていました

内容は、死に向き合う現場の方々が、死を目前にした人から感じられるちょっとした変化や感覚、匂い、その人を取り巻く空気感などの情報を西先生がツィッターを通じて呼びかけられ。そこで集まったものをまとめられたものです

こちらを読むと、いわゆる死の臨床現場いる方々が日々、さまざまな「ちょっとした変化やサイン」を感じ取られていることが分かります。と同時に、それらを感じ取ったものの、いずれ遺族になられる方々と上手く共有出来ない難しさやもどかしさがあることも、伝わってきます

それはそうですよね。そうしたサインを感じ取ったからといって、ご遺族になるだろう人たちに向かって「あの患者さんはあと数日で亡くなります。遺あなたは遺族になります。それは赫々云々こういうサインから分かることでで・・・」なんてこと、軽々しく言えるわけがありません

その意味で、実は死の臨床に向き合っている方々が、実は現場でこんなことを感じ取っているんですよ、と言語化して下さったことには、とても大きな意味があると思っています

「ひとはこうやって死んでいくんだ」

これを生きている側、生き続けていく側が知ることは、とても実は大事。またそうした情報が SNS で知ることが出来るのも、わたしは良いことだと思います

グリーフケアやそのサポートを通じてご遺族となった方のお話を聞いていると、後から、実は死の間際にこんなことがあった。もしかしたら、あれが死の兆候だったのかもしれないというお話を、伺うことがわたし達もあります

先日もわたしのデスカフェで、ある方が「あれがきっとお迎え(現象)だったんでしょうね」というお話を聞かせて下さいました。実は患者さんの周りにいる方々も感じ取っていることがある。ただそれが、そうした方々と医療の現場にいる方々との間で、十分に共有されていないのだと思います

ここはもっと、共有が進んでもよいのかもしれません。お互いの心構えとしても…

わたしは死の臨床の現場にいないので、こうしたサインを観ることはありません。たとえ肉親などを通じて観たとしても、その時には気付かず。後になって「あぁ、あれがそうだったのかも…」となるのだろうと思います。仮にそれらに気付けなくても、そこに良い悪いはありません

ただあの時、あれがその死に向けたサインだったんだね、と身近な人同士で伝え合い。知らない人同士でも共有し合うことができれば、それは自分の中にあるグリーフを認め。亡き人との関係を再構築していく上でも役立つのではないかと思います

西さんの note を読みながら、そんなことを思いました。。

デス・カフェ@東京主催。ヒトやペットの区別をしない、死別・喪失のサポート、グリーフケアのお話をしています