身近な人が「死にたい」と言ったら その2 / なぜ人は子を生すのか その2

身近な人が「死にたい」と言ったら ( https://note.com/grin/n/n915e77f8a7fc )
なぜ人は子を生すのか ( https://note.com/grin/n/ne4b1f6b7fa0e )


人生の意味

 人間はなぜ、なんのために生きるのか。人生の意味とは何か。
 数千年ものあいだ、人はその事を考え続けてきた。数え切れないほど多くの天才的な哲学者や作家や学者や宗教家が生涯をかけてその問いに取り組んだ。にもかかわらず、最終的な結論はいまだ出ていない。誰もがなるほどと言って膝を打ち全面的に支持するような究極の答えはまだ見つかっていないのだ。しかしそれはごく順当な結果なんではないかと私は思っている。

 ある問題についていくら考えても満足のいく答えが出せないとき、考えられる理由はいくつもある。それは、
 1.「答えを導き出すために必要な材料が不足しているから」
 2.「考えが足りない、または考え方が間違っているから」
 3.「問題そのものに欠陥があるから」
 などだ。このうち、人生の意味について考える天才たちの邪魔をし続けてきたのは、主に3番めの理由なんではないかと思う。



人間とは何か

 人間という語は「全人類」を指すものだという認識が概ね共有されるようになったのはようやく現代になってからだ。それまでは公然と奴隷制度が運用されていたりごく一部の階級の者が理不尽な強権を思うがままに発動していた時代が長く続いた。そうした世相の中では「人間のようで人間ではない」存在が普通に認知されていた。

 たとえば南北アメリカ大陸を発見したヨーロッパ人は原住民をこっぴどく虐げたがそれは、敬虔なキリスト教徒でもあった征服者たちが未知の大陸の住人を悪魔の信徒だと見做していたせいだという説がある。
 当たり前のことだが南北アメリカ大陸発見以前の地図にそれら新大陸は描かれていない。全知全能の神が作り給うた世界に未知の大陸など本来あってはならなかったのだが、まずいことにそれは発見されてしまった。そこで困った教会は苦肉の策でこう言った。
「新大陸を作ったのは神に追われて逃亡した悪魔だ」
 かくして新大陸の原住民たちはある日突然身に覚えのない罪を着せられ、人を人とも思わないたいへんひどい目に遭わされることになったのだという。

 現代でも一部の独裁国家や内戦状態にある地域などではたくさんの人が「人間のようで人間ではない」ものとして扱われている。そのように時代によって地域によって、人間の範囲や定義は違う。だが先人たちの知恵を学ぶときにそういった時代背景までを意識することはあまりない。そこで誤解が生じ、知恵の継承に失敗するということは大いにあるのだろうと私は考えている。


 人間とはこの世の全人類のことだ、と前もって規定して思索を進めるにしても、そうすると今度は別の問題が生じる。人間は動物と比べてあまりにも多様すぎるのだ。

 肌の色とか言語とか、そういった階層の話ではなく内面の話である。人間の内面はあまりに複雑で奥深い。生物学的にはみな同じ種なのだが、内面まで含めて見てみれば一個人と一個人の違い、隔たりには途方もないものがある。
「人間」という枠は、このてんでバラバラなあらゆる個人をまとめて扱うための単なる便宜的な、弱々しいものでしかない。

 とんでもなく広い「人間の枠」の中を見渡してどうにか共通すると思しき要素を見出しその総体を人間として設定しそれをもとに思索してみても、ごく薄っぺらい当たり障りのない答えしか出せない。そこで想定されている「人間」からは内面の複雑さと奥深さのほとんどが削ぎ落とされているのだから当然である。

 かといってたくさんいるバラバラな個人の中から抽出したひとり~数名の対象に限って深く掘り下げて考えていってもそれでは広義の「人間」に当てはめられるような成果は得られない。
 世界中の人間の複雑さと多様さをすべていちどきに取り扱えるような神のごとき知性がなくては、真の答えは出せないのだ。

それでも、抜群に天才的な知性を有する超人たちは人間の生の意味は何かという究極の命題にこれまでずっと果敢に挑んできたし、その努力は今も続けられている。いつか彼ら彼女らのうちのひとりが、今まで誰も思ってもみなかったような素晴らしく完璧で美しい正答を見出す可能性はゼロではないかもしれない。

 または、人間が水質改善に寄与する微生物群を特定して利用するように、人間よりもっと高度な種族やAIが人間に対して何らかの役目を授けることで我々みんなが人生の意味を知ることになる日がもしかしたら来るのかもしれない。

 だが凡人で老い先もそんなに長くないであろう私はここらでこう結論付けさせてもらうことにする。
「全人類に共通する人生の意味なんかないのだ」



人生の価値

 ここに2人の男の子がいる。仮にAくんとBくんとしよう。2人ともつい今しがた生まれたばかりだ。

 Aくんは生まれつき体が弱く、家庭環境にも恵まれず、貧困と親の無理解のために十分な教育を受けられず、若いうちから昼夜となく働き詰めに働かされ過労がもとで若くして命を落とした。
 Bくんはすくすくとなんの問題もなく成長して大人になり、事業で成功して巨万の富を得て幸せな家庭を築き多くの人々から敬愛されて、最期にはたくさんの家族に囲まれ眠るようにして老衰で死んだ。

 Aくんの人生の価値はどれくらいだろう。
 Bくんの人生の価値を100としたなら、いったいいくつくらいになるだろう。

 それぞれの人生の価値には差があるということを、前提として渋々認めながら人は生きている。しかし、「自分の人生は他の人の人生と比べてあまりにも不幸すぎるから死にたい」と身近な誰かが言ったなら、とたんに違ったことを言い始める。そんなことないよ、みんな同じだよと言う。嘘だと自覚しながら。

 しかしその嘘を嘘でなくする方法はある。それは先述した例でいうと、AくんとBくん両方の人生の価値を0とすることである。

 それはあまりにも無茶で乱暴すぎないかと思われるに違いないので言い方を変えよう。

 価値というのは比較で決まる。しかし先述したように、個人というのはそれぞれがまったく異なった独自の存在だ。複雑であるからこその個人であるのに、比較をするためにはまず単純化しなくてはならないがそれではきちんと比べたことにはならない。この矛盾に出口はない。
 個人そのものと同じく個人の人生もまた大いに複雑であり唯一無二のものだ。どちらも比べられるものではない。

 宇宙全体を俯瞰する神のレベルまで視点を上げて「人の人生なんてどれも大差ないよ」とうそぶいてみても無駄である。
 人は神ではない。私たちは等身大の視座を捨てられない。自らの容姿に自己嫌悪しか抱けない人とハリウッドセレブの人生は大差ないか。数分しか生きられなかった赤ん坊とビル・ゲイツの人生は大差ないか。
そんなわけはない。

 大差ないどころではない。大ありだ。差がありすぎて比べられない、比べる意味すらないのだ。人生の価値という尺度自体が、本来成立し得ないものなのだ。

「人生に価値なんかない。なぜなら人生の価値を評価することは自分にもできないからである」



人間はどこにいるのか

 どこにもいないと私は思っている。
 人間というのはある生物種の名前だ。だがそのうちのある一個体を無作為に選んでその内面までも含めてよく見ていけば必ず人間離れした部分はいくつも見つかる。
 人間としてのあらゆる特徴を備え全ての面で平均値を逸脱しない、なんの異常性もない、完璧に人間らしい人間という存在を私はイメージできない。

 人間とはこうしたものだという生きた実例として一切の過不足がない個体。それは経済人(完全なる経済的合理主義者)と同じくらいナンセンスで異常な存在である。
 人間という種の中の一個体が持つ独自性は著しく、もはやそれぞれが独立した単体の異形、容易には把握できないバケモノのように私には見える。そしてそれは私も同様である。私たちは皆バケモノなのだ。

 真に、人間のようで人間ではないもの。それは差別的に扱われる一群のことではない。それは私たちのことだ。人間という種を構成する全ての個体のことだ。
 人間だから。人間なのに。そう考えることに実は意味などない。それほどまでに私たちは異なっている。

 未知の生物どうしのように私たちは関わり合うべきなのだ。やたらと同一視したがってはいけない。勝手な先入観でもって相手をわかったような気になってはいけない。持ち前の尺度は他者に対して役には立たない。

 私たちは本来的に孤独なのだ。だから同じだと思い込める相手を無意識に探す。だが思い込みで自分を騙してもかえって扱いようのない孤独感が増すばかりだ。

 知らないならまず一様に尊重だけはしよう。そのうえで関心のある相手に限って個別的に慎重に関わり方を探ってゆく。そうした人間関係は構築が難しいが、私たちは生まれつきひとりじゃないなどという安易な幻想とは違って多くの確かなものを与えてくれる。

 自分自身に対しても、人間だからとか人間なのにとかいうふうに型にはめようとする考え方は無意味だからやめたほうがいいと思う。のだがそれはとても難しい。なぜか。

 人間などというバラついた曖昧で広すぎる領域から、なぜ誰もが幸福や成功の似通ったイメージやモデルを掴み出してしまうのか。それこそが千差万別な私たちを生きづらくさせる原因であるのに。



なぜ人は子を生すのか

 多くの人は自分の人生には何らかの意味があると信じて人生の途中までを生きる。だがやがてその信念を支える若々しさは枯れはじめ、夢見心地も覚めてくる。
 誰よりも特別だったはずの日常や未来はその他大勢のそれと何ら変わらない色に落ち着き、無限だったはずの可能性はいつの間にか悲しいほどに先細りしている。すると少しずつ不安感に囚われるようになってゆく。

 もしかしたら人生には意味なんてないんじゃないだろうか。自分という存在にもたいした意味なんてないんじゃないだろうか。今まで自分が信じてきた希望は本当にいつか報われるのだろうか。自分の人生の意味を生きている間に見つけることなんてできるんだろうか。そう思って恐ろしくなる。

 いっそのこと、人生には意味なんかないんだと認めてしまえばいいのかもしれない。でもそれはそれでまた恐ろしい。

 意味を求めて生きても落胆が待っていそうで恐ろしい。かといってこれまで続けてきた人生の意味探しをやめてしまっては先行きが何も見えなくなってしまいそうでやはり恐ろしい。

 その葛藤と不安から逃れるために一番効果的なのは子を生すことだ。
 生まれた子が観念的な話も理解できるような年頃になったらこう言ってやるといい。
「人生には大きな意味がある」
「あなたは価値ある存在である」
「がんばれば夢は叶う」
「生きていれば必ずいいことがある。幸せになれる」

 これで幾ばくかの安心は得られる。自分自身は憔悴と幻滅から抜け出すこともないまま生を終えるしかないつまらない存在なのかもしれないが、人生の意味をちゃんと見つけられるかもしれない次の世代を世に送り出すことはできたのだから。もしかしたらこれこそが自分の人生の意味だったのかもしれないと一応の納得をすることもできるだろう。
 このようにして、人類は代を重ねてきたのだ。



祝福と呪い

 子どもには希望を持ってほしいと願う。それは自然なことだ。子どもが持つパワーと可能性にはついつい期待をしてしまうというのも無理からぬことだ。
 子どもに対して世の中のネガティブな面だけを刷り込もうとするのは明らかに虐待だろう。しかし逆はどうか。

 希望だけを与えられた子ども。明るい未来が約束されていると信じて疑わなかった子ども。彼ら彼女らが成長し生きていく中で「失敗した」と強く自覚した瞬間に、呪いは発動する。

 自分は意味深いはずの人生の時間を無駄にしている。他のみんなは着実に人生の価値を積み上げていっている。焦り、自分なりに努力しようとするがうまくいかない。そもそも活力が湧いてこない。そんな自分に幻滅する。許せないとさえ思う。周囲との差は広がる一方でもう追いつけない。何をしても取り戻せないものが多すぎる。誰と居てどこへ行って何をすればいいのか、何もわからない。自分はたぶん取り返しのつかないことをしてしまった。最初からやり直したい。それができないなら、もう死にたい。死ぬしかない。


 言い方は悪いが、次世代に望みを託すというのは、「諦め」の形のひとつだ。
 だからこそなのかもしれない。「諦め方」をきちんと教えられない親が多いのは。
 希望や夢だけを見させておいて諦め方を教えないのは、ときに命さえ奪いかねない強烈な呪いが待ち受けている地に、まるっきり無防備なままの子どもをせっせと送り込んでいるようなものだ。恐ろしいことだと思う。



人生とは何か

 明確で大切な意味のある、輝かしく希望に満ちたフィールドか。違う。
 約束された幸福と成功と価値ある何かを拾い集める収穫地か。違う。
 生まれた瞬間に決められた角度と速度で打ち出された後はただ惰性で飛ぶしかない出来レースか。違う。
 傷つけられ奪われ損なわされ嘆き悲しんでも許されることのない地獄か。違う。

 人生には何もない。少なくとも何も決まってはいない。
 人生とはなんの課題もない自由時間だ。しなくてはならないことなんかない。してはならないことだって本当はない。誰もあなたを採点できず、裁定もできない。
 望むなら何をしてもいいし何もしなくたっていい。死ぬことだって自由のひとつだ。

 夏休みの課題が何もなかったらと考えてみよう。したいことをする。したくないことはしない。誰でもそうする。反対に、ボクは夏休みいりませんなんて、誰が言うだろうか。

 人生には何もない。あるとすれば時間か。長いような短いような人生の時間。それをどう使おうが自由。どう捉えるかは自分しだいだ。


 私はというと、昔と違って今のところ死ぬ気はない。今後歳をとって生きる辛さが生きる楽しみに対して荷が勝ちすぎるようになったらわからないが、とりあえずは生きるつもりでいる。
 貧乏で家庭もないが、裕福な家庭持ちとも同じ目線の高さでいられるからなんのストレスもない。ほくほくできるような資産も盤石な地盤も将来の展望もなんにもないけどなるようになるしなるようにしかならないだろう。
 私という存在は一体きり、一代限りのバケモノだ。誰とも比べられない唯一無二のバケモノとして私は人間の星の人間の国の人間の町で生きているしこれからも目立たぬように生きていく。それが案外幸せでもあるからだ。

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