差別との戦い その6(おわり)

差別との戦い  その1 ( https://note.mu/grin/n/nac0efe9fb15c )

差別との戦い その2 ( https://note.mu/grin/n/n953098a7ceff )

差別との戦い その3 ( https://note.mu/grin/n/n3042005d8b02 )

差別との戦い その4 ( https://note.mu/grin/n/n7b66b740d332 )

差別との戦い その5 ( https://note.com/grin/n/na9bc4d7752a5 )


 反省している。いくらなんでも話が長くなりすぎた。回り道をするのはもうやめよう。この長ったらしい記事で私が言いたいのはつまりこういうことなのだ。

「今悩んでいるゲイのあなた。あなたを本当に悩ませているのは誰ですか。ゲイバッシングを繰り返す赤の他人ですか、それとも親やきょうだいや親戚ですか、友人や同僚ですか、会社や学校ですか、地域共同体や国や社会ですか。ひょっとして、それって実はあなた自身なんじゃないんですか?」



 人の心には、他者を内在化するという働きが備わっている。それは道徳だとか常識だとかを獲得するための大事なプロセスである一方で、悪い例をあげると毒親問題なんかにも大きく関与している(私もそれで長年苦しんでいたクチだ)。
 自分の人生がうまくいかないのは親のせいだとたいがいの毒親っ子たちは主張しがちでまあそれもあながち的外れではなかったりもするのだが、ことはそれほど単純でも一方的でもない。

 たとえば進路選択の場面。自分が本当に選びたかった道を親のせいで選べなかったと言う毒親っ子たちはとても多いのだが、大抵の場合その決定的な場面に親はいない。自分ひとりだ。

 親がその場にいなくたって、親の間違った養育態度のせいで自分の認識や判断基準はすでに歪んでしまっており、そのために自分的に最良の選択ができなかったわけなのでやっぱり親が悪いんだというのはまあその通りと言えなくもないのだが、その歪んだ認識や判断基準を保持し現実に運用している主体はどう見てもあなたである以上、その選択の結果を受け入れるべきなのも結局あなた自身なのだということになる。
 人生において重要な選択の場面であなたはあなた自身の欲求よりもあなたの中に内在化された親の意向のほうを尊重してしまった。親も悪いが、実際に選択を行ったあなたに責任が生じてくるのは結果的・現実的に仕方のないことなのだ。

 とはいえ、毒親の問題点は子の人生を私物化しようとするところにある。当然そうした親に育てられた子には自分が自分の人生を確かに生きているという実感が足りない。自分の人生もどこか他人事なのでそこから生じる喜びも苦しみも100%自分のものとして味わうことができないし、いつも他者(主に親)の意向によって簡単に動かされがちである。そして自分の声よりも内在化された他者の声のほうが大きい状態なのだがかといって自分の声を完全にオフにすることもできないので、そこに苦しみが発生する余地が生まれる。

(※本記事では毒親問題のごく一部にしか触れることができない。毒親は様々な方法(たとえば「この学校以外に進学するなら学費は出さない」と言うなど)で子を操作しようとするのだが毒親問題については今後別の記事で取り上げたいと思っているのでここはひとまずご容赦願いたい。)


 これと似たようなことが悩めるゲイの心のなかでも起こっているのではないかと私は思っている。この場合内在化された他者というのはゲイに対してネガティブな反応を示す世間の人々であろう。その人たちがいかにもしそうなイヤな言動や態度を、自分の頭の中で延々と想像しリピートし続けていたらそれは苦しいだろうし死んでしまいたくもなる。
 しかし、なぜそんな苦しみを自分に強いてしまうのだろうか。どんな時も、自分だけは最後まで自分の味方であるべきなのに。

 それは、自分というものがまだしっかりと統合されていないから、自分とはいったいどういう存在なのかというイメージをまだ一つに絞りきれていないから、ではないだろうか。先述した内在化された他者(の考え方など)にしても、内在化されているのだから出どころはどうあれ今や自分の一部である。自分という存在はそのような、思いがけないほどたくさんの自分の総体なのだ。

・男性のことが好きで男性的な特長に性欲を如何ともしがたく刺激されてしまう自分。
・そんな自分は人の道に外れた存在なのだと常に自分を罰し制限し続ける自分。
・ヘテロセクシャルの人を羨み自分もそうでありたかったという後ろ向きな願いをいつまでも断ち切れずにいる自分。
・どんな偏見を受けてもいつでもどこでも毅然として自分らしく振舞うべきではないのかと思う自分。
・自分が選んだものでもない性指向のせいでなぜこんなにも苦しまなくてはならないのかと憤り犯人探しをせずにはいられない自分。
・ゲイだということがバレるような言動をしてしまっていなかったかを何度も何度も過去を反芻し確認し続けずにはいられない自分。
・(自分も含めた)同性愛者と同性愛に関係するすべてのものが嫌いで憎悪している自分。
・差別される側にいたくないがためにネット上などでは差別する側に回ってしまうこともある自分。

 このように、自分というものは一つではない。誰でもそうだ。心の内側だけでも千差万別の自分がいるし、心の外側(現実世界)との相関で生まれる自分もこれまた無数にある。人からはこういうふうに見えててほしいと願っている自分のイメージと鏡で見た自分、親から見た自分、恋人から見た自分、友人から見た自分、同僚や学友から見た自分、見ず知らずの他人から見た自分などなど、それらも全て自分なのだ。
 そうした数え切れないほどいる自分の振れ幅が、ブレが、少なければ少ないほどその人は安定する。ゲイが自分の性指向をカミングアウトしたいと思う理由も実はそのあたりにあるのかもしれない。

 自分像の振れ幅というのは要するに守備範囲のことだ。当然それが狭ければ狭いほど対処するべき打球は減る。また自分の振れ幅とは、自分という存在の嵩(かさ)であるとも言える。大きいほうがよさそうな気がしてしまうが、あまりに自分の存在が肥大化してしまうとそれはそれで生きづらい。いろんなところにいちいち引っかかったりぶつかったり圧を受けすぎたり狭いところは迂回しなくてはならなかったりで苦労が絶えない。自分の嵩は適度にコンパクトであったほうが楽に進んでいけるはずだ、というのは想起するに難くないイメージなのではないだろうか。


 自分というものがブレていて、何が本当の自分かわからない。そういう状態だと、耳目に捉えた様々な他者の声の多くの部分を自分と関連付けてしまうことになる。なので、怒らなくてもよいときに怒ったり、傷つかなくてもよい場面や立場でも傷ついてしまうということが起こる。
 それは共感性と呼ばれることもあり人間としての美徳の一つでもあるのだが、何ごともほどほどでなくては害になる。自分の領分をわきまえてその外側で起きている事柄からはきちんと心理的な距離を保つ。そのようにして自分を守ろうとする態度はいささか冷たくて利己的な感じもしてしまうものだが、しっかりと自分を守り平穏無事でいなくてはいざというときに共感する相手の味方になることもできない。それでは、せっかくの共感性がもったいないではないか。


 私たちはまず、自分自身が強く安定した存在になることを目指すべきではないだろうか。昔よりは改善されてきているとはいえまだまだゲイにとっては生きづらいこの世の中でも、自分らしくしたたかに生きていくことはできる。そのためには見たくない考えたくないといって遠ざけてきたものを直視しなければいけなかったりといろいろ大変ではあるが、それを試すだけの価値があるゴールはちゃんとある。社会が今のままでも、あなたは今より楽に自由になれる。その方法はあると私は自信を持って言うことができる。

 

 もちろん、ゲイに対して好意的な人たちが増えれば増えるほど敵対的な他者の声が内在化されてしまう契機は減るのが道理であるので、ゲイの解放運動はこのまま続けていったほうが断然いい。ただ何度も言うが、社会を変えるというのは本当に難しいことでそのうえ途方もなく長い年月も必要とする一大事業なのである。とにかく自分がまず救われたいからと一縷の望みを託して解放運動に参加しているという人は、残念ながら遠からず失望する羽目になるだろう。

 だが、まず自分が救われたいのだというその願いはけして間違いでも卑怯なものでもない。むしろ当然だ。私はそういう人にこそ微力ながらもなんらかの助力ができるような存在でありたいと考えている。私のような学者でも識者でもない一般おじさんがうんたらかんたらと、唸り苦悶しながらも経験と知識となんやかんやを総動員してこのサイトで記事を書き続けていく動機はたったそれだけなのだ。



 では最後に。男性同性愛者解放運動にもしかしたら利するかもしれないアイディアが1つ浮かんだのでそれを恥ずかしながら開陳して本記事を締めたいと思う。そのアイディアというのは、『シングルマザーとゲイのマッチングを推進すること』である。

 肉体的にも性自認的にも男性ではあるが性指向的にゲイである(こう書くと我ながら非常にめんどくさい)私がこういうことを言ったって眉唾なのだろうけども私が思うに、女性は、『性的な報酬を提示しなくとも味方になってくれる男性』を強く求めているものだ。そしてシングルマザーとして生きていくことを選択した女性たちは少なからずヘテロ男性に失望し懐疑的にもなっているはずなのだ。
 けども経済的に、役割的に、シングルマザーたちの多くは日々高い壁、限界を痛感している。そこへ、なんとかして社会へ貢献し自分たちの有益性を示せる方法はないものかと模索している(そして家族や親族から結婚はまだかとせっつかれてもいる)男性同性愛者たちを今よりももっと積極的に(言い方は悪いが)あてがっていくというのはどうだろうか。

 これなら、法制度的にはまったく今と変える必要もなく今日からでも実行できるゲイによる社会貢献の1つの形となりうるのではないかと私は思っているのだが。どんなもんでしょうか。ご意見お待ちしております。

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