真実の愛と最高の愛

 愛というテーマに向き合うのがときに難しいのは、誰もが愛の当事者だからだ。愛についてのそれぞれの考え方があり、そしてそれは人生を生きていく上で重要な基礎の一部を成している。

 人はあまり愛について語らない。愛をテーマにした作品は無数にあるのに、自分個人にとっての愛とは何かというような話を誰かとする機会はとても少ない。どうしても一般論になってしまう。でも興味はすごくある。もどかしい。そんな感じだと思う。


 一言で愛と言ってもそれが指す関係性はさまざまある。恋人同士の愛、家族の愛、仲間や友人との愛などだ。そういったさまざまな愛を強さとか到達度とかの尺度に照らして順位付けしたがる傾向もよく見受けられる。これぞ究極の愛だとか愛の極北だとか、エンタメ業界は特にそういうのが大好きだ。そしてエンタメ業界が描く愛のほとんどは恋人同士の愛だ。

 恋人同士の愛というものは情熱的である一方、冷めたり終わったりするもので、なんなら終わりがあるからこそ美しいのだと言われたりもするものだ。でも私はそこが不満だった。命よりも断然短いようなのが究極ですかそうですかといって斜に構える自分がいた。真実の愛というものがもしあるのならそれは終わらないものであってほしかったのだ。


 それで以前私は、強さや激しさや持続性や堅牢さや学術的根拠といった多様な尺度でもってさまざまな愛を比べてみたことがある。結果、真実の愛と呼べそうなものは一つしか残らなかった。それは「子に対する親の愛」だった。

 もちろんこれは私見である。お前の中ではそうなんだろうと思っていただきたい。だが前述の結果を得て以降、私の認識はすっかりそこに定まってしまった。頭だけでなく心でも、「真実の愛と呼べるのは子に対する親の愛だけである」という結論を受け入れてしまったようだった。

 そうするとそれ以外の愛の名を冠された関係性のすべてが、私の目には偽物に見えるようになってしまった。偽物でないなら代替物、前駆体、そのようなものに。

 恋人の愛は性愛と愛着と承認のミックス。そこに義務や責任や諦観その他が加えられたのが夫婦の愛。仲間の愛は親しみと連帯感と帰属感とそれから……といった感じで、子への愛以外の愛はどれも後から必要に応じてこしらえられたゴテゴテとして不確かなものにしか思えないようになっていった。


 じゃあ結婚して子供をもてばいいじゃないという流れになるところなのだが、困ったことに私はゲイだった。私も人の子であるので真実の愛の受け手としての資格はあるが、与える側にはなれないのだ。この(私的な)事実を受け入れられるようになるまでは長くかかったし、たいへんつらかった覚えがある。

 もしかしたらという観念はときに人を苦しめる。過去現在未来のあらゆる条件を気ままにいじくった結果得られた別の現実という「無いはずのもの」を次々に目の前へ並べられて今どんな気持ち? と訊かれる。そんなことを自作自演で何遍も何遍も繰り返してどんどん憂鬱になっていく。変えられない条件を変えたとしたらどうだろうなんてことは考えるだけ時間の無駄だ。だがそうとわかってはいてもどうしても考えてしまって止められない。もしかしたらもしかしたらもしかしたら。終わりはないように思えた。


 自分は自分でしかない。句点を入れても11文字。シンプルすぎる、嫌気が差すほどありふれた前提だが、こいつをしっかり掴むのは容易ではない。だがそれをどうにか成し得たとき、自分には縁のないあらゆる可能性を諦めるための長い長い努力がようやく実を結んだとき、「もしかしたら観念の呪い」は砕けた。

 私が真っ先にしたのは真実の愛の半分を切り取って捨てることだった。そして私は親にはならないと改めて決めたのだが、もう後悔はどこからも湧いてこなかった。
 私が思う真実の愛は変わらず「子に対する親の愛」のままだったが、私が実行できる最高の愛の座はいまや空いていた。なんだって好きな愛を選んでそこに据えることができた。そのころには、ほかの愛たちが紛い物に見えるというようなこともなくなっていた。「真実」は動かせないが、「最高」は自分で選ぶものなのだと知った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?