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一枚の自分史:山への傾倒~後立山縦走

1973年、23歳の夏、後立山縦走をした。

針ノ木雪渓を上がって
針ノ木岳~スバリ岳~赤沢岳~鳴沢岳~爺ケ岳~鹿島槍ケ岳~五竜岳~唐松岳~八方尾根を下る

それまで単独行できそうな山には登っていたが、限界を感じていた。
経験者の多い山岳会に入らないと、アルプスには行けない。そこで「山河童クラブ」という社会人山岳会に入会した。

ご一緒したのは四人の山の大先輩たち。生まれて初めての本格的なアルプス縦走はいきなり最難関 E ランクとか・・・、八峰キレット、不帰嶮と呼ばれる難所を2箇所も通過する。

しかも、山の装備は横長のキスリングザック。その中身は2 L のポリタンク、生米、生野菜に味噌漬けの生肉など。今のとことん軽量化した登山装備から見たらとんでもなく非合理でファンキーな重い荷物を担いでいた。
すでに、アルファー米(乾燥米)とかあったのだが、アルファー米なんてのは邪道だ!とか、日本の冬山にダウンは不要など。精神論を振りかざすロートルとのパーティだった。軽いに越したことないのに・・・。
狭い岩場を通過をするたびに当たってしまう横長のキスリングザックより、縦長のアタックザックの方が安全で理にかなっていた。
ただし、テントなど重量で嵩む荷物をパッキングするのには適していない。縦長だと荷物のバランスをとるのが難しいからだ。そう言われて、そんなものだと思いこんだ。
夏山縦走したかったから、ボッカトレーニングで25キロ担いで歩いた。冬山に行きたかったら30 kg 担げと言われて、六甲山や金剛山で、日曜日はトレーニングを積んだ。そして、初めて参加を許された縦走だった。最初はお客さん扱いだった。

そうそう、思い出した。剣岳の写真は上から覗く旧式のMAMIYAのカメラで撮影されたものだ。

信濃大町から針ノ木雪渓を上り切ったところで疲れ果てて休憩をしている。山のベテランからしたら、この際、鍛えておこうという意図があったのだろう。女子だからと容赦はなかった。

私は、疲れているからといって、ぼやぼやしていた。ポリタンクの水をザックの上に零してしまった。すかさず叱責が飛んできた。ザックに溢れた水を飲めと言う。いけないと思いすぐにザックに口をつけて吸い込むようにして飲んだ。メンバーから、え!とういう無言のリアクションがあった。
「このお嬢さん、本当に飲むとは思わんかったわ」
 と大笑いされた。
水場のない縦走路では水は貴重だった。山小屋で買ったばかりの命の水だった。
ここからはやっとメンバーとして認められたような気がした。

生まれて初めての雪渓歩きで緊張した。雪渓から吹く風は夏とはいえ体を冷した。一面に立ち込めたガスの匂うキレットの鉄の垂直の階段で指が凍えた。雷鳥に心慰められた。天幕を湿らせた山飯を炊く水蒸気が温かくよみがえってくる。

当時の私にとって山に登ることはある意味、現実からの逃避だった。
卒業後、親の希望で事業を手伝っていた。その日々に充実感を得ることができなかった。新しい環境の中で頑張っている友らが遠くに感じられた。
きついトレーニングはそんな私を慰めてくれた。くたくたに疲れて眠って思考することから逃げた。現実逃避が目的だったが、ミイラ取りがミイラになった。

後立山縦走からボロボロになって帰ってきて、三日もしたらまた山に行きたくなった。ただただあの厳しい山中に身を置くことがしたかった。そのことが一番生きている実感を得ることができたのだ。
一生続けたいと思いながら、今しかないできないんだろうなという思いが、余計に山に傾倒させた。
雨が降ろうと、雪が降ろうと、槍が降ろうと、山に居るだけで幸せだった。どっぷりとその魅力にはまっていった。
今だけと決めていた。夏山から冬山へ、ゆるゆると続く縦走路より、厳しい岩稜を求めて出かけた。仕事以外のエネルギーをそこに費やす青春だった。

そして、結婚したことにより、生活は一転した。覚悟はしていたが、しばらくは、山から遠い日々を恨めしく思った。

再び、山に向かえるようになるまでに20年を経た。子育てが一段落したころ、中高年登山ブームがやってきた。
難易度の高い山には登っていたから、やり残していた山を、仲間と楽しく登った。

今ごろは 山頂には冠雪、中腹から三段紅葉が下りてきて、紅葉最盛期を迎えているのだろう。
そろそろ、山に行きたいと思う。山カフェでいいから、どっぷりと紅葉の山に浸りたい。
またあの山恋が復活し、 気持ちが切り替わるのではないかそんなこと思っている。
このままではフレイルへとまっしぐら・・・。いかん、いかん。

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