Growth Minder

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企業におけるサイコパスとブラック企業

日本は、ブラック企業が多いと言われているが何故なのか、とアメリカ生活から戻ってきて10年経過した自分の疑問は、未だに未解決のままでした。 帰国して10年、実に5社で働いて感じたのは、外資系を含め、会社都合なのに自社都合で辞めさせる文化は普通に行われている気がしています。 会社都合での解雇などは、アメリカの方がもっと頻繁に普通に行われているというイメージが強いものの、アメリカでの就労は正社員としては3社、うち1社だけが会社都合の解雇、理由は合併によるチームの解散でした。

    • 留学の実況中継:フレッシュマン ブロークン・イングリッシュ

       フレッシュマンから一旦ESLへ話を戻そう。 ESLに入ったばかりの頃は、英語の聞き取りもままならないが、数ヶ月で講師の英語が分かるようになる。 しかし、話している内容の要点が分かるというレベル。 恐らく、留学が初めてのスピーキングの場所になっている人にとっては、皆同じ感覚だろうと思う。  その頃から、自分で手を上げて発言できるように徐々になってくる。 そうなる原動力は、他国の留学生が話すブロークンイングリッシュだ。  「自分の英語もブロークンで上手く話せないのが

      • 留学の実況中継:フレッシュマン フレッシュマン

         ESLの過程が終了すると、いよいよ正規のクラスの受講を開始することになる。 この時期を迎えるまでに、渡米から概ね1年が経過していることが多い。 勿論、交換留学など英語のクラスについていけるだけの英語力がある生徒に関しては、もっと短期間で正規のクラスを受講するまでに至っているかもしれないが、私は正直、時間がかかったものの、ESLに1年を費やしたことは、決して時間の無駄ではないと思っている。  フレッシュマンというのは、1年生のことを指す。 1年生:Freshman フ

        • 留学の実況中継:フレッシュマン 留学への興味

           留学を目指すとしても、そもそも留学に興味がなければ、意味のないお金の使い方になってしまう。 留学に興味がないのであれば選択肢の一つとしてはカウントしないことである。 なぜかと言うと、留学にはかなりの費用が掛かるのと同時に、勉強をしないと卒業するのが難しいので、それなりに心理的なストレスが常時かかることになるため、覚悟が出来ないのなら挑戦しない方がいい。 留学はお金持ちの道楽だという考えを持つ人もいると思うが、道楽であろうがなかろうが、留学の機会を得たのであれば、日本で

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        企業におけるサイコパスとブラック企業

          留学の実況中継:フレッシュマン 挫折から出た光

          1995年の春、私は一浪の最期を締めくくる大学受験を全て終え、あと数校の合格発表を待っている時だった。 現役では全滅、一浪の最後も全滅で締めくくろうという瞬間だった。 父の「どうせ、全部だめだと思うよ」という冷酷な言葉が心に刺さるも、図星だったこともあり、同意せざるを得なかった。 私は、高校受験も大学受験も第一希望を通過したことはない。もっと言うと、様々な通過点において第一希望は通過していない。 原因の一つは、身の丈を理解していなかったというのもあるが、何よりも、目指

          留学の実況中継:フレッシュマン 挫折から出た光

          父への手紙 最期に贈る言葉

           この執筆を終えた時には、父は、もう読むこともできない状態でもあるし、この世を去っているかもしれない。 家庭を顧みずというのはよく言われることではあるけれど、父の生まれた世代では、それが当たり前な立ち振る舞いで、がむしゃらに前進しなければならない世の中であったことも今では理解できます。  日本は、ハイコンテクストな社会と言われ、「言わなくても言いたいこと分かるでしょ」の社会かもしれない。 しかし、それは日本だけの話。 そんな日本においても、言わなければ分からないことは

          父への手紙 最期に贈る言葉

          父への手紙 19 いつの時代も中央大学法学部が世界一

           中央大学の卒業生及び在校生にとって朗報ではないが、父は中央大学が東大よりも優れた大学であると言い続けて、アルツハイマーと未知との遭遇を果たした。 以降、話せなくなったので、今でも同じ思いでいるのかを確認できずにいる。  就職した先が、海外の顧客を専門に扱う子会社だったため、英語はできたのだろう。 当時、名古屋に住んでいた父は、英語の強い南山大学が進学先の候補でもあった。  英語が得意だったため、外交官を目指すことにしたのだと言うが、そこで中央大学法学部へ進学する。

          父への手紙 19 いつの時代も中央大学法学部が世界一

          父への手紙 18 保育園の送り迎え

           両親が共働きだったので、保育園に通っていたが、ごくたまに父が休暇を取った時には、自転車で保育園まで送り迎えをしてもらったことがある。 片手で数えられるくらいの回数である。  もともとは、兄同様に幼稚園に通っていたものの、途中から母が働くようになったか、あるいは途中から保育園に空きが出て通えるようになったかどちらかの理由で、保育園に変わったと記憶している。  普段は、母が車で送り迎えをしてくれていた。 早番と遅番があり、遅番の時は、いつも私が最後に迎えが来る生徒だった

          父への手紙 18 保育園の送り迎え

          父への手紙 17 母の入院

           そんな母任せの父にとって、母の入院は青天の霹靂だった。 あれだけ家族に興味を示さなかった父が、私のお弁当を作ってくれたり、母のお見舞いに毎日行くために、毎日早く帰宅して病院にお見舞いに行ってから帰宅するというルーティンを始めたのである。  当時、私は母の病院には一度も看病でいけなかったのだが、そのルーティングが始まってからは、毎晩の夕飯の支度は父がしていた。 もともと、レパートリーは殆どないものの、自炊はできる。 私としても、メニューにこだわりはなく、父の作る夕飯で

          父への手紙 17 母の入院

          父への手紙 16 世界一母任せ

           父は、団塊の世代に生まれた典型的な昭和の男。 日本経済の急速な成長に貢献をした傍らで、家庭や育児はほぼ妻任せという世代でもある。 父も、ご多分に漏れず母任せな昭和の男を貫いてきた。  このタイプの昭和男を別の言葉で言い換えると、仕事を取ってしまうと家では、「二宮尊徳像のような動かない読書家」、「家電設置の作業を傍観する野次馬」、「食べる時間になると巣穴から出てくるプレーリードッグ」、少なくとも、父への尊敬の念と世界一の愛情をもって表現とすれば、こんなところだろう。

          父への手紙 16 世界一母任せ

          父への手紙 15 「長渕剛(ごう)」と「WOWOW(ウォウウォウ)」

          父は、読書家であり、英語の読解も良くできた。 だから、漢字の読みも英語の読みも問題はないはずだった。 しかし、一部、どうもしっくりこない読み方で食い気味に来る癖が治らなかった。 これを癖と言うのであれば、それは生まれながらに持っている行動パターンであり、それを持って生まれた才能と呼ぶ人もいることだろう。 私は、それを才能と呼ぶ人間のうちの一人である。 私は、長渕剛の高い声で歌っていた時代のファンであり、初めて聞いた「乾杯」は、若い時代にレコーディングされたものだ。

          父への手紙 15 「長渕剛(ごう)」と「WOWOW(ウォウウォウ)」

          変化を選ぶ デジタルな雑念にとらわれない生き方

          人生の中で、ライフスタイルを大きく変えるということは、単に日常生活を変えるということではなく、これまで慣れ親しんできたことの核心に挑戦するということだと感じる。 多くの場合、これはテクノロジーへの根強い依存のように、社会的規範や個人的習慣から離れることを意味する。 スクリーンに映る時間を制限しようと初めて決めたとき、見知らぬ世界に足を踏み入れたような不安を感じたことを覚えている。 慣れない世界に足を踏み入れたような気分だった。 しかし、ここに変容の本質がある。 苦痛

          変化を選ぶ デジタルな雑念にとらわれない生き方

          音楽に魅了される

           私が生きた時代は、令和の時代よりも音楽番組が多く存在していた。代表的なのは、ベストテンやトップテンといった名前の番組で、主に歌謡曲アーティストがテレビに出演して歌うというもの。  ザ・ベストテンは、私が二歳の時から、ザ・トップテンという番組は六歳の時から放映されていた。  保育園で歌手やアイドルの歌真似もしていたと思う。  それくらい、この時期はバンドというものは少なかったと思う。  ただ、音楽に魅了されたのは、保育園から小学生の時であるのは間違いない。  当時、

          音楽に魅了される

          バンド活動で教えられた経営理念

          はじめに 私は、大学受験に失敗をした後、得意だった英語を活かして、アメリカ留学を決意した。     留学などできるような家庭で育ったわけではなかったが、父の人事異動とともに、留学が可能な環境が大学受験失敗直前で揃うという、奇跡的な転機に恵まれた。    父は、私に一流大学への進学を期待したが、その期待には完全に押しつぶされていた私は、一浪を経験するも全滅。    父は、私の受験の姿勢に対しては、よくやっていると認めてくれてはいたが、成果が遅い原因は、勉強の仕方にあると既に分か

          バンド活動で教えられた経営理念

          父への手紙 14

          スポーツだったら監督派 父は、行動派か理論派なのかどちらかと言われると、理論派なのかもしれない。  自称学者肌だったので、理論派で間違いないだろう。  行動派の面もなくはなかった。  テニスとゴルフがいい例で、運動はウォーキングや登山以外にやっている記憶がないが、テニスは当時流行り始めていたテニススクールに通い、ゴルフは接待ゴルフがあるために、ドライブレンジで練習するなど、定期的に練習に足を運んでいたのは覚えている。  他に覚えていることと言えば、「練習=上達の方程式

          父への手紙 14

          父への手紙 13

          絶対飯は食う 父は、どんな環境でも、どんなに文句を言っても、飯だけは食う、絶対死なないルーティンを持つタイプ。  医者の知り合いに、自分の子供が発症する病気について聞いた時、「食べてる?」「ぐったりしてる?」という二つをよく確認されるが、嘔吐したり、熱があったり、咳がひどかったり、色々な症状が出ていたとしても、しっかり「食べて」いて「ぐったりとしていない」なら、そこまで心配はしなくても大丈夫とよく言われる。  父は、この2つを常に持ち合わせている。  アルツハイマーを発

          父への手紙 13